環境問題のパラダイム転換 1 ~CO2地球温暖化仮説を題材にして~プロローグ
世の中、エコだエコだと言ってるけど、すべてが空回りしているように見える。
燃費のいい車が出れば、みんなが珍しがって、意味も無く試乗する。
エコポイント制度は、エコポイントがたまれば、また別のものが買える。
電化製品をエコポイントで買えば、電気を消費する元が増えてしまう。
言っていることとやっていることが反対に見えるのは私だけですか?kgxpp552さん『yahoo知恵袋』より
これは『Yahoo知恵袋』の環境問題に対する素人の方の疑問です。
この質問の背後には、環境問題と経済活動とは密接に絡み合っていて、どちらか片方だけ取り出しても解決策にならないという問題意識が読み取れます。これに対して、私たちはどのように答えるのでしょうか?そこで、この疑問をもう少し整理していきましょう。
☆☆☆問題の整理
現在、社会で大きな影響力を持つようになったエコという概念は正しいのか?
その概念に沿った経済活動は、環境問題に対して意図とは全く逆の効果を生み出しているのではないか?
そうであれば、なぜ多くの人々がこのような概念を正しいと信じてしまうようになったのか?
ということになると思います。
これらは、例えば『温暖化は事実かどうか?』など、従来から行われてきた自然科学的領域に偏重した環境問題に対する方法論では答えが出ないほど深い問題だと感じます。そうであれば、私たちは環境問題を解決したいという意識とは裏腹に、追求の方法や対象が的外れであったということになります。これでは、問題が混沌とするばかりです。
そこで、今回シリーズではこのような疑問に対して、
まず『エコ』に代表される環境問題を考える上で基軸となる概念や、それにそった経済活動が、現実社会に何をもたらしたのか?を調査していきます。それと同時に、今や環境を認識するための常識ともいえる『二酸化炭素による地球温暖化仮説』を題材にして、この論理が社会にどのように広まり影響を与えてきたのか?も追求テーマとして重要です。
その上で、なぜそのようになったのか?本当の環境問題とはなんなのか?を明らかにし、それを解決できる新しい切り口を考えて行きたいと思います。
☆☆☆密接に絡み合った環境問題と経済活動
環境問題解決のための政策や運動の方向性が、経済活動を加速し、環境問題悪化の原因になっているという現象が散見されます。先の『いってることとやってることが違う』という感覚は、ここから来るのだと思います。これは、多くの人が抱いている感覚でもあります。
これらを、生産する企業の問題で消費者の問題ではないというような表層的な論理では解決することはできません。なぜならば、経済活動とは生産と消費が両輪で存在し、消費者もその活動の一翼を担っているからです。
そして、政策や環境運動の方向性の決定は、概ねこの生産者という立場の外側から行われています。そこでは、環境問題解決のために『自ら担っている生産自体(≒働くこと)』をどうする?という課題として捉えている訳ではありません。
このように、生産者と消費者とを分けて、消費者は生産の責任を負わなくていいと考える市場社会の常識や、規制する側と規制される側とに立場(≒階級)を分けて考えるという常識が、問題解決を遅らせている可能性すらあります。
それゆえに、これらをもっと総合的に捉えていく視座が今求められているのだと思います。
その骨格は、
『環境問題の改革を進めるには、新しい社会統合機構が不可欠!8『官僚制の突破口は、「半専任・半事業⇒参勤交代制」』で示したとおりで、傍観者から当事者への転換というキーワードでくくれます。
このような視点をもとに、追求テーマの設定を行っていきたいと思います。
☆☆☆追求のテーマと現在の見通し
☆『二酸化炭素による地球温暖化仮説』から導き出された政策をどう評価するのか?
