2009-12-10

環境問題の捉えなおし

 そもそも環境問題とは何の問題なのか?これを見誤るとどこに可能性があるのかみえないですよね。今回は、るいネットから、環境問題の本質に迫れるいくつかの記事を改めて紹介したい。まずはこの記事から。
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まず、この記事から。
環境圧力を感じる場②>消費の場に環境問題は圧力として働くのか

まず、はっきりと認識しておかなければならないのは、環境破壊の問題とは、廃棄の量が自然の浄化(復元)能力を超えているという問題です。要するに使いすぎということで、過剰消費の問題です。
ですから、「環境問題とは、消費を対象にする問題である」
そして、その構造を抜本的に変えていくという問題だということです。

とすれば、次のことが考えられます。
そもそも、消費を基盤とする場に、その場を規定している消費構造を抜本的に変えていく内圧を働かせることができるのでしょうか。自ら改善できるといっても、それは小手先で茶を濁す程度のことはあっても、抜本的に変えていくことは無理なのではないでしょうか。
なぜなら、それを自ら行っていくということは、最終的に自分達の存在する場を完全に否定することになるという自己矛盾を抱えており、自己否定に行き着くしかなくなるからです。
つまり、「消費を基盤とする場に、環境問題は圧力として働かない」ということが考えられます。
次に、家庭という場に触れなければならないと思います。
核家族化し仕事と生殖の場を分離している今の家庭は、やはり現実の圧力に対する闘争課題が無く生殖・解脱空間です。
つまり、家庭は消費を基盤とする場です。
であるならば、先ほど述べた、消費を基盤とする場に環境問題は圧力として働かない、と併せて考えるならば、「家庭という場に、環境問題は圧力として働かない」ということなのではないでしょうか。

環境問題というと環境の問題と捉えがちですが、自然の復元能力を超えた過剰消費の問題。もっというと物的消費を基盤にした市場や家庭の問題。
市場や家庭が物的消費を基盤している限り、環境破壊の圧力は流産し続けるのだと思います。逆に言えば、市場や家庭の根本にある消費構造を変えていくことができるかどうかが、環境問題の解決策に繋がっていくということです。
 
では、この市場の原動力である消費とは、具体的に何なのか。市場の起源をさかのぼる必要がありますが、その答えは実現論にあります。
実現論【性市場→商品市場の発生と繁殖】

 古代・中世・近世を通じて、また西洋でも東洋でも、その身分によって生存を保障され、生存圧力を捨象した支配階級は、忽ち解脱収束して性欠乏を肥大させ、宮廷サロン(=規範破りの自由な性市場)で遊興に明け暮れる只の消費階級に堕落してゆく。(従って、彼らは必然的に滅亡して新興勢力に取って代わられたが、その新興の支配階級も忽ち堕落していったので、性市場は絶えることなく続き、戦乱も繰り返し起こり続けた。)  
 この消費階級の主役は、宮廷サロン=規範破りの自由な性市場で性的商品価値=性権力を獲得した、支配階級の女たちである。国家に集積された巨大な富を消費する消費階級が存在する以上、その消費の場=性市場に、私権の獲得を狙う遊牧集団etc.が交易集団に姿を変えて、金・銀・宝石や毛皮・絹織物etc.を持って群がってくるのは、必然である。つまり、私権の強制圧力は、必然的に支配階級⇒堕落した消費階級を生み出し、自ら働く事なく遊興に明け暮れる消費階級は、その性市場を母胎にして、必然的に(私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない)生産階級に商品市場を作らせる。ここで最も重要なことは、『市場の真の主は、市場の外にいる』という点である。市場の真の支配者は、国家や性市場の中に、支配階級=消費階級として存在しており、彼らは直接に市場の建設を担ったりはしない。市場の創出と拡大を主体的に担うのは、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級自身なのである!
 更に中世末、ヨーロッパ半島や島国日本では、封建体制を統合する中央集権の体制を固めることができたことによって、各国の統合状態が安定する。そして、中央集権による安定した平和状態が二〇〇~三〇〇年続き、戦争圧力が著しく低下する。それに伴って闘争第一の男原理が衰退し、解脱収束→軟弱化が進んで、規範破りの性闘争(=恋愛)が勢いを得、自由な性市場が繁殖してゆく。近世には都市全域が性市場化し(例えばルネッサンスの人間主義、その中心は性であり、その象徴が「ロミオとジュリエット」や「曾根崎心中」である)、人間主義≒恋愛至上主義に導かれたその巨大な性市場を母胎として、急速に交易市場が拡大していった。

