【年末・年始特別企画】現代の医学教育~近代医学という“真理”を信じる者しか医者になれない
医学界の腐敗を鋭く追及した山崎豊子原作の「白い巨塔」は、’63~’68年までサンデー毎日で連載されると映画化され大きな反響を呼んだ。その後、’78年、’90年、’03年と何度もドラマ化されるほど人々の関心を誘った。これは、高度成長(’55~’65年)を経て、’70年頃の貧困消滅→豊かさ実現→脱物化の社会的流れのなかで、人々の意識が私権(金・地位)第一から反私権に転換していく象徴といえるかもしれない。
人々の意識潮流は、’70年に貧困が消滅すると、潜在的に私権第一から本源的な自然や健康への意識に移っていく。そして’90年バブルが崩壊すると、その意識は明確に顕在化し、それに伴い食品や医療への関心が急激に高まっていく。そして同時に、私権体質の権化の象徴ともいえる医療界に対する人々の不信がより顕在してくる。
’90年代に医療訴訟が増加し、ここ5年ほど医療事故の報告件数が増加している。昨年(2014年)には、日本の医学界の最高峰である東京大学医学部の不祥事も目立った(白血病治療薬の臨床研究での製薬企業との癒着、アルツハイマー病研究の国家プロジェクトでの研究者のデータ改竄など)。
今や、医療への疑問や不信の声は急激に高まりつつあるが、その原因に「医者が受けている教育」がある、という記事を「るいネット」より紹介します。
医学部といえば大学教育の中でも最高峰。最も優れた頭脳が集まり、最先端の研究と知識を駆使し、未知への追求に向かう・・・? 現実は、モノを考えない、いわれたことを鵜呑みにする、といった思考停止を生み出す元凶となっているのが現代の医学教育のようです。以下(リンク)より転載します。
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医者は自分が医学部の出身であることを鼻にかけ、患者を見下したような態度をとるが、医学部の出身であるということは、実際にはそれほどたいしたことではない。わたしも医学部の出身だし、いくつかの大学の医学部で教鞭をとってきた。しかし、どうしたらその経歴を孫たちに知られないようにできるかを考えているくらいだ。
高等教育の目的は、物事を合理的に考え、論理的思考を培い、疑問を抱き、創造性を発揮するための知識と方法を学生に提供することである。学生は教授と討論し、博士論文の承認を申請すれば、自分の論文の正しさを証明することが求められる。
医学部はそうではない。医学生は議論したり疑問を抱いたりすることなく、思考停止状態で医学理論を鵜呑みにし、指導教官の言葉に条件反射的に紋切り型の答え方をするよう指導される。たとえば「連鎖球菌」と聞けば、「ペニシリン」と答える。教授が「右下腹部の痛み」と言えば、「アッペ(虫垂切除手術)」と答えるように教え込まれるのだ。(中略)要するに、医学部は独断と偏見に満ちた医学体系を教え込み、医学生が判断力を行使する権利をごく狭い範囲に限定するのである。
医学生はどの百日咳ワクチンを使用するかについて議論することは許されても、そもそも百日咳ワクチンを使用すべきかどうかについて議論することは許されない。中耳炎の治療にどの抗生物質を使用するかについて検討することは許されても、感染症の標準的治療として抗生物質を使用することに疑問を抱くことは許されない。
医学部でおこなわれる主な試験は、ほとんどすべて選択式である。したがって、医学生は単語はおろか、文あるいは短い文章を書くことすらなく、ましてや一ページもの文章を書かされることはまったくない。医者の処方箋に書かれている字が読みづらい原因はここにある。薬剤師は処方箋の字を判読できないことがあり、たとえば痛風患者に降圧剤を渡したりすることがある。
なぜ医学部は、判読不能な字を書くことを医学生に徹底的に教え込むのか。わたしは以前この謎が解けなかった。医者が看護婦に理解できる字で投薬指示書を書き、薬剤師に理解できる字で処方箋を書くのが望ましいことは言うまでもない。
最近、わたしはその謎解きに成功している。
病院のカルテに残っている判読不能ななぐり書きを時間が経過してから調べると、どの医者が指示や記録を書いたかを割り出すことはほぼ不可能だ。ねらいはそこにある。医者はなぐり書きをしておけば、不正医療の訴訟が起きた際に責任を負わなくてすむのだ。
教えられた内容を疑問視するような医学生は、医学部を卒業する見込みが薄くなるだけでなく、たとえ卒業しても、良い研修医制度と専門医学実習制度に参加しにくくなり、医師免許試験に合格することもむずかしくなる。
波風を立てるような言動は、それどころではすまないことがある。わたしは自分の担当していたある医学生のことが今でも忘れられない。彼は産科学を専攻しようと考え、授業を受けていたのだが、・・・(中略)
教えられた産科特有の愚劣な医療処置すべてに納得できず、産科の指導教官たちに質問をしたのだ。
「産婦の両足が上げた状態で支脚器で固定されるのはなぜですか?」「なぜ麻酔分娩をするのですか?」「陣痛の初期段階で分娩誘発をするのはなぜですか?」「明確な必要性がないのに、帝王切開がおこなわれているのはなぜですか?」
結局、彼が得たのは、回答ではなく処分だった。
彼は医学部長に呼び出され、精神鑑定を受けることになった。医学部では、敵意のこもった質問をする医学生はすべて「精神障害者」と見なされるのである。
こういった独断と偏見に満ちた医学教育の弊害は、思考力に富む、知性豊かで、確固たる倫理観を持つ医学生を排除し、愚劣な伝統をかたくなに維持するというだけではない。このような体質は、無駄な治療をおこなわない画期的な医療体制の確立を阻止することになるのだ。この点についてロジャー・ウィリアムズ博士は、『病気に打ち勝つ栄養』という著書のなかで次のように指摘している。「現在、アメリカの医学部は画一化(均質化ではない)されている。いったんある信念が正統派として確立されると、それに異議を唱える世代は抑圧される。われわれは一種類の医学、つまり近代医学しか知らないので、すべての医学部が基本的に同じことを教えている。
カリキュラムは必要と考えられていることで飽和状態になっているために、新しいアプローチを試みる時間も余裕もほとんどない。その結果、医学は、すでに受け入れられていることが不変の真理であるとする因習に縛られやすくなる。科学が正統派として不動の地位を築くと、それはもはや科学ではなくなり、真理の探求をやめ、過ちを犯しやすくなる」
——————————–(転載終了)
エリート意識が強い医学部生が、このような教育を受け、現実の医療現場で治療に携わっていることに恐ろしさを感じる。
医学であれ何であれ、科学は、常に不十分・不整合を抱えているという無能の自覚は根本的に重要である。
そして、既存の認識・論理での不整合を発見した場合、真摯に認める柔軟な精神・思考が不可欠であり、不整合の抽出こそ、科学の進化の源泉になる、このことを肯定的に認識しなければならない。
不整合を整合させるには、未知なる世界の追求が不可欠になり、その追求が新たな知見・創造を生み出し、科学は進化することができる。
近代医療という“真理”を信じる者しか医者になれない。これは宗教であって科学ではない。
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