2011-01-03

社会期待の歴史(6))‘70年~現代 遊びの終焉により社会はパラダイム転換を迎えた

あけましておめでとうございます
 
前回は環境問題の根幹である、近代市場=「豊かさを要求する大衆」と「私益を貪る特権階級の暴走」の登場。そして、その背景にある大衆側の【豊かさ期待】と【代償充足(解脱埋没)】共認の構造を押さえてきました。
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1970年代の豊かさの実現の後、私たちの【豊かさ期待】や【代償充足⇒芸能】はいったいどのように変化していったのでしょうか?今回は貧困が消滅した‘70~現代までの社会期待の行方を追っていきます。
 
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   貧困の消滅=豊かさの実現から遊びの終焉 (1970年代~1990年代)
 
 
1970年代の豊かさの実現によって貧困は消滅し、人々の社会期待は大きな転換期を迎えます。そして80年代の過剰消費、90年代のバブル崩壊、00年代の世界的経済破綻によって、新たな社会期待は顕在化しつつあります。
 
その社会期待の時間軸上の構造的変化を10/17なんでや劇場(6)’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束をもとに追ってみましょう。
 

10/17なんでや劇場(6) ’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束より
 
先進国において豊かさが実現されると同時に、近代思想は生命力を失い、無思想・無関心が蔓延する。また、同時に芸術・芸能(ex.小説や歌)も無内容化してゆく。
歌謡や小説は、一方では近代思想に導かれて恋愛や自由を美化する機能を持ちながら、もう一方では権力支配や資本支配によって失われてゆく本源性を拾ってゆく機能もあり、大衆の共感を呼ぶ中身やストーリー性を有していた。
だからこそ共認非充足の解消手段足りえたわけだが、’70年豊かさが実現し抑圧がなくなって以降は、歌謡や小説は中身もストーリー性も喪失し、もはや代償充足にすらならない代物に成り下がった。

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まずこのように、第一段階として豊かさが実現すると、それまでの共認充足の代償物としての芸術や芸能への社会期待が消失その結果、芸術や芸能がとことん無内容化していきます。
 
 
「いやいや。歌謡曲などの音楽やTV(娯楽番組)は70年以降も80年代・90年代と全盛期だったと思うけど?」 
 
 
そうなんです。70年以降、芸術・芸能はもはや共認充足の代償物には成り得ない無内容なものとなって行ったのですが、その無内容の芸術・芸能にはそれまでとは異なった社会期待がかかっていたのです。

10/17なんでや劇場(6) ’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束より
70年豊かさの実現によって、豊かさ期待も私権意識も衰弱した。これは収束先を見失ったのと同義であり、’70~’90年代へと次第に収束不全が増大してゆく過程である。この収束不全を解消する解脱欠乏⇒発散の必要が増大し、歌やTVにかじりつくようになったのである。 
 
しかし、これは単なる解脱欠乏なので発散or時間潰しさえできれば中身はどうでも良くなってゆく。だからこそ、芸術・芸能がトコトン無内容化してゆくにもかかわらず、大衆はそこに埋没していったのである。

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そして豊かさの実現の第二段階として、社会期待は収束不全→ 解脱欠乏が増大⇒発散(解脱充足期待)へと向かいます。この社会期待が無内容化した芸能他へと収束したのです。また、芸術・芸能と同様に無内容なレジャーや博打等の娯楽、豊かであるにも拘らず過剰の物的消費という無意味な発散行為へと、一億総中流社会は向かっていきます。
 
        (そして、この一億人の発散行為によって環境が破壊されていきました) 
 
 
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    課題収束。 ・・・そして認識収束がはじまる (2000年代~2010年代)
 
しかし、当然ですがいくら発散しても、収束不全そのものはなくなりません。どんどん秩序(社会)はガタガタになっていきました。そうです。やがてこの収束不全の高まりは、解脱充足=発散行為そのものを無意味化し、新たな社会期待を形成していくことになるのです。
 

10/17なんでや劇場(6) ’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束より
ところが、’02年頃、一転してCD売上はマイナスに転じ、TV離れが顕著になる。これは何故か?市場社会は豊かさ期待と私権拡大が活力源であったが、’90年バブル崩壊によって私権拡大の可能性が消滅する。
ここから現代は出発する。
万人の意識の心底に収束不全が蓄積されてゆく。そして、新たな可能性収束先の探索が無意識に始まる。そこで、意識の最も深い部分にある本能は秩序収束してゆく。∵本能は、自然圧力に対して生命が適応するため⇒秩序化するために塗り重ねられてきた、秩序化の体系だからである。
 
