“近代科学”とはひたすら現象を”数学”に置き換え、”数学”とはひたすら抽象世界(=非現実世界)に傾斜する思考
★ ★ ★ 近代科学とは【現象がなぜ起こるのか?ではなく、数学に置き換える】という思考
近代科学がいよいよ終焉 を迎えていますが、そもそも近代科学とそれ以前の科学では何が違うのでしょうか?
それは、端的に言うと、
「現象の何でそうなるのか?には一切触れず、ただひたすら、現象を定量的に数学で表現するようになった」。近代科学の特徴はこれに尽きます。
参考:量れるところだけ量る、あとは知らんぷり。これが近代科学
…とにかくガリレイは、あらゆる現象の量に注目して、いろんな量をはかることで、問題を数学におきかえたのです。これはそれまでの、現象がなぜおこるのか、その目的を説明しようとしていた科学とはぜんぜんちがいました。これがいろんなサイトでいわれるところの「現象の目的的な説明から、現象を定量的に数学で表現するようになった」という文の意味です。近代科学の特徴はこれに尽きます。現象の量れる部分だけに注目して、量る。あとは知らんぷり。この態度が近代科学なのです。
Q.では数学における特徴とは何か?
★ ★ ★ 数学とは、ひたすら抽象化(=非現実世界)に傾斜した思考
以下、”数学”に潜む抽象世界(=非現実世界)に傾斜した思考 より引用
「数学」というものが、今日まで日常的に思考の中に定着(≒支配)していますが、実はこの(近代の)数学というのは、徹底的に現実から離れ、頭の中の抽象化(=非現実)に向う思考に傾斜しています。
ところが、実際の現実世界(自然)は数量化できません。(※数量化できない自然)
この”数学”に潜む、思考的欠陥を、「数学の証明」という切り口から分析した論考を引用します。
以下、リンクより引用
* * * * *
■数学の証明とは何か?
数学の証明とは、以下2点の特徴をもつものをいいます。
- 数ある推論方法のなかでも「演繹(えんえき)」だけを使う
- すべての場合に当てはまるように「一般化」をしなければいけない
- から説明します。
人間が未知の事柄を予想する手段というのはいろいろあります。
・経験(ひとりの女にだまされた→女には気をつけねばならない)。
・類推(チンパンジーは共同で狩りをする→初期人類もそうだったにちがいない)。
・仮説形成(会社の売り上げが悪い→接客が原因だと仮説を立てる)。
・帰納的推論(ある遺伝子異常をもつ100人がみな同じ病気だった→この遺伝子異常が病気の原因である)
・演繹的推論(人間はみんな死ぬと仮定する→ジュウゴは人間である→よってジュウゴは死ぬ)
わたしたちは日頃、これらの予想手段を区別することなく使っています。
しかし数学の証明においては、演繹的推論以外は「不確実な手段だ」として切り捨てるのです。
(中略)
■いつ・誰が・どのように考え出したのか?
では、なぜ数学の証明はこんな特徴をもつようになったのか?
いつ・誰が・どんな目的で「推論には演繹だけを使わなきゃいけない」「一般化して証明しなきゃいけない」としたのか?
結論をいえば、紀元前6~3世紀の古代ギリシア人たちが「絶対確実な真理」を求めたためでした。
■数学から道具の役割を奪ったギリシア人
古代ギリシア人というのは歴史上でみてもかなり変な人たちです。
それまで数学というのは帳簿をつけるための道具、田畑の面積を測るための道具、ピラミッドを建てるための道具として使われてきました。
なのに、ギリシア人はその数学から道具という役割を取り除きました。
そして具体例から離れて、数それ自体を研究していくのです。
つまり「家族3人」「畑3㎡」「高さ3フィート」などという具体から「3」という概念を切り出して、抽象的に扱いはじめたのです。
なぜギリシア人は数学を道具として使うことをせず、数学それ自体に価値を見出したのか?かれらは具体よりも抽象が、現実よりも理想が、経験よりも論理が、そして変化よりも永遠が大好きだったからです。これはかれらの社会形態と関係しています。
■奴隷がいたから演繹のみとなった
古代ギリシア社会の市民たちは多くの奴隷を保有していました。
上層市民であるほど奴隷の数は多く、家事や育児、商売や医療まで、およそ生きるためのほとんどすべての活動を奴隷任せにすることができました。
この結果、上層市民である学者や芸術家は、雑事を、手作業を、生活を、現実を嫌い、日々思索に没頭するようになったんです。
ピタゴラスもプラトンもアリストテレスもアルキメデスも、商売なんかする奴は卑しい、道具としての数学など価値がない、純粋な知識のみが最高であると放言しています。
こういう日々を送る哲学者・数学者にとって、経験などは予想手段として論外です。
また日々の経験がないから、仮説形成という推論方法も重要とは思えません。
そして手作業を嫌うから、何回も実験する帰納的推論など、もってのほかです。
こうして古代ギリシア人にとって確実な推論方法は「演繹(えんえき)のみ」となったのでした。
■抽象の世界で真理を求めたから一般化
また、生きることにあくせくせず、思索にふける毎日を送ると、人はこの世の無常を感じるようになります。
家族もいつか死んでしまう、田畑もやがて無くなってしまう、堅牢な建造物も永遠ではない……。何かひとつでも、絶対確実な永遠不変の真理というものはないだろうか……。
こうした思いから、古代ギリシアの学者たちは先述したように、具体よりも抽象の世界にのめりこんでいったのでした。
抽象的に考えることは、具体的に考えるより難しい思考です。
一般的な三角形について論じるより、具体的なあるひとつの三角形を考えたほうがイメージしやすいのは、数学の証明問題に悩まされてきたすべての人が感じるところでしょう。
でも古代ギリシア人たちは、やっぱり抽象的に考えるほうを選んだ。なぜなら絶対確実な永遠不変の真理は、このうつろいやすい現実世界にはなく、抽象的に考えた理想の世界にしかないからです。
こうして数学の証明もまた、抽象的に、つまり一般化して考えるものとなりました。
・点とは大きさのない位置である
・線とは幅のない長さである
・面とは長さと幅のみをもつものである……
具体的イメージをもたない、極度に抽象化・一般化された定義や、証明のしかた。
古代ギリシア人たちの一風変わった性向によって、これが出来上がったのでした。
以上、引用終わり
いかかだったでしょうか?
近代科学とは、現象をひたすら数学に置き換え、その数学とは、ひたすら抽象化=非現実世界に傾斜していく思考的欠陥を持っているということなのです。
現実の問題に対し「どうする?」を考え突破口を見出すに値しない思考ベクトルだということが分かると共に、私達は学校教育で、このような近代科学や数学を教え込まれているのです。これでは当然答えは出るはずもありません。
この事実にきちんと目を向け、新たな次代に必要とされる科学認識(=事実認識)を再構築する必要があるのだと思います。
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