2012-09-12

【気象シリーズ】日本の局地気候と農業 ~福井・若狭における伝統野菜の可能性 その4~

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※写真はこちらからお借りしました
日本の局地気候と農業~福井・若狭における伝統野菜の可能性 その3~」では、伝統野菜に対する「応援需要」の高まりがある一方で、手間や収穫量の問題、商品自体に個性が強いという問題が大きく横たわっているため、規模拡大をはかりたい生産者側も、一方のもっと応援したい消費者側も、共に大きな壁にぶち当たっていることを見てきました。
従来の市場の枠組みが抱えるこのような限界をどう突破していけばいいのか?
そのヒントを、福井県の伝統野菜の中でも有名な河内赤カブラ、その生産を支えている「焼畑」という生産方式の中に探ってみました。

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◆焼畑とは?
河内赤カブラは、福井市の山間部にある旧美山町・河内集落で10名規模の生産者によって継承されている伝統野菜で、鮮やかな赤が一番の特徴(写真のとおり、ビックリするような赤色)です。形はまん丸から扁平と様々ですが、味はほろ苦さと甘みが混在した山菜独特の風味を持っています。焼畑の伝統農法がこの味を生み出している、という人もいます。
山間の集落で細々と生産されている野菜ですが、行政のみならずJAも特産品として取り上げると共に、焼畑栽培の維持を民間団体「福井焼畑の会」が支援するなど、この希少な伝統野菜を多くの人たちが応援しています。
【河内赤カブラ】
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※写真はこちらからお借りしました
その生産を支える「焼畑」ですが、多くの人が開発途上国の一部で見られる、大規模な森林伐採とセットになった焼畑をイメージし、「地球温暖化の敵」「環境破壊の元凶」と思っている人も多いかと思います。少なくとも日常の生活とは縁遠い存在になっているのは確かです。
【焼畑による森林破壊】
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※写真はこちらからお借りしました
しかし、今回取り上げる日本の「焼畑」とは、このような環境破壊を引き起こしている非循環型の焼畑ではなく、むしろ自然の摂理に則った循環型農業の典型のような焼畑です。
【全国の焼畑】
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※マップはこちらからお借りしました
一体その循環型の焼畑とはどのようなものでしょうか?
辞書を見ると、「焼畑」とは「草地・林地などを焼いた跡に作物を植えて収穫する耕作地。また、そうした農耕法。焼却による肥料の効果が薄れると放置して、林地などに戻す。切り替え畑」(三省堂の大辞林)とありますが、ポイントは、荒地を「焼く」 「生産する」 「休ませる」 「焼く」形で循環させながら活用することにあり、「生産する」の課程では様々な作物を輪作します。
◆焼畑のしくみ
この循環型の焼畑のしくみは、地域によって多少違いがあります。例えば、比較的焼畑が多く残る九州山地(熊本県五木村・梶原地区)の具体事例を見てみると、
1)火入れ・・・荒地を焼く
火入れの効果は大きく3つあります。
①開墾効果
 耕作地の確保
②肥料効果
 灰が作られることで、有機物がリン酸やカリに変化。即効的な肥料効果が生まれる。また、土壌温度の上昇によって、アンモニア態のチッソやカリの量が2~2.5倍に増える。
③除草効果
 地表は表土中の雑草の芽や種子を焼く。また、病中害を防ぐ効果もある。
【火入れ】
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※写真はこちらからお借りしました
2)一年目・・・ソバ(ムギ)を育てる
ソバは荒地に適す作物であり、生育期間が短く、やや冷涼な環境でも育つ。そのため、全国的に見ても、焼畑作物の代表選手であり、一年目の作物として組み込まることが多い。
3)二年目・・・ヒエ(アワ)を育てる
ソバと異なり地力消耗度が高いが、一年目のソバによる消耗度が少ないため、比較的良く育つ。
※二年目以降は草取り作業が過大に。
4)三年目・・・小豆(大豆)を育てる
これによって、土壌内のチッ素分を回復させ、地力を維持させる。
5)四年目・・・アワを育てる
※一部地力が豊かな部分では、五年目にサトイモ(サツマイモ)を育てる場合もあり。
【輪作】
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※写真はこちらからお借りしました
6)以降、20~30年間は休閑地にする
同じように、河内赤カブラの場合で見てみると、かつては小豆、そば、粟などを輪作作物とし、10年放置した上で焼畑を行い、赤カブラを栽培していたそうです(最近は5年周期くらいの焼畑で赤カブラのみを栽培しています)。
このように焼畑は、山を焼いて、できた栄養分を使って野菜を栽培し、一定期間使用したら山に戻して、またある時期が来たら山を焼くという、自然の摂理をうまく活用した循環型の農法、あるいは単なる「農法」というレベルにとどまらず、火の使用という人類最古の技術体系を組み入れた、粗放ながらも複合的な「生業」であるとも言えます。
<参考>
稲作以前(洋泉社・2011年・佐々木高明)
ふくいアグリネット。
はくさん麓の暮らし
焼畑の景観モデル
焼畑事例:滋賀県・余呉町
焼畑事例:山梨県・早川町
◆焼畑が衰退したのはなんで?
こんな素晴らしい農法である焼畑が、なぜ、今は天然記念物のような存在になってしまったのでしょうか?その歴史を見てみましょう。
現在焼畑を実践している地域の数は、日本全体を見ても数える程になってしまいましたが、日本の焼畑は、古く縄文時代から行われてきた伝統的な農耕法のひとつであり、山間地の多い日本の農業にとって貴重な耕作地でした。近世以前の焼畑面積は24万haを超えていたようです。
それが、明治30年(1897)に森林法が制定され、植林への転換による焼畑地の林地化と、新たな火入れの制限が直接の引き金となって、明治~大正時代にかけて衰退の一途をたどりました。昭和20年代には5~6万haまでになり、昭和30年頃にほとんど姿を消し、今に至っています。
確かに森林法(第二十一条・火入れ)を見ると、焼畑の実施にあたっては、市町村長の許可が必要となっており、この法的な制限が焼畑衰退の一因であったと思われます。
ただ、焼畑衰退の主因は何か?と考えたとき、近代化を進める明治政府は、すでに明治初期の段階からヨーロッパの森林法に学ぶ形で、
①水源涵養・土砂流出防止・気候緩和など国土保全上の効用
②建物・艦船・道路・橋梁など軍事・公共用木材の必要性
を林政の基本に据えていましたから、大きく捉えると、明治から戦後復興以降の高度成長期を通じて進められてきた造林政策が焼畑を衰退に追いやってきた、と考えるのが妥当かと思われます。
【森林鉄道】
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※写真はこちらからお借りしました
一方で、日本の林業も今では大きな壁にぶつかっているのも事実です。そんな中で、何か解決策はないのか?循環型農法である焼畑は、山間地の保全と活用を考える上で、一つの突破口にならないのか?
次回の最終回は、自然の摂理を活かしたこの焼畑の復活の可能性について考えてみます。
<参考>
焼畑とそば
山の民のくらしと文化
森林法
岩倉使節団と明治の日本林政

List    投稿者 seiichi | 2012-09-12 | Posted in D02.気候No Comments » 

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