2013-08-11

宇宙は膨張していない!?~科学的認識はすべて仮説、その神格化が創造の壁~

今回から盆休み特別企画ということで、普段のシリーズ記事とは別の記事を連日お送りしていきます。

最近の時事問題を皮切りに、当ブログ独自の切り口で、お送りしたいと思いますので、宜しくお願いします。

まず初日のニュースは「宇宙は膨張していない!?」という発見のニュースです!

☆ ☆ ☆ 近代科学の常識が覆される事象の発見

宇宙というのはまだまだ未知な部分が多く、計り知れないミステリーが沢山あります。
今回紹介するのは、これまでの宇宙論において常識とされていた、宇宙膨張説を覆す記事です。

宇宙はビッグバンによって始まり今もなお膨張していると考えられている。この説は約100年間、宇宙の基本モデルとして信じられている。
しかしこの度、ドイツはルプレヒト・カール大学ハイデルベルクのChristof Wetterich博士によって、宇宙は広がっていないという新たな説が提唱された。

宇宙論新説‐宇宙は膨張していない

そして、今年の3月には、ビックバン理論で考えられる星の誕生よりも古い星が発見されています。

参考:ビックバン理論より古い星の発見 ~価値観による宇宙論、科学論の崩れ~

ビックバン宇宙論の最も重要な根拠は、遠方の星から発せられる光のスペクトルが赤方偏移しているという事実だけで、それに、地球上の音波で観測できるドップラー効果を適応して、宇宙空間は膨張しているという仮説論理を組み立てました。

しかし、これらの発見により、その仮説論理が崩れはじめてきたということになります。

☆ ☆ ☆ 近代科学信仰の壁が今の社会問題の突破を妨げている

さて、これらの発見が一体何を意味するのでしょうか?

現在、様々な社会問題には、その分野の専門家と呼ばれる学者達があたかも答えを出そうと膨大な研究費を浪費しつづけているのですが、今主流の理論を信奉する学者は、それに疑義をはさんでも聞く耳を持たないと言う壁が存在します。まるで、自らが権威であり、素人は口出しするなと言わんばかりです。

自分の都合に悪い事象は認めず、自論を正当化し続け、これまでの絶対化された近代科学を信仰し続けた結果が、3.11原発事故に他なりません。

今回紹介するのは現在の近代科学の壁と、その突破口についてまとめた記事をご紹介します。

以下、
素人が創る科学の世界~プロローグ『科学的認識はすべて仮説、その神格化が創造の壁』より転載

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今、大きな社会問題となっている原発事故は、さまざまな要因が組み合わさっています。例えば、官僚、電力会社、政治家、御用学者、マスコミなどの特定集団の利権維持行為が事実を隠蔽歪曲し、状況を混迷させていること。また、肝心の原発技術の未熟さが露呈したことなどです。
このことについては、当ブログでは『東北地方太平洋沖地震~原発は必要か否かシリーズ』で、以下の結論に至りました。

自然の摂理を踏み外してしまった原発技術開発

「原発は、頭のてっぺんからつま先まで“ウソ・騙し”」

『統合なき専門家体制』の末期症状(暴走)-その1

己の保身を第一とする無能者が社会統合の位置に陣取っていることが根本問題

『統合なき専門家体制』の末期症状(暴走)-その2
私たち自らが事実を紡いで答をだし社会を動かす

しかし、原発事故の根本的原因である地震については、膨大な研究費を使っているにもかかわらず、予測の精度は極めて不十分という状況です。これは、問題解明の道具であるプレートテクトニクス理論そのものの妥当性までさかのぼるような問題で、多くの解決すべき課題を残しています。

プレート説では説明できない事象①

プレート説では説明できない事象②

そして、これらの問題を統合する新しい理論が必要になってきている現在、『熱移送説』など、可能性のある切り口をもつ理論も存在しています。しかし、そこに踏み込むためには、地球の内部構造、電磁波の影響、そこから派生する宇宙論や量子論など、いまだに良くわかっていない課題は山積みです。

しかしもし、これらの課題が新しい理論によって統合されるなら、地震の解明だけではなく、新しいエネルギーのありかたまで拓けていく可能性が出てきます。

ところが、これらの問題に対して社会現象とも言える壁が存在しています。それは、原発の『御用学者』もまったく同じで、今主流の理論を信奉する学者は、それに疑義をはさんでも聞く耳を持たないと言う壁です。まるで、自らが権威であり、素人は口出しするなと言わんばかりです。そのような態度に、大衆はうんざりしています。

それは、よりみんなのために役立つ理論を提供して欲しいという大衆の思いに反しているからです。

このような現象は、19世紀半ば以降、大学制度のもとに国家によって体制化され庇護されてきた科学者』という職業自体のもつ、国家追従や権威主義という属性が、『御用学者』という揶揄とともに噴出してきたのだと思います。このままだと、一番新しい理論が必要とされている今、何の答えも出ず、状況は悪化して行くばかりです。

