2009-10-03

シリーズ 環境問題の核心=「国家と市場」 を超える可能性を考える①

超国家・超市場論1:新しいまつり場は、国家と市場を超えられるか
今回から、新シリーズということで、
 環境問題の核心部分である国家と市場の持つ本質的な問題性と、それらを超える新たな社会統合の可能性(=環境問題への本質的答え)をるいネットに掲載の「超国家・超市場論」を紹介しながら、自然の摂理の観点から考えて行きます。
最近、エコカー、エコポイントetc.環境にやさしいとマスコミを通じていろんなことが宣伝されています。
しかし、既に、多くの人々は、それは、ごまかしで、環境に良いどころか、環境を口実に、モノを売ろうとしている、つまり、市場経済を無理矢理でも拡大しようとするあがきであって、環境問題の解決には程遠いことに気付いているでしょう。
 実際、若者の車離れに象徴されるように、みんなの実感として、モノは、それ程欲しくなくなっているのに、無理にでも買わせようとする。
%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88%EF%BC%91.jpg %E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E6%B8%8B%E6%BB%9E%EF%BC%91.jpg
国連が言う「持続可能な開発」とかも、??が付く。
 でも、大半の人は、じゃあ、どうすれば良いのかというところで止まってしまっている。
やはり、環境問題の核心は、市場、そして、それを支える国家(=社会統合)の本質を捉え、それをどうして行くか(どう超えて行くか)ということに行き着かざるを得ないでしょう。
という訳で、「超国家・超市場論」なのです。
続きを読む前にぽちっとよろしく!
  

 にほんブログ村 環境ブログへ


では、早速
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=29731&pgh=3

超国家・超市場論1 新しいまつり場は、国家と市場を超えられるか?
四方勢至 ( 老年 京都 編集 )
しばらくみなさんの投稿を拝見していましたが、中でも『お金の使い方』に着目した玉川さんの投稿29283は、何でもないことの様で実は、答えへの重要なカギを秘めた(例えば、環境問題に対する最終解答になり得る可能性を秘めている)極めて重要な視点ではないかと思われます。
一方、その前後から、お金の持つ『万人に認められた評価指標』としての機能or可能性に注目した投稿が続いてきた(そして今も続いている)訳ですが、私はその視点だけでは答えに肉迫することができないと思います。
例えば、お金は現在すでに第二義的な価値しか持っていませんが、その様に既に最先端価値ではなくなった(あるいは、今後ますます衰弱してゆく)『評価指標』が、新しい認識闘争⇒評価闘争の場である認識形成サイトの『評価指標』になるとは考えられません。
なぜなら、認識形成の場は、人々の最先端の外向収束⇒認識収束を結実させた全く新しいまつり場であり、それは人々の最先端の可能性収束の場であるが故に、同時に、人々の最大の活力源となる筈の場だからです。
新しい場には、それに相応しい『評価指標』がある筈で(例えば、秀作・佳作・掲載・非掲載やそれを数値化した投稿ポイント、あるいは序列化された投稿資格etcも、その様な評価指標の一つです)、敢えて古い評価指標であるお金を使う根拠が、皆さんの投稿からは見えてきません。
その根拠を考える為には、もっと大きな(or深い)視点が必要になると思われます。『認識形成の場』が提起された原点に戻って考える時、最終的に問われてくるのは、新しい社会統合機構の中核となるべき認識形成サイトは、旧体制(つまり、国家と市場)を超えることが出来るのかという問題でしょう(当然、その中に、新しい社会はお金を超えることが出来るのかという問題も含まれています)。
そして、この問いに答えるには、既に実現論1_1_00『可能性への収束=統合』で明示されている、「新しい状況に適応すべく生み出された最先端の機能の下に全ての古い機能が収束することによって、全体が統合される」という最先端適応or最先端統合の論理が不可欠になると思われます。
ただ、適応論・統合論だけでは抽象的すぎてピンとこない方が多いでしょうから、改めて具体的に原始集団、国家、市場の夫々の適応原理(=統合原理)を押さえ直しつつ、認識形成の場(=まつり場)を中軸とする新しい社会統合機構がどの様にして古い体制(国家と市場)を超えてゆくのか(=その実現基盤は何か)を明らかにしてゆきたいと思います。
これは、実現論が本当に現実を切ることのできる認識であるかどうかが試される正念場となるでしょう。と同時に、この問いに答えることは、実現論全体を(大枠ですが)塗り替えることにもなると思われます。

%E8%A8%BC%E5%88%B8%E5%8F%96%E5%BC%95%E6%89%80.jpg
つまり、自然の摂理の視点から考えると、現在の環境に適応できなくなった「国家」や「市場」というシステムに替わる新たな社会統合システムをどう構築して、塗り重ねて行くか、そして、その新しいシステムでは、お金に替わる新たな普遍的評価指標が必要になるのではないか、ということですね。
市場経済が当たり前のものとして生きてきた我々世代には、想像がつき難いと同時に、ワクワクとする期待もあります。
 では、次回をお楽しみに!

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2009/10/597.html/trackback


コメント4件

 ひじきごはん | 2010.06.07 18:25

私も少し勉強したことがあるのですが、
まず、マグネシウムは太陽光励起レーザーによって得た太陽光エネルギーを溜める”電池代わり(=媒体)”という位置づけだった気がしますたしか。
本文でも”循環できる”とありますが、
例えば1年で循環させると過程するなら、純粋に海水6200億トン中のマグネシウムが海水中からなくなるわけですよね。その場合に海水中のミネラル分には影響ないのでしょうか?
(まぁ大丈夫か)
ではこの循環(=マグネシウムの還元)に絶対的に必要な太陽光励起レーザーにもいくらかの動力が必要だと思うんですが、その動力分と1molあたりの発熱量360KJとでの比較ではどうなんでしょう?
(使い捨てカイロの2割ぐらいで、意外に少ないなと思ってしまったので)
太陽光励起レーザーの原理がいまいち理解できなかったので、今後追及されていくことと思うので楽しみにしています。

 goqu | 2010.06.07 23:03

>ひじきごはんさま
コメントありがとうございます。
>まず、マグネシウムは太陽光励起レーザーによって得た太陽光エネルギーを溜める”電池代わり(=媒体)”という位置づけだった気がしますたしか。
矢部教授の「マグネシウム文明論」によれば、太陽光励起レーザーは酸化マグネシウムを精錬し、金属マグネシウムにするために使用することになっています。そのことが太陽光エネルギーを「溜める」ということなのでしょう。
本書では、マグネシウム自身は大量にあるものの、金属マグネシウムの精錬には250円/kgもの金がかかる。しかも1㌧のマグネシウムを取り出すのに11㌧の石炭が必要であり、不経済なわけです。そこでこの太陽光励起レーザーが登場することになったわけです。
このレーザーについては今後記事にしていく予定です。お楽しみにぃ~。
また環境への影響も調べてみたいと思います。

 kubtak | 2010.06.13 12:12

Mgを直接、空気中の酸素で酸化させないんですか?

 goqu | 2010.06.14 23:22

>kubtakさん
コメントありがとうございます。
>Mgを直接、空気中の酸素で酸化させないんですか?
MgはMgOになるときに360KJの熱を発生させます。
直接空気に触れさせると、おそらくじわじわ酸化していくでしょうから、時間をかけて360KJの熱をゆっくり発生させていることになります。
これではエネルギーとして利用できないので、化石燃料の代替として一気に熱に換えようとしているのです。

Comment



Comment