【年末・年始特別企画】母なる地球:草木は飲み水を、大気を質量として創り出している。
現代物理学が「トンデモ」物理である事を体系的に論証し、反エントロピーの理論を唱えている 佐野博士が論考した「母なる地球:草木は飲み水を、大気を質量として創り出している」を紹介します。
太古から人類は大自然を畏怖し一体になろうとしてきました。何故なのか?その答えが物理学的に証明されようとしています。
ちなみに
天下泰平さんのブログの「日本人が知らない天才「佐野千遥博士」」が紹介されていますので一読をお薦めします。
環境厳密物理学リンク
実は宇宙空間に大気はゴウゴウと散逸して行っています。宇宙空間とは殆ど真空なのですから、それは当然です。重力が空気の分子を繋ぎとめている、と言っても限度があります。地球は宇宙空間に対し、光速の1/137の凄まじい速度で運動してもいます。つまり大気は宇宙空間にごうごうと撒き散らされています。
つまり地球は大気を日々失っている、にも拘らず、月を50億年間その重力で繋ぎとめているのは、地球質量喪失を、遠い昔は善玉菌が、そして後には野山に生えている草木が酸素、水を常温核融合により質量創造して補填してきているからです、と申したら皆さん驚かれると思います。しかしそれは厳密科学的真実です。
母なる地球:草木は飲み水を、大気を質量として創り出している。
<湧き水が何故高山に有るかの不思議>
山間を勢い良く流れる大量の清流を見る度に、不思議に思われるのである。
高地における湧き水は多くの場合、決してその上流に万年雪を頂いた高山が聳えている分けではない。これ自体が既に不思議である。奥山のそのこんこんと湧き出る大量の清水は一体何処からやってくるのか、どうやって作られているのか?
例えば丹沢、大山を水源とした神奈川県の真ん中を北から南に流れている鈴川を見て見よう。鈴川の水流は毎秒10トンである。この水が全て水源付近に降った雨によって供給され得るものか見て見よう。水源地丹沢、大山が約100平方キロ・メートルの地域に降った雨を集めて鈴川に提供している。降水量は月平均125mmであるために、月当たりを毎秒に変換すると約毎秒4トンでしかない。雨水は蒸発する事も無く何か別目的で使われることもなく全て川に流れ込んでいると仮定しても、既に6トンの食い違いが出て、雨水だけでは説明が付かないのである。
重力の影響で、水は高い所から低い所に向かって流れる。川は山から平野を通って海に向かって流れ下る。
水分は、一部は蒸発して、雲となり、雨となり山、平野、海に降り注ぐ。雨として山に戻される水分が有る事は事実であるが、しかし山から流れ去った水の全てが雨として山に戻って来る分けではなく、雨として山に戻るのは山から流れ去った水のほんの一部分にしか過ぎない。山に戻るのはせいぜい30%であろう。雨としてその山に戻った水が川となって再び平野、海に流れくだり、蒸発して、雲となり、雨となって再びその30%が山に降ったなら今度は山に戻る水は元、山に有った水の9%だけとなる。更にこのサイクルが繰り返されれば山に残る水は無限に0%に急速に近づく。
このサイクルが繰り返された場合、山の高ければ高い場所で有れば有るほど、益々水分に欠乏し、遂には山の高い部分から砂漠化が進行してしかるべきである。そしてその山頂から始まる砂漠化はそのうちにそれ程高くない山、丘の砂漠化を引き起こす事が論証される。
しかし山に草木が茂っている限り、山は決して砂漠化しないのである。何故か?!
<地球の大気はほぼ真空の宇宙空間にごうごうと散逸している>
金星と違って地球の場合には磁気がしっかりしているから、大気の宇宙空間への散逸はそれほどではない、とか地球物理学者達はいっているが、気体が真空空間と接しているのだから、実は相当な勢いで散逸している。質量を失っている。
にも拘らず地球は50億年間、月を衛星として繋ぎとめてきた。という事は地球は大気としての質量を日々大量に消失しているが、総質量は50億年間変わっていない事となる。
この質量問題を説明するには別ブログで光エネルギーとヘリウム原子核の質量を大量に放射し続ける太陽が、惑星を数十億年に渡って繋ぎとめているためには、エーテルが流れ込んで質量とエネルギーを補充していると書いたが、その同じエーテルの流入を適用しなければ地球の場合もその質量問題を説明できない。
しかし地球の場合、表皮の地殻は不活性化した物であるから、散逸した大気を地球の内部からの酸素と窒素のガスが噴き出して補充しているという論は成り立たない。ましてやその論では質量を日々消失する地球がその失われた質量分を取り返す事を説明できない。
大気の補充は太陽エネルギーと宇宙に充満するエーテル・エネルギーを草木が質量に変換して行っている。その質量とは水としての質量である。これは草木が地球上に有る水素と酸素等の元素を化学的に使って水を作るという事では全くない。その論では質量を日々消失する地球がその失われた質量分を取り返す事を説明できない。つまり草木は光合成で水と二酸化炭素と日光から自分の身体の炭水化物を創り出し、それを酸素呼吸によって燃焼させて、水を発生させ、それを又光合成に使う、水のリサイクルをやっているのだが、太陽エネルギーと宇宙に充満するエーテル・エネルギーを利用して水の増殖を行っているという以外に、上述した余剰水の説明ができない。
空気中の酸素の存在比20%は、草木の光合成の発生酸素だけによっては説明がつかない。この製造された余剰水のある部分が先述した奥山の湧き水となり、又その余剰水の残りの部分が太陽の紫外線を浴びて酸素と水素に分解され、酸素は原子が重いので地表近くに残るが、水素は軽いので上空へ上空へと上がり、宇宙空間に散逸して行く。つまり草木は太陽エネルギーと宇宙のエーテルエネルギーを使って水の質量製造を増幅し、我々の飲水と呼吸するための酸素を日々質量として創りだし続けてくれていることとなる。
以上論じた事から、野山に生えている草木とは母なる地球にとっても崇高なる使命を帯びた者であり、我々人類が草木を如何なる躊躇もしないで大量伐採して続けているのを見るに付け、人類のその愚かさ加減に重大なる警告を発したい。
環境を保全するという崇高なる使命のためには、このような基礎物理科学にまで遡らなければならないのである。
もう一度申し上げたい。徹頭徹尾我々人類が生きられる為に我々に尽くしてくれている草木を邪険に扱ってはならない。打算や儲けのために草木を伐採するのなら、それは草木に対する冒涜である。宇宙の片隅の地球で巡り合った草木に日々愛情を込めて水を上げるのが、我々が草木に対して取るべき態度ではなかろうか?
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