環境を考えるには構造認識が不可欠!『潮流9:経済破局を突き抜けてゆく充足・安定・保守の潮流』-1
今回は『環境を考えるには構造認識が不可欠!』シリーズの、今までの流れのまとめからはじめます。
第1回 環境を考えるには構造認識が不可欠!『潮流1:共認原理と私権原理』
今まで、人類社会はどのように統合されてきたのだろうか?
人類500万年を貫く統合原理は、共認原理である。事実、人類は500万年に亘って課題を共認し、役割を共認し、あるいは規範や評価を共認して存続してきた。そして、個体(の意識)や集団や社会は、人々が、それらの共認内容に強く収束することによって、統合されてきた。又、そこでは、集団を破壊する自我や性闘争は、永い間、封印されてきた。
このシリーズは、エネルギーや環境の問題を、“市場”を前提に、“環境”という抽象観念で捉えるため、原因が見えなくなってきているのではないか?という問題提起から出発しました。そして、そこを超えるには、市場の構造も踏まえた環境問題の根本原因の分析が必要になってきます。そうすることで初めて、実現方針を構築できるようになる、というものでした。
そしてこの問題を考えるための、切り口として『共認原理と私権原理』という人類が経験してきた2つの統合様式を取り上げています。なぜならば、環境破壊の最深部には、共認原理が私権原理に侵食されたという事実あるからです。この侵食により、人類は、自然を共認対象から略奪対象へ転換して環境問題を起こしてしまいました。
だから、環境問題を解決するための、次代のエネルギー・資源のパラダイムは、自然や仲間を共認対象としてとらえる、人類500万年を貫く共認原理に委ねる必要があるのです。そこでの、追求対象は、単に自然科学的領域の問題にとどまらず、集団・社会の構造の大転換という問題も含まれてくるのです。
ところが、現在の環境問題は、自然科学的領域の問題に終始し、集団や社会構造は対象化していません。これは、環境問題の本質は市場での自由な私権獲得競争であるという事実を隠蔽するため、科学的装いによって、あたかもこれが環境問題のすべてであるかのように思わされているからです。
これが、みんなが感じる現在マスコミから流される環境問題への違和感の原因だと思います。
ところで、今まで対象としてこなかった環境問題のもう一側面の『集団・社会の構造』はどのようになっていたのでしょうか?環境問題の出発点になる市場拡大の初期である戦後から見ていきましょう。
第2回 環境を考えるには構造認識が不可欠!『潮流2:戦後日本の意識潮流』
戦後は、封建的な時代から民主主義の時代への転換期とされます。しかし、封建社会とは、序列原理により統合された社会=私権統合の社会のことです。そして現代の民主主義社会も、私権統合の社会のままだったのです。つまり、表面的には序列制度は無くなったように見えただけであって、序列規範は強く残存し続けていたのです。
その後、市場の拡大につれて、恋愛や小説や新聞が繁殖してゆき、序列規範も少しずつ衰え始める。しかし、国家の体制が変わっても、集団を統合する新たな統合原理は登場せず、官庁や企業では序列制度がそのまま残存し、現在も序列制度はそのまま続いている。
これは、極めて重大な問題である。まやかしの近代思想に染められた識者たちは、この点に触れることを避け、この問題から逃げ続けてきたが、それは彼らの口にする「民主主義」が欺瞞に満ちた騙しであることを端的に示している。
このようにまやかしの近代思想が、市場を拡大させていったのです。他方で近代思想は、集団規範を解体して行き、みんなの生きる基盤であった村落共同体をも解体して行きました。このように、戦後という時代は、近代思想に導かれ市場を拡大してきたと同時に、よって立つ基盤となる集団をも徹底的に解体してきた時代です。
それは、一方で人々を充足基盤のないバラバラの個人に追いやり、他方で、その非充足を埋めるための物的充足=消費に走らせることになります。その結果としての大量消費が、環境問題を引き起こしてきたのです。だからこそ、環境問題解決には、人々は充足する基盤である共認原理で統合される集団=共同体の再生が不可欠になるのです。
第3回 環境を考えるには構造認識が不可欠!『潮流3:’70年、豊かさの実現と充足志向』
その私権統合の社会も’70年を境に大転換期を迎えます。つまり、豊かさの実現によって生存圧力は弛緩し、充足の実現可能性が開けて、充足志向・安定志向を生み出しました。この中身は、
また、生存圧力が衰弱し、物的充足が飽和状態に達した状況での新たな(=より大きな)充足可能性は、物的価値ではなく類的価値(人と人との間に生じる欠乏)の充足の中にしかない。そして、類的価値の充足とは、共認充足に他ならない。又、充足志向は安定志向を生み出すが、この安定も相手との共認や規範の共認etc人々の共認によって実現する。従って、生存圧力を脱した人々が志向する充足・安定志向は、必然的に共認収束の大潮流を形成してゆく。
それだけではない。生存圧力が弛緩したことによって私権圧力→私権欠乏も衰弱過程に入ってゆく。つまり、’70年、豊かさの実現(=貧困の消滅)をもって、人々の意識は私権収束から共認収束へと大転換を遂げたのである。
