日本人の身体技法 part6 ~エピローグ:「型」とは何か~
本シリーズでは
日本人の身体技法 part1 ~プロローグ~
日本人の身体技法 part2 ~ナンバ歩きとは何か?~
日本人の身体技法 part3 ~日本人の呼吸法とは?~
日本人の身体技法 part4 ~丹田とは何か?~
日本人の身体技法 part5 ~日本人の服装~
と続けてきました。
日本人の身体技法 part1 ~プロローグ~で、以下のように書きました。
昔の日本人は環境にカラダを合わせて動きの質を変えてきたと想像できます、産業が発達するにつれ、環境の方を人間に合わせるようになってきました。これは洋の東西を問わずに言えることですが、日本人にとっては、これはそれほど長い時間をかけて進行したものではなく、ほんの数十年のことです。
身体の動きは脳の深い所に直結しています。数百年にわたって適応してきた身体技法を失うことは何を意味するのでしょうか?
グローバリズムが進行する現代、身体の使い方まで多様性を失うのは人類の可能性を摘み取る行為に思えてなりません。
日本で培われた身体技法を取り戻すということが次代の可能性収束先なのかもかもしれないのです。
日本人の身体技法といっても、武術や芸能における本格的専門的な世界の秘伝から、大衆全般に見られる共同体の中で伝え、守られてきた所作まで含めて対象は非常に広範です。日本ではそれらを伝達、共有、継承していくために 「型」という概念が生み出されました。
「型稽古の様子」 (画像は合気道S.A.戸田様から借用しました。)
本シリーズの最後に「型」についての認識を紹介しておきましょう。
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「型」とは構造認識である
「型」といっても、ただ形をまねればよいのでしょうか。
ファーストフード店でマニュアルどおりの応答をされても、全くありがたみを感じない。形だけを伝えることにたいした意義はないし、そんなものが何百年も伝承されるわけがありません。
形を伝えることが真意ではないはずです。
さらに形は環境によって変化するし、変化すべきものでしょう。
さて「型」とは何か。
端的に言い換えると、「型」とは構造認識に他なりません。
反復練習によって「型」を習得するということは、構造認識を理解し体得するのと同じことなのです。
一輪車を与えられた者が、それを発展させオートバイにたどり着いたとしよう。後の人間がその結果としてのオートバイを与えられ、そこから一輪車まで正確に逆をたどれるかということを考えてみると、いかなる必然性がそのものを成り立たせているかということを求める難しさが想像できる。
機械的な物の構造を理解するということについては、分解してみるのが一番確かな方法であろう。各部品の関係性を観察し、分析が進めば設計図が描けるようになる。そうなって初めてその機械のメカニズムを知り、基本的な機能を成立させている本質の部分を感得できるのだ。車輪と動力の関わりがオートバイの機械的な本質であり、武術においてはそれが「型」の持つ意味となる。
るいネット『「型」とは構造認識に他ならない』より引用しました。
「型」=構造認識の習得には個性を排除すべし
「型」=構造認識であるということは、個人レベルの都合やものの考え方がその習得の邪魔をするということです。
武術などの身体操法における型とは、個性を排除するところから始まるものである。型を単なる手順としてしか捉えることができなければ、表面的には似たような、それでいて一人ずつ全く違う動きを繰り返すに留まることになる。そこに共通した質を培うことは非常に難しくなるのである。
優れた型には明確な主張がある。それは一見して気付くことのできるようなものではないが、それを見ようとする意識があれば、やがて見えるようになってくる。ここに個性の排除が必要なのである。型の本意に身を委ね、個性を排除できたときに違う次元の質を獲得できるようになる。質の違う身体を自覚したときに、初めて個性の発現が可能になるのだ。新たな質を得た意識と身体からは、新たな型の創造も可能になる。こうした繰り返しによって、表面上の差異に左右されない質が伝わっていくのである。
【中略】
