2014-08-17

【2014お盆企画】飢饉は何故起こるのか? 非常に貧しいから起こるのではない。

旅行先や帰省先でご馳走をいただく機会が多い時期ですが、今回はあえて『飢饉』について考えてみます。

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史実を元に、『飢饉は、非常に貧しい所で起こるのではなく、貨幣経済に依存している都市的な所に起こる』と、考察している著作「続・日本の歴史をよみなおす 第五章 日本の社会を考えなおす(網野善彦著)」を紹介します。

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●飢餓はなぜおきたのか

飢饉が本格的に問題になりはじめるのは十三世紀ごろからだと思います。もちろん古代から凶作はあったと思うのですが、社会にそれが決定的な意味を持ち、政府が飢饉そのものを正面から取り上げなければならない状態になるのは、有名な寛喜(かんぎ)の飢饉(一二三〇年)や、正嘉の飢饉(一二五八年)からではないでしょうか。
それ以後、室町時代に入り、十五世紀なかばに寛正の大飢饉があり、江戸時代になると、まず寛永・延宝の飢饉が有名ですし、享保・天明・天保の三大飢饉についてはあらためていうまでもありません。

気候の変動による凶作がその原因であるのはいうまでもありませんが、それが飢饉という現象になってあらわれてくる理由については、あまり煮詰められてこなかったと思います。それゆえ、あらためて飢饉の実態を、本気で追求してみる必要があります。
一例をあげてみますと、『妙法寺記(みょうほうじき)』という、十五世紀後半から十六世紀にかけての、甲斐国の富士吉田の状況を非常に詳細に書いた記録が残っています。 甲州では国中(くになか)にたいして郡内といっていますが、都留(つる)郡の吉田のそのころの事情が細かくわかる大変おもしろい記録です。

これを見ますと、しばしば小規模な飢饉がおこっています。売買が高いと飢饉がおこり、売買が安いと世間が富貴(ふっき)すると記録されていますが、売買されているのは、米、大麦、小麦、アワ、ヒエ、大豆という穀物です。だから食料の物価があがると餓えるといわれているわけです。また、「銭けかち」というおもしろいことばがあり、十六世紀になると銭不足がおこっています。これは撰銭(えりぜに)が行われて、悪銭が通用しなくなったため銭が不足して、そのためにせっかく売買が安いのに代銭がないということもおこっています。

それはともかく、これまで郡内は、記録にも飢饉がしばしば出てくる非常に貧しい地域だと多くの学者は考えてきたと思います。実際、郡内地方は、いまでも水田はきわめて少ないのです。水田がないと貧しいという常識からいうと、山梨県全体が水田が少ないので貧しいとされるのですが、国中の平野地域は、山梨県の中では水田が多いからやや豊かなほうで、郡内は山の中で水田がないから貧しい所だとこれまでは考えられていたのです。

ですから『妙法寺記』に、「けかち」「世間が詰まる」のような記事が出てくると、吉田には田地がなくて貧しいから飢饉がおこったのだと考えられてきたのですが、さきほどいったように、穀物の値段が高いと飢饉がおこっているのですから、この地域は食糧を他から購入している地域であったと考えなくてはなりません。

だからこそ、穀物の値段が下がると豊かになるという状況がみられたので、郡内は、貨幣-銭で食糧を買っている地域だったのです。どうしてそのような銭を儲けているのかを調べてみますと、富士参詣の道者(どうじゃ)がたくさんの参詣人を吉田に連れてくるのですが、そうした人たちが吉田の宿坊にとまり、銭をおとしていくわけです。 つまり、十五、六世紀ごろの吉田は、都市的な地域だったと考えられるのです。

飢饉はまずこのような非農業的な地域、都市的な場におこるのだと思います。この地域では、有名な郡内騒動が幕末におこりますが、これもやはり凶作、食糧不足が原因なのです。これについて、すぐれた近世史研究者の山口啓二さんが『鎖国と開国』(岩波書店)でふれておられます。

とすると、寛喜のころから飢饉がおこったということは、十三世紀前半には、鎌倉や京都などはもちろん、各地に都市的な場所が顕著に現れており、まずそういう場で飢饉がおこったのだと考えられます。われわれ自身の、戦争中から敗戦後にかけての経験からいっても、実際に食糧をつくっている地域はそう餓えるものではありません。そこから切り離されて食糧を購入している都市民がまず干上がるのは、考えてみればあたりまえのことです。

そうなりますと、江戸時代の三大飢饉とされている享保・天明・天保の飢饉、東北に餓死者が大量に出たとされている飢饉も、単純に東北が貧しいからだとはいえないのではないでしょうか。農村地域に壊滅的な飢饉がおこったと考えてよいかどうか、この点は徹底的に再検討の必要があると思うのです。つまり東北は、意外に都市的な性格を持つ地域だったのかもしれません。だからこそ、作柄の不況によって決定的なダメージをあたえられた可能性も充分あります。

米価と飢饉の関係を示すグラフ米価と飢饉の関係を示すグラフ(※当ブログ著者による補足)

このように、飢饉の問題もこれまでとは違った角度でとらえなおす必要があるのです。これまで、江戸時代の貧しさと悲惨さを飢饉で象徴させてきたと思いますが、じつはまったく逆で、都市的な世界が広くひろがっていて、そうした都市的な人口が高い集中度を持っていたがゆえに、不作・凶作がそういう地域に決定的なダメージをあたえたのだと理解しますと、むしろ飢饉のひどさは都市化の進行の度合いを示すという捉え方も可能になってきます。

●封建社会とはなにか

最近、やはり奥能登の旧家の上梶(かみかじ)家に保存されていた、手製の手習のお手本を調査する機会がありました。その中で、たまたま元禄十三年(一七〇〇)の手本を見ていましたところ、「此三四年打続、餓死及、人民共難儀仕候、喰料御才覚頼入候(くいりょうごさいかくたのみいりそうろう)」という文章のあるのをみつけました。もちろんこのころに飢饉がおこっていたわけではないのです。 これは百姓の願書の文例集ですから、困ったときはこのように書くのがふつうだったのだと思います。ですから、百姓の申状に飢饉で餓死しそうだとあってもすぐに信用するわけにはいかないのです。 これは中世でもしばしば見られることで、百姓のこうしたしたたかさを十分に計算にいれて文書を読む必要があるのです(橘川俊忠氏「史料としての手習本」『歴史と民俗』12、平凡社)。
(引用以上)

現代人のほとんどは、食料供給を市場システムに委ねています。したがって、もし市場システムに異変が起きれば食糧供給が停止し、飢饉が起きないとも限りません。

また、そこまでいかずとも、期限切れ食品や食品への毒物混入、はたまた人工物質や遺伝子組み換え作物など、食料供給を市場システムに委ねた結果としての問題がニュースにならない日はありません。

生きる糧を、市場という欠陥だらけのシステムに委ねるのは、そろそろ限界に来ているのではないでしょうか。食料生産を身近な集団や地域で担う、新しい社会システムが求められているのです

参照記事: http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=285207

 

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