になります。この共認収束への大転換は、自然に対する意識の変化も生み出します。それまで自然を支配し、略奪対象として見ていた私権意識から、自然を同化対象としてみる意識が、再び開かれていきます。しかし、他方で、’70年以降も大量生産・大量消費は加速し、環境問題はいっこうに解決する兆しがありません。
これは、共認収束による環境意識の高まりは潜在思念のレベルにとどまっており、顕在意識部分は、私権収束→私権統合のまま、かつ、「否定と要求」を正当化する近代思想のパラダイムのままだからです。また、むしろ、’70以降、共認収束へと移行したことによって、共認権力をもつマスコミの力が肥大化し、旧い近代思想は一時蔓延していくことになりました。
そして、学者、官僚、マスコミを通じて報じられるあらゆる環境政策も、この近代思想のパラダイムと同じなので、環境問題は何時までたっても小手先だけの変革となり、現体制の補完物と化してしまうことになります。つまり、環境問題を解決するには、近代思想とそれに導かれた市場や、私権統合のままの現体制を前提にしている限り答えは出ないのです。
第4回 環境を考えるには構造認識が不可欠!『潮流4:輸血経済(自由市場の終焉)』
ここで環境問題の原因である近代思想とそれに導かれた市場についてみて行きましょう。’70ほぼ豊かさが実現されると、物的充足が飽和限界に達したことによって需要が頭打ちとなりました。ここで、市場は拡大を停止するしか無くなったのです。しかし、その延命のために、
自由市場は、豊かさが実現された’70年以降、縮小過程に入ったのである。現在の市場は、国家による資金注入という輸血装置によって生き延びている人工市場なのであって、決して自然な需要と供給に委ねられた自由市場なのではない。
需要が飽和している所に、巨額なマネーを流し込んでも、市場は余分なマネーでジャブジャブになるだけである。しかし、いくらマネーでジャブジャブになっても、常に供給過剰・需要不足なのでインフレにはならない(=余分なマネーが吸収されない)。そこで、必然的に余分なマネーは土地や株式etc供給に限界のある投機商品に流れ込み、投機商品のハイパーインフレ=バブルを生み出す。
このように、国家による輸血経済に舵を切ります。その結果バブルを引き起こします。つまり、’85年以降、市場はバクチ経済の段階に突入したのです。
そうすると、’70年前後までの高度成長の後一旦落ち着いていたエネルギー消費が、80~85年くらいから増加に転じます。これは、上記のバクチ経済の時期に重なります。つまり国家の輸血資金で無理やり物的需要を刺激したため、無駄な生産が続き、その間大量のエネルギーを浪費するという愚を冒していたのです。
つづく
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コメント4件
ぴのこ | 2011.01.22 21:01
雑草Zさん、コメントありがとうございます!
>たった半世紀前くらいで、これだけ完璧な循環型の生活様式であった事に感動致しました。その意味で、江戸時代の生活様式ともそれほど大差がないように見えました。
本当にそうです!
循環型の生活様式と同時に、共同体という母集団をもたった50年ほどで完全に崩壊させてしまった。
崩すのは一瞬だし、すごく簡単に思えてしまいますが、作るのはこれまで脈々と続いてきた長い歴史の中で培われてきたものばかり。。。
循環型社会に戻すには、どれだけそこに充足可能性があるか、みんなの笑顔や喜びがあるかを感じられるかにかかっているのではと感じています。
それは、主に女たちの役割ですね!!
第88えらこ丸 | 2013.04.15 18:57
便利さと引き換えに、いろんなものを捨ててきたのだと、考えさせられました。ありがとうございました。
ぴのこ | 2013.04.18 19:39
第88えらこ丸さま
コメント、ありがとうございます☆
「今」しか知らないと、何も感じず、要求ばかりが出てくる・・>第88えらこ丸さま
コメント、ありがとうございます☆
「今」しか知らないと、何も感じず、要求ばかりが出てくる・・><
でも、「今」以外を知れば、違いがわかって、色んな想いが生じる☆
それが、本当に大切だと思います!
ありがとうございました(^^)
雑草Z | 2011.01.18 22:23
大変興味深い記事でした。
たった半世紀前くらいで、これだけ完璧な循環型の生活様式であった事に感動致しました。その意味で、江戸時代の生活様式ともそれほど大差がないように見えました。
その後、50年でこれだけ無駄なゴミ・・それも自然に循環しない地下資源や石油化学物質の廃棄物で溢れてしまいました。非常に脅威です。これだけ循環しないゴミを大量に廃棄し続けている付けは非常に大きいでしょう。取り返しがつかないかも知れません。
これから目標とする真の循環型社会は、この記事にあるような昭和39年頃の生活様式がかなり参考になるでしょうね。ある意味最先端かも知れません。