『カラダは、心の容れ物』~お産を本気で追求したい コラム~
みなさん、こんにちは
年末年始 に友達と会っておしゃべり をしていた時、
27歳という年齢もあって、「出産・子育て 」の話になりました。
その時、みんなこぞって
「男の子がほしい!」
「育てやすい女の子がいい!」
なんて言ってました
(かく言う私も、子供は男の子がいいなぁ~なんて言ってた1人ですが・・ )
また、痛いのイヤだから「無痛分娩にしたい 」とか、
お正月休みでみんながいる内に産みたいから計画分娩 にするとか、
私たちは、えらく自分たちの勝手でお産をしようとしています
休み明けに、お産シリーズの勉強として「えらぶお産」という本を読んでいて、
はっ とする気付きがありましたので、お産シリーズのコラムとして、ご紹介します
『カラダは、心の容れ物』
私たち「ヒト」は、いつでも思考活動をして生きていると錯覚しがちですが、眠っているときも呼吸しているし、目にゴミが入ったときは、意識していなくても涙が流し出してくれます。
―誰が呼吸をしてくれているの?
―誰が涙を流してくれているの??
それは、カラダです。
心が眠っているときも、何かを考えたり感じ取る前から、いつもカラダという容れ物は、私たちの生活が滞りなく営まれるようにと働いてくれています。
「目に入ったゴミを出したのだから、褒めてよ」なんて言わないし、「今月もちゃんと月経になったんだから、ボーナスポイントちょうだい!」なんて求めません。
この髪の毛も、眼球も、爪も、「自分でつくった」という人は誰一人としていないように、命の容れ物であるカラダそのものが自然界からのギフトです。自分の意思でつくり出したものは何一つないのに、この自然界に生を受けたカラダが、日々呼吸し、喜怒哀楽を感じ、エネルギー循環しているという事実をあらためて考えてみると、
「私って、生きてるだけでもスゴイかも」
「なんてありがたいんだろう」
っていう感謝の気持ち が湧いてきませんか??
「嬉しいなぁ」「気持ちいいなぁ」とつぶやける状態が「生きている実感を持てるとき」だと思いがちですが、心の容れ物になっているカラダそのものは、言語化されるよりももっとベーシックに生きている実感を味わって楽しんでいます。
眠いときにおふとんに入ると寝る前なのにワクワクすること。
お湯につかると激怒の後でも気持ちよく心身が緩むこと。
おいしい食事をすると幸せな気持ちになること。
気持ちのいいセックスをすると自信が高まること。
カラダのゆがみが多く生じた日は、睡眠時の寝返りを何度もうちながら、自然にストレッチしていること・・・・
いちいち言語に置きかえて実感しなくても「カラダの心」は充たされるように、いい方へと向かいながら全身で帳尻を合わせてくれているのです。
なるほど~~
つい勝手に「○○がいい 」とか「○○はいや 」なんて、根拠なく思ったり、言ってしまっているけど、カラダは、いつだってちゃ~んと充足の方向へ向かっている
それは、妊娠や出産にしたって同じコト
子供の性別だって、こだわらなくっても、結局はどっちだって可愛いもの
(これ、産んだお母さんからよく聞きますよね。)
陣痛の痛みにだって、うまくつきあうことができるカラダを持っているし、
お母さんの産む力も、赤ちゃんの生まれる力も、ちゃんと備わっている
・・・そう考えてみると、こだわりがちっぽけなことのように思えてきます。
今、「生きてること 」にも感謝だし、
男と女で「命をつなげていけること 」にも、感謝ですよね
お産シリーズを考える上ではもちろん、普段からも、
私たちのカラダには 自然の摂理 が備わっている
ということを忘れず、日々追求していきますので、
みなさん、これからもお産シリーズ、よろしくお願いします
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