型はどこで切り取っても、それぞれの瞬間に意味がなければならない。そこに個性の入る余地は元々ないのである。繰り返しになるが、型とは見える部分での動きの手順ではない。それは質を獲得する為の暗号とも言えるもので、ひたすら反芻を続けることによって、そこに隠された本意に気が付いたとき、初めてその存在意義が理解できるというものであろう。
るいネット『「型」=構造認識の習得には個性の排除が必要。』より引用しました。
先人は「型」に何を求めたのか
(前史時代も含めて)時代や環境によって、働く外圧が自然圧力だったり同類闘争圧力だったりしますが、強力な外圧が働いたときにこそ本来の自然体であろうとする欠乏が生じます。まず行ったのは無用な意識や自我を捨てることであり、その結果として感覚を研ぎ澄まして次元の高い自然体を獲得しました。その過程を観念機能によって記号化したのが「型」ということです。
命のやり取りを前提とした武術の世界で強く希求された「型」ですが、共認闘争においても有用な認識は「型」に昇華して、社会に浸透していくことになるのでしょう。
元々個人の感性によって術が生まれ、そこに客観性を持ち込んでその感性や感覚といったものを伝承可能な質に置き換えようとしたのが型であると考えると、その意義がはっきりと見えてくるのではないだろうか。型を通じて先人の感性を記号的に取り込み、それに則って自らの感性を技や術として表現するというのが、型稽古の本意であると思えるのだ。
動物の素早く力強い動きは本能的身体性によるものである。その人間に欠けた身体性を思考によって求めた結果が、型という文化であるという考え方はできないだろうか。本能的身体性とは即ち自然体である。本当の意味での自然体とは必要なことを必要なだけ行うというシンプルなものであるはずだ。そこに意識や自我というものが介在するが故、人間は観念的にしか自然体を求められない。そんな中で、命のやり取りの上になる武術というものに、本来の自然体を獲得したいという切実な思いがあったことは疑う余地もない。
ただ自我を捨てただけでは、人間としての身体能力に限界が訪れるのはあっという間のことであろう。また勘をどこまで研ぎ澄ましても、そこから得られる身体性は個人のものでしかない。自然から最も遠いところにあると思える文化的思考によって、自然体と同質のものを得ようという意識が、型を生み出したと言えるのではないだろうか。
るいネット『先人は「型」に何を求めたのか』より引用しました。
さて、現代人が捨て去ってしまった古来の身体技法を取り戻すことが「次代の可能性収束先」となりうるか、判断は読者のみなさんに委ねたいと思います。
本稿で「日本人の身体技法」シリーズは終了します。ご愛読ありがとうございました。
参考:武術操身法・遊武会さん(上記引用文の原典があるサイトです)
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コメント3件
nannoki | 2010.05.25 15:17
>ジャキ様
コメントありがとうございます。えらくお詳しいですね~
工場などの廃熱をレーザーに変える技術は、エントロピーの観点からも有効そうですね。勉強してみます。
その他の観点もあれば、これからもぜひコメントしてくださいね。よろしくお願いします☆
yasyas | 2010.06.06 8:39
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私もこの本には、大変興味をひかれました。
ジャキ様が示唆する通り、この技術の核心は酸化マグネシウムの還元技術になると思います。
これにより、金属マグネシウムが効率よく得られれば、熱水との反応で水素も得られます。天然ガスから白金触媒により水素を得るよりも現実的だと思います。
これからの記事を楽しみにしています。
この本は私も読みました。
実用化の可能性は私も非常に関心があるので、頑張ってください。
この研究者は、太陽光を収束させたレザー光にこだわっているようですが、工場や内燃機関から出る廃熱(赤外線)を収束させたレザー光も同時に研究した方が、光源や波長も安定してる分実現性高い気がします。
鍵は人工ダイヤのような超優秀なヒートポンプ素材を低コスト・低環境負荷でいかに作れるかに掛っていますが。
実現できれば、日本の産業界は熱量保存則と経済合理性の範囲内で、乾いた雑巾から想定外の果実を絞り出すことができるでしょう。(国際金融や、環境ファンドを涙目にしてやりたいですね。)