社会期待の歴史(4)~西洋の自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神信仰~
あけましておめでとうございます。
初詣はお済ですか?日本の神様達は環境問題をどう感じておられるのでしょうか?
本年も「自然の摂理」をよろしくお願いします。
年末年始特別シリーズとして、環境問題の根本、「過剰消費」の原因となる価値観がどうやって生まれてきたかを見ていますが、今日は現代社会で広く使われる西欧発の観念の根っ子について考えます。
西欧発の観念と言えば、まず、キリスト教ですね。おそらく、世界で最も影響力のある思想体系かと思います。
でも、日本人はあまり浸透しなかった。何か、違和感があるように思います。そんなに都合よく割り切っちゃって良いのか?と。
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るいネット
10/17なんでや劇場(4) 西洋の自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神信仰 から
こうして考えてゆくと、世界的には西洋の方が特殊であることが浮かび上がる。
掠奪・皆殺しによって、共同体=共認の基盤が破壊され、あるのは自我だけであり、共認の中核である規範共認がほとんど失われている。そこでは集団や社会を統合するには観念機能に依拠するしかない。
日本人・中国人・インド人・イスラム人が共認収束⇒規範収束したのに対して、西洋人は自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神に収束したのである。この唯一絶対神は、現実の富の拡大や私権意識を捨象した奇麗事の結晶物である。このように、現実共認と宗教共認の分裂(二元化)は西洋の特徴なのである。
ローマ帝国はキリスト教を国家に組み込むことによって統合を図ったが、中世末には教会権力が皇帝権力を上回る羽目になった。その経緯は以下。
近世欧州の特殊性をまとめると、
1.皆殺し→全て敵⇒架空観念に収束するが、正邪の羅針盤を喪失しているので『騙せば官軍』の世界に。
2.この力の原理に立脚する「騙せば勝ち」の構造を見抜き、それを布教戦略として成功したのがキリスト教。
3.欧州では中世~近世、教会が国家・国王をも上回る共認権力(→財力)を確立(アジアには無い構造)。
4.金貸しにとって絶対権力たる教会(法王etc.)は絶好の買収対象となり、教会の後ろ盾を得てベネチア・スイスetc.商業国家の独立、あるいは対イスラム十字軍遠征etc.次々と金貸しの思惑通りに事が進んでいく。
5.200年以上に亘る十字軍遠征により、富の大半を領有する貴族や騎士の大半が交易に関わり、商人(投機)貴族化した。その商業(私益収束)の拠点として、ベネチアetc.商業国家で金貸しに都合の良い法制・芸術・思想が生み出された。
共同体が破壊された後、人間は原始の時代から共同体の中で感じてきた共認充足の代償を求めます。被支配民に生まれてしまえば、もう一生浮かび上がることの出来ない人生で、救いを求める欠乏が出てきます。これに応えたのが、「あの世」での救いを約束したキリスト教でした。
キリスト教でのポイントは唯一絶対神です。そもそも、そんなもの居ないことは皆さんご存知ですね?それを存在することにして、全てをそこに収束させることに成功したのです。信じれば本当になる、あの世で救われるし、皆殺しも許される。究極の自己正当化が可能であるということです。
ここに、本能や感覚とはかけ離れた観念を正当化する下地ができました。これが、近代観念へと繋がっていきます。
そして、この近代観念が環境問題、過剰消費へと直接繋がって行きます。
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近代になり、市場が開かれると、下層民も金儲けによって、社会上部へ浮上する可能性が出てきます。自然圧力が低下し、生産力が上がって、圧力が緩んだのですね。そこで、救いを与えるキリスト教ではなく、現世での金儲けを肯定する思想が出てきます。これが近代観念=自由・博愛・平等です。これによって、「個人」が人類の単位であり、各人それぞれが幸せを求めて好き勝手していいことにしてしまいます。
つまり、個人の幸せのためには、過剰に消費しても構わないことになります。金儲けも正しい行為にしてしまいましたから、金儲けをしたその金を使い自由に消費して快楽を追求し、それによってまた市場が発展する仕組みです。
【4】近代市場社会
武力支配時代までの、自然圧力×同類闘争圧力×身分支配圧力という三重の圧力からの脱出口として、市場が拡大してゆく。
社会期待として捉え返せば、国家レベルでは富国強兵共認に収束し、大衆的にも豊かさ期待に収束している。富国強兵と豊かさは一直線に繋がるが故に、社会は現実共認一色になっていった。そこでは現実の豊かさを求める共認が強いので、非現実の宗教は廃れてゆく。それに代わって、金貸し主導で、自我・私権⇒市場拡大を正当化する近代思想が登場し、学校教育やマスコミによって人々に植え付けられてゆく。(西洋に遅れて東洋も、豊かさ期待と近代思想に染まってゆく流れは全世界普遍的。)
西洋近代思想にはもう一つの特徴がある。
原始時代には精霊信仰に、部族連合時代には守護神信仰に万人が強く収束していた。武力支配時代も、東洋やイスラムでは万人が強く規範に収束していた。
ところが、近代では近代思想を信じているのは知識階級だけである。庶民は近代思想を知らなくても生きている。
つまり、市場社会固有の問題として、庶民は近代思想へ先端収束しているわけではないということ。これが武力支配時代までの社会共認との違い。
では、宗教共認はどうなったのか? 不要になったのか?
⇒富国強兵共認・豊かさ期待・近代思想だけで、人々は充たされるのか?
共認非充足がなくなったわけではない。
写真はキリスト教をベースに哲学したキルケゴールです。哲学を知らなくても一般人は生きていけます。
彼自身は強欲ではなかったようですが。画像はコチラからお借りしました
現世を謳歌しはじめた人々に、救いを与えていた宗教は廃れました。
その代わりに現れた近代思想は、個人の自由さえ確保されれば、用無しとして庶民からかけ離れていきます。
では、相変わらず残る共認非充足はどうやって処理されてきたのでしょうか?
それは実は アレ なんです・・・ 明日をお楽しみに。
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環境大学新聞 企画 森の講座 | 2011.12.02 12:21
松戸市などの新聞販売店の協力で第2.4日曜に発刊し
2年後には部数を伸し3万6千部に成っていました。
柏市教育委員会などの後援を受け月一回の活動を行い
新聞頒布地域で受講者を募り老若男女が集い家族揃って
参加される方が大変多く省庁や都に皇宮と赤旗.聖教.
リビングの代表が初回に参加され事務局長の特別講演まで
受講されました。