とりわけ人類にとって、秩序は共認によって形成される。だから収束不全から直ちに共認収束のベクトルに入ってゆく。最初は、’80年代に始まる仲間収束⇒’02年頃、私権観念が崩壊し収束不全が増大すると、次の秩序収束先として、課題(勉強・仕事)に収束する。
そして、課題収束は必然的に追求に向かうので、追求と逆ベクトル(弛緩過程)にある遊びはうち捨てられてゆく。これが’02年以降、芸能や娯楽が衰退してきた理由である。
そして、秩序収束に立脚した共認収束⇒課題収束というベクトルの最終収束先は、認識収束しかない。ここまで当事者欠乏が生起して来たということは、娯楽をはじめとする代償充足は今後は不必要になったということに他ならない。これは決定的なパラダイムの転換である。

 
 
こうして第三段階。ついにに70年代の豊かさの実現以降、40年をかけて私たちの社会期待は本当の意味での社会期待=自分たちの社会どうする?という本源期待へと転換してきたのです
        

       収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束     

 
課題(どうする?)に向かった時、それが私たちの実現思考のはじまりです。そして、その私たちの実現思考はこれまでのような、幻想や騙しといった都合のよい観念や価値観ではなく、事実の認識へと一直線に向かいます。
 
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            ’70年、豊かさの実現によって私権意識が衰弱
          ’90年、バブル崩壊によって豊かさ期待が消滅
          ’08年、世界バブル崩壊によって私権観念が瓦解
          ’10年、豊かさ期待に代わって本源期待が生起
 
 
 
このことは、つまり共同体の時代が始まったことを意味するのです。それは、これまで個々で存在し、個々に発散して、各々が社会不全を捨象してきたバラバラだった個人のその一人一人が、これからは社会の当事者としてみんなで「社会をどうする?」という共通の課題のもとに収束していくという事なんです。
 

豊かさ期待の消滅⇒遊びの終焉によって、近代社会が騙しであることが露わになってきた
この1年くらいで、「近代社会全体が騙しだったのではないか」という認識がしだいに強くなってきました。今では、ほぼそう断定できるところまで根拠が固まりつつあります。
何故、人々は騙しに気づくようになってきたのでしょうか?
近代を貫く社会意志=豊かさ期待の中にも大量の幻想(騙し)が混じっています。万人が豊かさ期待の中にいる時代は誰もその騙しに気づきません。例えば、豊かさ期待を正当化する主張である近代思想の欺瞞性には、誰も気づきませんでした。
ところが、豊かさ期待が消えると、人々の意識との乖離が目につくようになります。例えば、豊かさが実現されると、誰も市場拡大には可能性を感じなくなります。ところが、特権階級は市場拡大絶対の主張を垂れ流し続けます。すると誰もが「この連中は、どこかおかしいのでは?」と感じるようになってゆきます。
これも、豊かさ期待という社会意志は消えたが、観念はそのままなので、社会意志との乖離が大きくなり、矛盾が目につくようになってきたことの一つの事例でしょう。

 
このように私たちは現在、新たな社会期待=本源充足期待である「本当に豊かな社会」とは何か?「みんなが充足できる社会を実現」するには?という社会意思を心底で感じて動き出しています。当ブログに代表されるような環境問題をはじめ、既に政治・経済・歴史・文化・事実認識に対する社会的感心の高まりこそが、まさにそのことを表しているのではないかと思います
 
 
 
それでは次回。シリーズ(7)~環境問題を解決するには新しい認識(=近代思想、近代市場を越えた可能性)が必要~ へと続きます。これから私たちの社会、そして未来はどのように変貌をとげていくのでしょうか?お楽しみに

List    投稿者 kasahara | 2011-01-03 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史2 Comments » 

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コメント2件

 雑草Z | 2011.12.09 21:47

ピックアップとシールドケーブルの原理がよくわかりました。
 ピックアップは電磁石である事は知っていましたが、改めて原理を確認する事が出来ました。それに対して、シールドが、普通の音楽プレーヤー用のケーブルとどう違うかは初めて知りました。なるほど、だから「シールドケーブル」って言うのですね!?・・よくわかりました。有難う御座います。
 この記事は、かなりエレクトリック・ギターが好きな方が書かれていますね?・・非常に共感が持てます。余談ですが、シングルコイルピックアップとハムバッキングピックアップの違いも是非説明お願い致します。私はハムバッカーの音のほうが好きです。レスポール派と言う事になりますが、完全なハムバッカーでない S-S-H のギターも好きです。
(・・ここのサイトの主題とかけ離れたコメントにて失礼!)

 sima-t | 2011.12.14 15:10

コメントありがとうございます(*´∀`)
このブロググループに入ったばかりの新参者の私が書きました☆
お察しの通りギターが大好きです♪私も雑草さんと同じくレスポールの方が好きです(*´ω`*)
S-S-Hと言えば、近頃バッカスから質の良いのが出ていますので毎日カタログを見ながら興奮しています。笑
(買いたいのですが結構良い値に・・・)
またハムとシングルについて機会があれば自然の摂理と合わせて追求したいと思います(゚∀゚)♪
これからもブログを宜しくお願いしますね♪
雑草さんのブログも読ませて戴きました♪次のUPを楽しみにしています(´∀`*)

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