市場の起源から見えるのは、市場拡大の原動力の中心を担っているのは性であるということ。もっと具体的に言うと、金銀宝石、絹織物など女の性的価値を高める商品群には実質価値を超えた幻想価値が付加され、その付加価値が更なる市場拡大の原資となっていく構造となっている。これは今でも同じである。本当に必要な実質価値の商品は市場ではペイせずに(幻想価値が付加しにくい農業はその典型)、市場拡大の牽引役は専ら幻想価値がつく商品ばかりである(金融商品もある意味幻想価値=バブルでしか拡大できない)。
では、この市場の根底にある性、もっと言えば女の快美充足、消費充足のあり様が今後どのように変わっていくのか。これが環境問題の答えにもなっていくと思われる。
新しい充足期待の顕在化がカギ?

消費を基盤とする場に環境問題は圧力として働かない。
また消費を基盤とする場とは、市場そのもの。
そして市場の背後にあるのは性市場。
消費充足、快美充足を求める女と、それに応える男。この構図が残る限り、消費を基盤とする市場は維持され続け、環境問題は現実の圧力とはならない。
消費を基盤とする場を根底から変えていくとするならば、女の側が消費充足や快美充足といった充足期待から脱却していくという事ではないだろうか。
女を導く=社会不全を突破していく”答え充足”が新たな充足期待として顕在化してゆけば、環境問題を根底から変えていく道筋になり得るのではないだろうか。

消費が変わる。消費を変える。

 「物的市場はこれ以上拡大しない、させてはいけない。」人々の欲望のあり方を考えても、環境問題を考えても、これは絶対譲れない問題だと思う。しかし合理化が進み、より少ない資源(資本、労働力など)でより多くの物が作れるようになっていく流れは加速するばかりだ。
 だとしたら物を作ること以外で、社会に貢献する人を増やし、彼らに充分な対価を払う仕組みを作らないといけない。
 もし、2割の人が物的生産や流通を担い、残る8割の人がサービスや認識形成を担うとしたら、物という後ろ盾を持った貨幣の5倍もの貨幣が一般に流通することになる。これは自分の収入の2割は物的な消費に使っても良いが、残りの8割は認識のために使うことを意味する。
 もし、人々が貧しい時代の意識を引きずって、物を必要以上に購入したり、貨幣を貯蓄したりしたら、あるはずの物が充分に行き渡らず過剰に生産したり、失業者が増えることになる。
 逆に、人々が物の消費だけでなく、サービスや認識形成を担う人たちに充分な対価を払う仕組みと、そのための意識転換さえ出来れば、物的生産を縮小し、環境問題を改善しつつ、市場を維持→拡大できることになる。
 やはり、物の消費が第一課題であった時代は終わったということを踏まえて、消費に対する考え方を根本的に変える必要がありそうだ。

女が煌びやかものを身に付けたり、贅沢な生活をしたり、便利で快適な生活を得ることに充足を求めていた時代が終焉を迎え、共認充足が第一となった今、上記のような社会を実現できる基盤はすでに整ってきた。
みんなの役に立つ活動や、みんなの共有財産を高める活動に、8割の活動時間が注ぎ込まれ、その活動こそが皆の中心的な充足源(活力源)にしていければ、根底から環境問題の落着が実現できる。
だから、今後求められるのは、具体的な皆の役に立つ活動(仕事)の創出や、何をみんなの共有財産とするか、その価値をどう指標化し活力へとつなげていくか等々の具体策と、それを行なう事で過剰消費はどれくらい抑制されるか、エネルギーは循環できるのかなどの検証だろう。
みんなの充足を第一価値とした新しい生産・消費の枠組みを実現。これが環境問題解決の基本路線なのだと思う。
次回は新しい社会の枠組みについて記事にしたいと思います。

List    投稿者 nannoki | 2009-12-10 | Posted in G.市場に絡めとられる環境問題No Comments » 

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