2011-01-02

社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待

あけましておめでとうございます。
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前回の記事では、古代から中世までを押さえました。文明前夜の頃から略奪、皆殺しを繰り返してきた西洋では、共同体=共認充足の場が失われたことによって個々人が根無し草の存在となり、誰もが自我・私権の主体となっていきました。しかし、支配体制が絶対であった中世までは、大衆の私権獲得の可能性は閉ざされており、出口のない救い欠乏が社会期待として登場し、その収束先に宗教(唯一絶対神)が存在していたといえます。
まとめると【略奪・戦争→共同体解体⇒自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神】という構造です。
これを、環境問題にひきつけてみると、この時代までは自我・私権の主体となった特権階級と大衆という構造が確立したものの、大衆の私権獲得の可能性が閉ざされているが故に、今日に見られるような【豊かさを要求する大衆】は存在しておらず、従って大量生産・大量消費といった環境問題も顕在化しませんでした。つまり、環境問題は顕在化していないが、その原因となる土台が創られた時代だったと言えるでしょう。
今回の記事では、『社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待』と題して、環境問題が顕在化してきた近代市場を扱います。

前回の記事にも触れられていますが、近代市場時代とは、自然圧力×同類闘争圧力×支配圧力=3重の圧力からの脱出口として、新しい私権獲得の場である市場が登場した時代です。市場の登場によって、大衆にまで私権獲得の可能性が開かれ、大衆の末端に至るまで自我・私権が顕在化し「救い欠乏」にかわって「豊かさ期待」が社会共認として登場し、市場拡大の原動力となってきました。
また、この市場拡大を牽引してきたのが、国際金融資本家(金貸し)の意向に従い、私益を貪る特権階級や知識階級です。そして、その私権獲得を正当化するために登場した観念が近代思想ということになります。古代宗教の神の位置に、個人をすげ替えたのが近代思想であり、これは現代でも市場拡大を正当化する思想として脈々と受け継がれています。
しかし、当時も現代も近代思想に収束していたのは知識階級のみであり、大衆全てが近代思想に収束していたわけではありませんでした。大衆は近代思想ではなく何に収束していたのでしょうか。これが、前回記事の予告にある「共認非充足はどのように処理されていたのか?」の答えにあたる部分です。

(さらに…)

  投稿者 nannoki | 2011-01-02 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史No Comments »