2020-12-31

何故『自然界で実際に起きていること』を近代科学は認めようとしないのか1

ルヴランの死後も、その意思を継いだ研究者によって数多くの報告が上がっています。
その中でも、特に注目すべきはチェルノブイリから南に100Kmほどのキエフの研究グループによって確認された、バクテリアによる放射性元素の安定元素への転換実験です。この「MCT(微生物触媒転換体)」と呼ばれる元素転換技術は、1996年にロシア連邦特許として正式に認められている。にもかかわらず、『自然界で実際に起きていること』がなぜ顧みられることがないのか。

その理由のひとつが近代科学の「科学的事実」「科学的証明」の誤りにある。

数学は魔術とは違う科学的なものだと思われているが、実は地続きである。ただし魔術(錬金術)はつくりだされるものは事実として認めるが、近代数学は、数学に合わない事実は無視してしまう、非常にいかがわしい魔術である。

 

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リンク より引用

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<科学的証明とは?>

科学的証明に必要な条件には、一般的には次のようなものが求められます。

1. 定量性:量れるかどうか=数字に置き換えられるかどうか
2. 再現性:同じ条件で同じ実験をして同じ結果が得られるかどうか
3. 正確さ:精密な実験器具による正確な実験と測定

第一に、証明の対象が測定できなければ(数字に変換できなければ)話になりません。近代科学的な意味では、比較することも実証することもできないからです。 逆に言えば、数値に置き換えることの難しい「心」や「生命」など観念的なものや総合的なものは近代科学ではうまく取り扱えないのです。

実際に、東洋医学の「気」やその通り道である「経絡」などの概念も、二千年以上の歴史と実績を持ちながら「科学的根拠がない」という理由で、明治の近代化政策以降、医学として認められなくなってしまいました。

第二に、「正確な事実」を立証するために、近代科学は自然界に「誰が何度やっても同じ結果が出る」ことを要求しました。

ところが自然界に「こうすれば必ずこうなる」という再現性のないことは、百姓なら誰でも知っています。 例えば、同じミカンから採った同じくらいの大きさの種を同じ場所から採った土で同じ場所で同じように育てたミカンは果たして同じ形に育ち、同じ数の実を実らせるでしょうか?そんなはずはありません。なぜなら自然界には全く同じ種も全く同じ土も全く同じ環境も存在しないからです。逆に言えば、その再現性の無さこそが、生命の生命たる所以であり、ぼくらがこの世界を生きた世界として体感できる理由なのです。

第三に、近代科学が古典的な科学に対してもっとも誇りに思うのは自分達の勝ち取った「正確さ」です。精密な実験器具の発達は近代的な正確な実験を実現させました。

ところが「あいまいな量子」の項で述べたように、究極に正確な測定の実現で解ったのは、皮肉なことに、自然界の持つ本質的なあいまいさ、不正確さだったのです。そして、その不正確さこそがこの宇宙を創り、保ち、動かしていることが明らかになったのです。そしてそんな究極の話しを別にしたとしても「正確な測定」に必要な、余計なものの一切無い整った環境条件とは、実験室で人工的に造りだす以外は、自然界にはありえないのです。

近代科学は近代科学がその成立の際に扱った対象は、生きた自然(生命)でなく、死んだ自然(物)でしかなかった。そこに近代科学の誤りの原点がある。
リンク より引用

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では、最新の自然科学を自負する近代科学の扱っている自然とは一体何なのでしょうか?

というわけで、今度はミカンの種を可能な限り粉々にしてみましょう。あるいは、燃やしてしまっても構いません。そうして元タネは、死んで単なる原子の集まりになると、環境を整えられた試験管の中で科学法則通りのほぼ100%の定量性や再現性を見せるようになります。つまり、近代科学がその成立の際に扱った対象は、生きた自然(生命)でなく、死んだ自然(物)だったのです。

ところが、近代科学の扱う範囲が自然界全般にわたるにつれて、植物や人体に対する薬の効き目など、再現性の乏しい生命自然現象に広く対応するために

4. 統計的、客観的にみて確かだと言えるもの

という昔ながらのあいまいな証明方法が必要になってきました。結局のところ科学の近代化も、自然界というお釈迦様の手のひらの内側の出来事だったというわけなのですが、この時点で、当初の近代科学が掲げた「誰にとっても100%の事実」の目標はあって無いようなものになってしまいました。

なぜならこの方法では、ある人から見れば統計的に客観的に確かであると言える出来事でも、別の人から見ればそうでないということがおきてしまうのです。

で、実際「科学的に証明された事実」の歴史を振り返ってみると、誰もが証明していたものが後に間違いだと解ったもの、個人的には証明されていたのに何十年も認めてもらえずにいたものなど、科学的事実は時代と共に絶え間なく更新されていることがわかります。
そして、それぞれの科学的事実は、それぞれの時代の人々にとっては確かに揺るぎない事実だったのです。

<自然科学から物理科学へ~分析という手法>

このように近代科学が、無限の複雑さを持つ自然界を有限な数式の中に収めるためにとった方法が、自然界をバラバラにして調べる「分析」という方法です。

ところが「生きている」とは、その”つながり”や”関わり合い”そのものであり、バラバラにした時点で、そこに転がっているのは死んだ自然でしかないのです。

そして、部分的な働きをどんなに正確に数式化したところで、それは実験室の外でも部分的にしか役にはたちません。
近代科学は、部分への正確な理解と引き換えに、全体の繋がりやバランスへの理解を失って、目先だけの解決や、問題を先送りにすることしかできなくなってしまったのです。

もし時間がある方は、ためしに肥料や栄養学の考え方のもとになっている元素分析の方法を見てみましょう。

実は科学者たちは、実験によって、自然界が物質元素の組み合わせのみで成ることを「発見」したわけではなく、はじめから自然界が物質元素のみで成ることを前提とした実験手法(=近代科学的手法)によって、そのことを「証明」したに過ぎないのです。

そして元素革命から200年後の2003年、“世界は元素でできている”どころか、物質元素(原子)が宇宙全体に占める割合は4%ほどに過ぎないことが最新の観測で「科学的に証明」されてしまいました。

そして、生命のもつ可能性や永遠や無限といった数字の外側の概念に目を閉じ、宇宙自然界を有限な法則の中に収めようとする旧式の物理科学には、閉塞していく、終わりに向かう未来しか予測することはできません。

そればかりか、自然界が単に物の集まりであるという前提で生まれた近代科学は、その理論の有効性を示すために大地や人体から生命力を奪う、という本来の科学の目的とは逆の事をしているのです。

List    投稿者 tutinori-g | 2020-12-31 | Posted in G.市場に絡めとられる環境問題No Comments » 

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