2022-07-10

磁力の発見の歴史(ルネサンス)①~人間は神に代わって自然を支配することが許されている~

●ニコラウス・クザーヌスによる神の相対化と宇宙観

(ニコラウス・クザーヌス 1401~1464年)

15世紀のヨーロッパは、カトリック教会の力が急速に弱まった時代だ。それまでの封建制が飽和状態に達し、中世的秩序が徐々に融解してゆく時代だった。

ニコラウス・クザーヌスは、衰退してゆくカトリック教会の力の回復に向けて奮闘した人物である。それまでの時代に於いては、宗教信仰に対して多くの人々が武力を用いて、他の宗教に対する否定や弾圧、殺し合いをしている時代である。そのような封建制が融解してゆく中で、クザーヌスは「永続的な平和」を実現するような調和点を求めて、神学思想を展開した。

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したがって、彼の着想した神学は、神を絶対化するのではなく、相対的な存在であるという点が、これまでの時代に対して全く新しいものだった。

具体的には、「神の存在とは、無限の真理であり、人類には把握し得ない方法で、真理に到達する他に道はない」。つまり、「神という無限の真理は、(有限の知性と有限の認識しか持ち得ない)人間には、知ることはできない」という思想だ。

その上で、宇宙論について「宇宙とは、絶対的な神的存在から来る被造物」であり、したがって「縮限された最大のもの」であるという理論を展開した。言い換えれば、『絶対的に最大の存在』は神であり、神の存在を具現化したものがこの宇宙であると主張したのだ。

神の存在を「人間には知ることのできない存在であり、無限の真理である」とすることで、神の存在を相対化していることが重要な点である。

 

そして、神のみではなく宇宙の無限性を主張したことにも、大きな意味がある。

無限の宇宙空間に於いては、”絶対的な運動”は存在しない。あるのは他の天体やエネルギーとの相対的な比だけである。この比を理解するためには、必ず”数”が必要である。

クザーヌスの著書には、「数なしには存在するものども多性は存在し得ない。というのは、数がなくなると、事物の区別、秩序、比、調和、更に存在するものどもの多性自体がなくなってしまうからである。」と語られており、その根拠は「神は、万物を数と重さと尺度にしたがって創造したから」となっている。

これは、この世界のあらゆる事物を数的に表現できるのだと言うことを示唆しており、人間も数学を使ってこの世の理を理解することができるのだという論調である。

現にクザーヌスは、「神は算術学、幾何学、音楽そして天文学を使ってこの世界を作った。故に我々も諸事物や諸元素や諸運動の比的な関係を研究するにあたって、これらの学術を使用するのである」と、人間も数学を用いることで神の真理に近づくことができると主張している。

 

こうして、神そのものの存在は無限であり人間たちには近づくことが許されないとした上で、宇宙に関しては数学的に解明可能だという(一見矛盾した)論理を最初に打ち立てたのがクザーヌスである。

しかしこの論理が、どのようにして大衆に受け入れられ、広まっていったのかは、次のルネサンス時代を明らかにすることでわかってくる。

 

●ルネサンス時代の魔術思想の復活と人間中心思想

教会の力が弱まり、言論の統制が弱まってくると、それまでは「魔術」として細々と続いてきた思想が、「地上」つまり大衆のもとに晒されるようになる。

ルネサンス時代といえば活版印刷が発明された時期とも重なり、書物を通じて大衆に広まったと言われている。(※当時の識字率は最大でも1割程度であり、大衆に広まったといっても、書物から直接ではなく、識字可能な人文主義者たちによって広められたと考えるべきだろう)

(活版印刷の様子)

 

当時の魔術思想は、もとはエジプトやギリシャなどの古代文明の影響を強く受けていた。当時の人々にとって、古代文明は近代と比べて非常に優れており、更に遡って「(ゼウスによる)大洪水」以前の人々は、神に近い存在と考えられていた。

それゆえに、当時の人々は古代文明の思想や科学を、無条件に信仰していた。※古代の魔術思想(ヘルメス思想・ヘルメス文書)の翻訳版が1463年に出版されている。

古代文明から受け継がれた魔術思想の内容は、精霊信仰に近い思想になっている。ダイモンdaemonと呼ばれるその精霊は、万物にやどり、万物に力を与える「なにか」だった。

ダイモン自体には、善悪といった価値判断は存在しない。(友好的ならば天使angel、敵対的ならば悪魔devilに変わってしまう。ダイモンと呼ぶ限りは、中立的・客観的に捉えられている)

 

しかし、そこに当時の人文主義思想が合わさることによって、「人間には、望むものを持ち、欲するものになることが許されています。(中略)…知性的なものを望むなら、天使ないし神の子になるでしょう。もろもろの被造物のいかなる身分にも満足しなければ、霊は神と一つになり、万物の上に立つものとなるでしょう」(ピコ・デラ・ミランドラ 「人間の尊厳について」 1486年)というような、「人間(の理性的な霊魂)は、世界の中心である」という思想に変わってゆく。

「人間は望めば一切の万物の上に君臨し支配することができる」、さらには、「人間の中には、大宇宙の縮図である小宇宙を持っており、大宇宙のすべてを、認識することができる(から万物を支配できる)のだ」という主張に拡大されてゆく。

言い換えれば「神の奇跡を起こすことが人間にも許されているのだ」という、根本的な思想の転換を引き起こしたのだ。

人間中心思想で、人間が万物に対する認識を獲得することができるのであれば、ダイモン(精霊)という概念を使う必要がなくなってしまう。

実際、ピコ・デラ・ミランドラの「人間の尊厳について」という書籍では、「魔術」を「全自然の認識を獲得するもので自然哲学を絶対的に完成させるもの」=「自然魔術」という言葉と「ダイモンの業と権威に基づいて呪われるべき邪悪なもの」に2分類した上で、「自然魔術(ダイモンに頼らない魔術)」を「神的で健全な術」として語っている。

※注:ダイモンの業とダイモンに頼らない魔術という分類自体は、13世紀から存在する。だが、もともとはむしろ自然魔術のほうが、「悪魔に唆された犯罪」であったことに対して、ルネサンスに入って「自然科学」として中性化を容認し、「神的で健全」と変わっていたということが新しい変化だ。

これが、15世紀に起こった、「唯一絶対神」から、「神の子としての人間」という、人間中心思想への、大きな思想の変貌である。

 

【参考】山本義隆著 「磁力と重力の発見」~2・ルネサンス~

List    投稿者 t-taku | 2022-07-10 | Posted in B01.科学はどこで道を誤ったのか?No Comments » 

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