まず、追求の前提として『二酸化炭素による地球温暖化仮説』についての科学的妥当性については、一旦触れないでおきます。
その理由は、人類の過剰な物的生産活動とその消費が引き起こす環境問題に対して、『人為的な二酸化炭素発生量の削減』という指標は、その生産や消費活動が作り出す人工物質を含めた有害廃棄物や自然破壊を抑制することと、大きく見れば連動しているからです。
次に、政策が浸透していくまでの過程を見てみると、『二酸化炭素による地球温暖化仮説』を拠り所にして『環境問題』の原因を仮定し、それを解決するための政策が立案されます。これらが社会に受け入れられる(共認される)につれて、企業経営の方向性や消費の動向はそこに収束していきます。
なぜならば、これらの方向性にそった経済活動(生産活動と消費活動)を営んでいけば、人類の未来の環境に対して少しでも貢献できるだろうという漠然とした思いが個々人のこころの中にあるからです。そのような視点で、『二酸化炭素による地球温暖化仮説』から導き出された対策が実現したものを見ていると、不思議なことに気がつきます。
例えば自動車の生産を取ってみると、環境にやさしいという触れ込みで、エコカーやハイブリッドカーの売り上げを大きく伸ばしていました。最近では、エコポイントなどの補助金政策もそれを助長しています。これは、薄型テレビも同じです。その結果はどうだったのでしょう?
☆温暖化対策でのCO2排出量削減効果より、生産縮小によるCO2排出量削減効果の方が大きい
1997年に京都で開催されたCOP3において議定書は採択されました。それ以降制度化も進み、98年から現在まで、その活動の成果が現れてきたはずです。
ところが、グラフⅠのように、大きく捉えるとその期間もCO2排出量は増加傾向にあります。これは、現在行われている数パーセントレベルの温暖化対策なら、消費が増えた(=生産が増えた)ことによる排出量増大のほうが大きいという結果だと思います。ところが、2008年急激にCO2排出量は減少しています。
なぜでしょうか?
2007年のサブプライム住宅ローン危機に端を発した米国住宅バブル崩壊を皮切りに金融不安は続き、2008年9月15日 リーマン・ブラザーズは破産しました。これを基点に、アメリカ経済に対する不安が広がり、世界的な金融危機へと発展しました。日経平均株価も大暴落を起こし6000円台にまで下落しました。
このとき、自動車に代表される工業生産品の生産量(≒消費量)は大幅に落ち込みました。この結果、グラフⅡのように、これらを生産するために排出される産業部門(工場等)のCO2排出量が急減したのです。その他の部門も、生産部門ほどではありませんが、軒並みCO2排出量が減っています。
☆人々の意識潮流と、政策がずれていくのはなぜか?
ここから言える事は、温暖化対策でのCO2排出量削減効果より、リーマンショック以降の生産縮小によるCO2排出量削減効果の方が大きいということです。これをもっと普遍化すると、物の消費量を減らしたり長寿命化したりするほうが、CO2排出量削減効果は大きいということです。
そうであれば、生産の縮小や長寿命製品への誘導などが、CO2削減のための環境対策の骨格方針になるはずですが、今はまったく逆です。これは、物的な豊かさやそれを実現するための金を得ることが、環境対策より優先するという価値意識に基づき政策は決定されている、ことを意味しています。
しかし時代は既に変わり、多くの人々の間で、お金に代表される市場価値は最優先ではなくなっています。例えば、人々のこころの中には『もったいない』に代表される、過剰な物的消費はもういらないという意識が芽生え、それよりもだれかと一緒にみんなの役に立つことを成し遂げたときの充足のほうが大切、という意識に変化しています。
そうすると、今政策を決定の根拠となっている価値意識は、多くの人が感じている新しい価値意識と全く正反対になっているということになります。よって、この問題について、なぜそうなるのか?を解明することで環境問題の突破方針も見えてきそうです。ここには、官僚・学者・マスコミなどの統合階級が共通して持っている価値意識が関連しています。
これも、今回シリーズの中で追求していきたいと思います。
