2022-08-10

磁力の発見の歴史(近代)②~ケプラーの法則の発見に至ったチコ・ブラーエ、ウィリアム・ギルバードとの関連

ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、1596年25歳にして太陽系の秘密を解明したとする処女作『宇宙の神秘』を世に問い、一躍、ヨーロッパ全土に天文学者として大きな名声を勝ち得た。

【ケブラー】

 

通常の科学史では、コペルニクスによる地動説の提唱が近代天文学ひいては近代物理学の出発点と語られているが、こと物理学の観点からすると、近代科学をそれ以前のものと分かつ真の転換点は、ケプラーと考えるべきである。というのも、コペルニクスは太陽の静止する太陽系を唱えたが、ケプラーは惑星運動の動因として太陽が惑星に及ぼす力という観念を導入し、天文学を軌道の幾何学から天体動力学に、天空の地理学から天界の物理学に変換させた。(古代以来、ケプラー以前まで、天文学とは運動の物理的原因を問わない軌道の幾何学であり、当時の自然学(物理学)は定性的なもので、数学的な天文学には本来馴染まないと見られていた。)

 

処女作『宇宙の神秘』の時点でケプラーに天文学の改革を促した直接的な問題は、諸惑星の関係にあった。つまり、ケプラーは太陽系を一つの調和的なシステムとして捉えていたのであり、それゆえ諸惑星の運動の間には何らかの有意義な関係があるはずだと信じていた。この関係が起点となり、ケプラーの考え方は動力学的になり、今に残るケプラーの法則の発見・証明に至っている。

 

ケプラーが様々な法則を見出すことに至るのに、チコ・ブラーエやウィリアム・ギルバードとの関係は重要となる。

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〇チコ・ブラーエの観測データからケプラーの第一、第二法則を見出した

【チコ・ブラーエ】

ケプラーはチコ・ブラーエの持つ正確で豊富な観測データを渇望し赴いている。というのも、ケプラーの正多面体理論から計算された惑星軌道を含む天球の半径がコペルニクスの値と少しずつズレていたから。ケプラーは正確な軌道半径と偏心率の値を求めていたが、当時それを有していたのは世界でただ一人、チコ・ブラーエだけだった。生涯を天体観測に捧げたチコは、観測機器を大型化して改良し肉眼で観測できる極限を追求したといわれ、その観測データの精度はそれまでのものを大きく上回っていた。また、チコ・ブラーエは天体観測を長年にわたって間断なく継続し、惑星運動について軌道全体にわたって統計的にも信頼性の高いデータを蓄積していた。

ケプラーがチコ・ブラーエの元で働くためにプラハに移住したのが1600年9月で、ケプラーに与えられた仕事は火星軌道の決定であった。ケプラーは『新天文学』で「火星の運動は天文学に隠された秘密に辿りつきうる唯一の可能な道であり、それなくしてその秘密は私たちに永遠に知られることはなかったであろう」と回顧している。

火星は当時知られていた外惑星のうちではもっとも離心率が大きく、円からのずれが顕著で、それゆえにこそ楕円軌道の発見が可能となった。

 

〇ウィリアム・ギルバードのケプラーへの影響

【ウィリアム・ギルバード】

惑星は太陽の発する力によって運動するという天文学の転換を成し遂げるにあたってのケプラーの決定的な契機は、ギルバードの磁気哲学との出会いがある。遠く離れた天体間に働く物理的な力という観念をケプラーは地球は磁石であるというギルバードの理論から着想している。

ケプラーがはじめてギルバードに言及したのは『チコの擁護』の次の証言となる。

「イギリス人ウィリアム・ギルバードが、磁石についての研究において観測を収集するその驚くべき手腕と勤勉さをとおして、コペルニクス擁護のための私の議論に欠落していたものを補ってくれているように思われる。」と語っている。

ケプラーは、太陽が惑星に及ぼす「運動霊」が存在すると語りながら、それが何であるか、またその存在が何によって立証されるのか、その肝心の点を捉えきれないでいたのに対して、ギルバードの『磁石論』の議論は、まさしくケプラーが求めていたものを提供してくれるように思われたのである。

 

【参考】山本義隆著 「磁力と重力の発見」~3.近代の始まり~

List    投稿者 kurahasi | 2022-08-10 | Posted in B.科学史No Comments » 

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