そうすると、みんなに役に立つ科学認識を素人の力で創りだす必要に迫られることになります。しかし、素人のほうも『そんなことできるのだろうか?』という不安が無いわけではないでしょう。そこで、今回は、これらの追求は素人でも出来るのかどうか?考えていきましょう。

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☆☆☆ニュートン力学の根底にある、神格化された暗黙の仮定

ニュートン力学は『自然哲学の数学的諸原理1668』により現代に伝えられています。万有引力という重力理論を打ち立てたあと、運動の法則を確立しました。その法則は、以下の3法則です。

第1法則:慣性の法則-外から力が作用しなければ、物体は静止したままか、等速直線運動をする。

第2法則:運動方程式-物体に力が作用すると、力の方向に加速度を生じ、加速度はその物体が受ける力に比例し、物体の質量に逆比例する。

第3法則:作用・反作用の法則-すべての作用に対して等しく、かつ反対向きの反作用が常に存在する。

ところが、これら法則の前に、第ゼロの法則があるのです。それは『質量保存の法則』とも呼べるものです

しかし、この時代の人々は、『物質とは重さのあるもので変化しない、それを質量という』ということを、あまりにも自明なことと捉えていたので法則とは考えませんでした。つまり、これを不変の真理だと捉えていたのです。

ところで、ニュートンは神の存在をまったく疑っていませんでした。彼の著作『光学』の中で、『神がつくった世界を解明するのが自分の責務』というような内容を書いています。この背景には、この時代のキリスト教圏に共通の感覚に裏付けられた、神が作った世界は完全で、欠陥がないという観念を含んでいます。

アイザック・ニュートン(英: 1642~1727年)
画像はNAX7 Messenger よりお借りしました。

 

つまり、人間が世界の中で観察する変化は、基本粒子の再配列のみによって生じ、神が創った物質(=科学的にいうと質量)やその性質は決して変わらないと思っていたため、これは法則ではなく、事実なのだと確信していたのです。ところが後世、これを覆す物質の核変化や質量とエネルギーの変換など、新しい発見がなされ、この暗黙の前提は崩れてきたのです。

これら、神学者でもあるニュートンの追求の前提をなす、神が創ったという神格化された世界観は、科学の知識をある程度習得し、キリスト教圏外にある現代の日本人は、非常に違和感を持つ内容です。そして、この違和感そのものが、西洋発の近代から現代の科学と、宗教との関係を正確に捉えていないことに起因しているのです。

だから、それらを引き継いだ現代の科学も、『神』から『個人』に大きく判断主体を移してきたものの、そのような神格化や絶対化を暗黙の前提にしているものが多くあります。ここを、丹念に拾い上げることで、近代科学の問題性を見抜けば、その先にある本質に近づいていけるのではないかと思います。

☆☆☆私たちも近代科学を神格化していないか?

20世紀には、相対性理論、量子論、膨張宇宙論、ビックバン理論など様々な科学理論構築がありました。これらを学校では、その結論だけを疑う余地もない明らかな事実として教えています。そのため、深く考えず、ただ暗記してしまうという弊害が出ています。

しかしこのような理論構築の前提に、宗教のような神格化や絶対化があるとしたらどうでしょう?

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例えばビックバン宇宙論の最重要な根拠は、遠方の星から発せられる光のスペクトルが赤方偏移しているという事実だけです。それに、地球上の音波で観測できるドップラー効果を適応して、宇宙空間は膨張しているという仮説論理を組み立てました。

しかし、地球上の音波で観測されるドップラー効果が光にも適応できるのかどうかは、まだ実証されているとはいえません。そして、それを証明する観測事実が赤方偏移であるという、事実を確定できない論理構造になっているからです。

その更に上に、膨張しているのなら膨張前は極めて小さな空間があったはずで、それが爆発したのだという更なる仮説を付け加えたものです。ここで重要なことは、観測された事実は赤方偏移だけで、それ以外は、まったく観念上で創造された論理だということです。

太陽のスペクトル(左)と比べ、遠方の超銀河団のスペクトル(右)では、
フラウンホーファー線がより長波長側(赤い方)へシフトしている。
画像はWikiよりお借りしました。

 

ここでもし、観念内容が何かに色づけられていれば、その論理も偏ることになります。現に、物事には始まりがあるというビックバン宇宙論に潜む世界観は『神による世界の創造』と非常に似通っています。それは、始まり(神の創造)の前はどうだったのか?という疑問を封印するという論理構造をもっているからです。

他方、例えばもし日本人がこの観測事実を最初に発見し、そこから論理を考える場合は、始まりも終わりもない、メビウスの輪のような立体空間を考えたのではないかと思います。このように、今、絶対化、神格化されている宇宙論も、極めて希薄な根拠しかないことがわかります。

そうすると、観測事実のみを明確に認識して、それをもとに神格化や絶対化による固定観念を排除した理論構築を行うことは、素人でも可能だということになります。このように(近代)科学を神格化しなければ素人にも道は開けてくるのです。いや、むしろ御用学者のように権威にしがみつく必要がない分、自在に思考をめぐらせることのできる素人の方が簡単なのかもしれません。

☆☆☆事実とはなにか?