☆危機を訴えることで不安感を煽り、規制を強化するという政策や運動には限界がある
『環境問題』という言葉がよく使われますが、その中身はきわめて抽象的で捉え方もバラバラです。
例えば『増え続ける人口がもたらす”人間“生息環境の減少』『二酸化炭素により地球が温暖化?して被害が増大する?』『原子力発電の廃棄物が増大して汚染が広がる可能性が高まってきた』『人工物質による汚染が広がり人体が蝕まれていく』『オゾン層の破壊?で紫外線が増加して人体に悪影響を与える。』
などさまざまな問題が個別に取り上げられてきます。
そして、これらを見ていると、個別事象と対策はバラバラですが、行動に向けての共通する判断軸や方法があります。それは、これらの問題がもたらすと予測される危機を訴えることで不安感を煽り、不安発で予測されるマイナス事象を排除する行動をとるように誘導していくことです。
多くの場合、この危機は事実以上に誇張されます。このような危機を煽る手法を推進する切り札が『予防原則』という概念です。この概念が、自然科学的アプローチの限界部分(=人類の認識力の限界)を捨象させ、根拠が曖昧であるにもかかわらず極度に断定的な判断を伴う政策の推進に正当性を与えています。
その結果、環境問題の解決法は、発生の主な原因である市場原理に則った社会の仕組みをそのままにして、枝葉であるところの自然科学的分野に偏重し、そこでのマイナス事象のみをピックアップして危機を煽り、その危機感を背景に政策を決定・推進していくという、ゆがんだ姿になってきています。
そして、多くの環境運動は顕在的に意識しているその崇高な目的とは裏腹に、上記の路線を補強する機能に貶められています。そのため、この運動は今後どのように転換すれば、本来の目的どおりにみんなの力を結集できるようになるのか?も重要な追求テーマになります。
☆『近代科学』といわれる現代の科学的認識方法を再点検してみる
例えば二酸化炭素による地球温暖化問題は『科学的』視点で分析することによって正確な答えに行きつくと思われていますが、これらの問題に関して、人々の納得できる根拠が提示されているわけでないのが現状です。むしろ、矛盾だらけの論理が、科学者・マスコミを通じて洪水のように流され、その判断すら困難な状況になっています。
そして、一般の人々が判断できないのは、その問題に関して専門知識が無いためということにされて、専門家の意見が絶対という風潮が蔓延しています。とりわけ科学の領域では、科学的に証明されていると専門家が発信すれば、それが絶対的事実とみなされてしまいがちです。これは、『科学(者)信仰』とも言えるでしょう。
しかし、もしこれらの発言が正しいならば、もっと早く環境問題の解決の糸口が見えているはずですが、現実は、それとは正反対に問題が混沌としていくばかりです。このような状況から個人主義などの近代思想の影響を受けた『近代科学』といわれる現代の科学的認識方法自体が、大きな欠陥を孕んでいるのではないか?という疑問に突き当たります。
これもシリーズで取り上げていきます。
☆環境問題解決への答えは、みんなが充足できる社会の実現と同じ軸線上にある
不安や危機から規制を強化して環境問題を解決するという現在の環境運動のパラダイムは息苦しいと多くの人が感じています。ここから活力ある未来を想像することは困難だと思います。ここを突破できる新しい切り口は何か?がもっとも大切な論点になってきます。
そこでは、1970年の貧困の消滅以降培われてきた、充足こそ活力源という意識潮流や、要求するだけではなく当事者として自分たちで何かを成し遂げたいという役割欠乏の上昇など、新しい可能性はいくらでもあります。これらを元に、パラダイム転換への道を探っていきたいと思います。
現段階の大きな見通しとしては、環境問題解決への答えは、みんなが充足できる社会の実現と同じ軸線上にあるのだと予測しています。このあたりを、最近の意識潮流と重ねながら、分析していきたいと思います。
以上がシリーズ『環境問題のパラダイム転換』のテーマ設定です。
お楽しみに
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