2009-11-19

シリーズ 環境問題の核心=「国家と市場」 を超える可能性を考える⑥

三種の神器がいきわたった70年ころは、ほぼ豊かさが実現された時期と言っても良いでしょう。そのころから、にわかに、公害などの環境問題が注目されだしました。
1964年には、レイチェルカーソンの「沈黙の春」が和訳され、1974年に連載が始まった有吉佐和子の「複合汚染」が注目されました。
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1971年には「ゴジラ対ヘドラ」が公開され、子供たちにも公害問題の認識が深まりました。
豊かさが実現されるまでは、貧困の圧力=生存圧力が大きく働き、日本人皆の活力の源となっていました。
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何をおいても食べること→豊かになることが第一義で、その目的のために脇目もふらずに皆必死に戦っていました。そのため、環境悪化も、被害を受ける他者も、気にするのは後回しか、見ないふりが当たり前の時代でした。それが、豊かさが実現されるまでの私権時代。
しかし、豊かさが実現され、貧困が消滅すると、主圧力が生存圧力から同類圧力に移行していきます。その中で、公害をはじめとして、環境問題が注目され始めました。
これは、環境問題の解消への第一歩、萌しと言えるのではないかと思います。
そのことを構造的に明快にした投稿を紹介します。

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超国家・超市場論6 生存圧力に基づく同類闘争から、同類圧力に基づく同類闘争=認識競争へ
その基本的な答え=実現基盤は、既に実現論4_1_07実現論4_1_08『人類500万年のパラダイム転換』に示されている。生存圧力から同類圧力への大転換が、それである。(注:同類圧力とは、人々の課題共認や規範共認や評価共認が生み出す共認圧力であるが、その最先端は常に同類闘争の圧力へと収束してゆく。)
人類は、既に物的な生存圧力から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(掠奪闘争や私権闘争)から、同類圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。その新しい同類闘争こそ、この社会統合板で1~2ヶ月前に明らかにされた新しい潮流、即ち人々の外向収束(社会収束)⇒認識収束が生み出す認識闘争(評価競争)である。
つまり人類は今、史上はじめて、人類本来の共認機能に基づく共認闘争によって掠奪闘争や私権闘争を止揚し、社会を再統合し直す段階に来たと云えるだろう。
それでは次に、その認識闘争の場が、どのようにして国家と市場を超えてゆくのかを見てみよう。その為には、いったん国家と市場の成り立ちとその統合限界を押さえ直しておく必要がある。

環境問題が解消にむかうには、自然の摂理に即した社会を皆で作ることが条件となります。
その実現基盤が、生存圧力から同類圧力へのパラダイム転換なのです。

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コメント6件

 rino | 2010.08.28 18:14

>エネルギー問題を議論するとき、よく『自然の摂理をに則ったエネルギーは?』といわれていますが、これらの多くは技術問題の偏った視点での問題提起になっており、『共認収束の潮流』などの、人々の意識はほとんど対象にしていません。
問題が矮小化され、『専門家』と呼ばれる人たちにしか、意味が分からない。そうやって分断された私達大衆と、専門家、あるいはサブガバメントモデルですか、そういった特権階級者たちとの意識の断絶はあるでしょうね。
>しかし、共認収束の潮流の乗り、かかわる人々の役割充足が得られる社会(エネルギーの開発や供給体制を含む)を考えていくことは、自然の摂理に含まれる人間集団の摂理に則った社会を実現するための根源的な課題なのです。
これは壮大な問題提起ですね。ですが、この視点は絶対的に外してはならない『考える幹』になるのだと感じました。
次は、いよいよまとめですか。楽しみにしています。

 のん | 2010.08.28 18:53

以前の記事でも、危険だと思われる原子力が、敬遠されるどころか推進される理由が明らかになっていましたが、今回の記事では、更にその背景がより生々しく記載されており、興味深く読ませていただきました。
エネルギー開発、及び供給問題を、共認充足の軸で展開する今回の記事は、環境問題という枠を超えて、あらゆる生産活動の基盤となる認識だと思いました。

 daruma | 2010.08.28 21:28

このシリーズは本当に深く、考えさせられます。今回特に、
>マニュアル通りに正確に動くことを要請して、その人間がマニュアルに無い事象に対処しなければいけないという根本的な問題を孕んでいるのです。>
という部分です。ほとんど全ての事故はこういう構造にあったから起こるべくして起こったと思います。そして、原子力に限らず現代の普遍的な問題のように思いました。

 ケンケン | 2010.08.28 22:15

>このようなマニュアル管理社会に適応していくためには、全体のことに疑義をはさむような思考は排除されます。
>そのような極度な管理社会は、人々を、全体にかかわることで得られる役割充足から遠ざけていくことになるのです。
これは、原子力発電のみならず、近代思想に裏打ちされた、市場社会そのものの本質問題であるように思います。
このシリーズは、常に問題の幹を捉え続けているので、きっと将来のエネルギー開発の方向性を示してくれると期待感を持つことができます。まとめの記事が非常に楽しみです♪

 jasmine | 2010.08.30 15:12

>共認収束の潮流の乗り、かかわる人々の役割充足が得られる社会(エネルギーの開発や供給体制を含む)を考えていくことは、自然の摂理に含まれる人間集団の摂理に則った社会を実現するための根源的な課題
なるほど~。
これまでのエネルギー開発は、自然環境を壊しただけでなく、私たち人類が積み重ねてきた共同体をも崩壊させたのは、その全てが自然の摂理の上に成り立っており、それを破壊した、ということだったのですね。
このような大きな軸で捉えないと、環境問題もそれだけを見ていては解決しない。そして、この自然の摂理の中にこれから実現していくべき答えがたくさん詰まっているのだと確信しました。
「自然の摂理から環境問題を考える」とは、まさにこういうことだと、思いました♪
超大作、ありがとうございました!!

 さんぽ☆ | 2010.08.31 17:12

実際、原発が建設されるまでの様子が時代の潮流を感じながら、リアルに伝わってきました。
共同体もこうやって解体されていったのですね。
人々の意識を無視したやり方だと、どこかに必ず歪みが生じてきます。
このシリーズを読んで、こういった環境問題の解決への道のりも、意識潮流を分析していくことは不可欠だなと思いました!

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