ビックバン宇宙論では、観測事実と、それらを統合する仮説論理が合体したものを『事実』としています。これでは仮説と事実が混在していて、明快な科学的事実ではないのでは?という疑問がわいてきそうです。しかし『事実』というものは、意外にも?すべてそのような構造をしているのです。

例えば、『太陽の表面温度は約6000℃』は皆が認めている『事実』です。しかし、実際に温度計で測るわけにはかないのに、なんで事実と言えるのでしょうか?それは、太陽の光から得られるスペクトルと地球上での観測されるそれとを比較した結果、地球上の6000℃のスペクトルと太陽のそれが同じだからです。これも、観測事実と同じ温度なら同じスペクトルを出すという仮説論理(観念)を挿入して事実としているのです。

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また、量子論にクォークという素粒子が登場します。これも、発表時期には誰も観測したことはありませんでした。観測事実としては、1960年代に、ある原子核とある原子核を高速(≒光速)で衝突させると、そこからグルーオンというまったく秩序のない原子核より小さな粒子の“軌跡”が続々と発見されました。その数は、60種類にも及びました。

実際、観測される映像は右の写真程度ですが、これらから素粒子の振る舞いを説明できる仮説(観念)を創りだし対象を理解しようとしたのです。

電子と陽電子が衝突した際の写真
赤線は装置の外郭
実際に観測できるのはこのような軌跡だけ

 

そのようにして、おびただしい数の無秩序なグルーオンに手を焼いた科学者が、まったく観念上で、3種類異なる性格をもつクォークというモデルを仮定した結果、それらに法則性を与えることが出来たというものです。つまり、クォーク自体が現象事実を統合する観念上の論理モデルであり、実際の観測結果ではないのです。しかし、これも科学的事実として認識しています。

このように、事実とは観測事実のみではなく、現象事実と整合した仮説論理(観念)も含んでいます。つまり、目に見えないものでも、その周辺の断片的な観測事実をもとに観念を使って仮説を組み立て、その論理が現象と整合し、多くの人に共認されたたものを『事実』と呼んでいるのです。

これにぴんとこないのは、そのことを、自覚していないだけです。その理由は、日常生活では、論理は経験と合致していることが多いため、直感的に正しいという判断が働き、どこまでが観測事実で、どこからが仮説なのかを考える必要がないからです。

ところが、宇宙や原子核の中などの場合は、日常の経験が通用しない部分が多いため、実感できる部分がすくなくなります。その結果、観測事実より仮説論理の比重は高くなり、事実に含まれる仮説(観念)部分に注目が集まるからです。それゆえ、観測事実と仮説論理を峻別して考えることが重要になってくるのです。

☆☆☆観測事実をもとに対象世界に同化することからスタート

そして、観測事実は非常に簡単な事実の一部です。そして、ここには神格化や固定観念が入り込む余地は、ほとんどありません。しかし、仮説の方はそれらが入り込む余地があり、とりわけ近代科学は、キリスト教やデカルトの主観主義(自分の感覚が絶対という意味)や近代個人主義などの思想に大きく影響されています。

そこから抜け出すにはどうすればいいのでしょうか?

まずは、観測事実はどこまでで、仮説はどこまでなのかを鮮明に峻別すること。そして、神格化や絶対視の起こりやすい仮説論理については、それが生まれた時代背景や思想的背景をもとに違和感を鮮明にすることが重要です。

例えば、近代個人主義に色付けされた思考法の事例として、デカルトによる『理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説』があります。ここで述べられている主題は、平たく言うと客観性の重視ということになります。しかし、観測する主体はなくなりませんから、主体と対象の分離がまず前提になります。

そうすると、客観性を重視するため、必ず主観を排除するという意識で物を観ることになります。しかし対象を観察する自分は絶対的で排除されることはありません。つまり、事実は主観を排除しているのではなく、絶対的主観(自我)のみで対象を把握し、そこから漏れたものは事実ではないと断定していく傲慢な思考になっているのです。

そうすると、客観主義などという頭の中だけの架空の論理には見切りをつけ、主体と対象を可能な限り一致させ、対象に肉薄していく思考法である同化思考に徹することで可能性は開けます。それは、事実をありのまま捉えることと同義です。この方法だと、現実対象に限り無く近づくことで、現実課題を突破することが出来ます。

そこにあるのは、たとえ完全に同化することは出来なくても、すこしでも近く対象に迫っていくという感覚だけで、その対象に超越性を感じるという謙虚な思考法になってきます。これは原始人の精霊信仰と同じです。

極限状況の中で、人類は直面する現実対象=自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。つまり、人類は直面する過酷な現実対象=自然を凝視し続ける中で、元来は同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然との期待・応望=共認を試みたのである。そして遂に、感覚に映る自然(ex. 一本一本の木)の奥に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する現実対象(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ科学認識=事実認識(何なら、事実信仰と呼んでも良い)の原点なのである。

だから、観測事実のみを題材にして、対象に同化するという思考法を用い、新しい可能性を追求していくことが、もっとも重要になるのです。

List    投稿者 tutinori | 2013-08-11 | Posted in C.素人が創る科学の世界No Comments » 

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