健康=元気の素ってなんだろう?その7~共感は、言葉を持たないサル時代から始まった②~
健康=元気の素ってなんだろう?その7~共感は、言葉を持たないサル時代から始まった①~
皆さん、読んで頂けました~ (まだの方はぜひ①からどうぞ 😀 )
サル時代の話にちなんで、可愛いおサルをチョイスしてみました なんでやカードがネットで購入できます
前回は、共認機能を獲得する前のサルたちが、どんな状況に置かれていたかをおさらいしました
今回は、その状況下で、どのように新たな機能を獲得していったのかを明らかにしたいと思います
いつも応援頂き、ありがとうございます
前回の最後に出てきた、縄張りを確保できなかった、弱オスザルたち
かれらはどのように現実に適応していったのでしょうか 🙄
それには、いくつかの段階を経ているんです
本能レベルでの変化
不全感の塊であった境界空域の弱オスたちは、適応欠乏に導かれて強く追従本能に収束する。
しかし、互いに追従し合っても、誰も(縄張りの確保あるいは不全感の解消の)突破口を示すことは出来ない。
そこで、わずかに可能性が開かれた(=不全感を和らげることのできる)親和本能を更に強化し、追従回路(アドレナリンetc.)に親和回路(オキシトシンetc.)が相乗収束した依存本能に収束してゆく。
単体では突破できない中、弱オスたちは、
追従本能の解除+親和本能の強化⇒依存本能に収束
していったんですね
しかしながら、身を寄せ合うことで、不全感を和らげることは出来ましたが、この本能ではどうにもならない状況を突破するまでには至りませんでした
依存しあう中で見つけた同一視
こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。
(中略)
この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質βエンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。
そう 共認機能の前には、まず『相手を同一視し、期待に応えあう充足』共感回路が原点にあったんです 😮
その後、真猿時代になると、この共感回路をベースに、規範や役割を共に認め合い、集団を形成していく共認機能を生み出していきました。
←真猿はこんな感じ
観念機能を持たない原猿の段階から、言葉で伝えなくても、深い潜在思念の部分で既にお互いの感覚を一致させることが出来ていたとは驚きです
逆に人類は、この純粋な共感回路に、誤った観念が色々塗り重なっているから、サルのような潜在思念上の共感をイメージするのは難しいのだそうです:-(
誤った観念により人類は、この共感の部分も、気づけなかったり、間違えてしまったりします
でもね 私たちにも、ちゃ~んと、この共感回路は備わってる
【共感回路⇒共認機能⇒観念機能】
ということは、この“共感”をどれだけ擦り合わせられているかで、共認の深さもかわってくるんです
そこは、人類の最先端機能“観念機能”を使って、新しい観念でどんどん擦り合わせていけるというのも、また人類の新しい可能性ですね
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コメント8件
rino | 2011.01.03 22:51
>また、共同体を失い代償充足(解脱埋没)を追い求めるだけとなった大衆は、ますます傍観者の構造となり、要求するだけ、消費するだけの存在となっていきます。
「傍観者」の構造。
このような構造が露になってくると、現在の大衆側の想いとは裏腹に環境問題が悪化していく構造が見えてきそうですね。
深いですね、このシリーズ~。。。
nannoki | 2011.01.05 12:13
>青銅器さんへ
コメントありがとうございます☆
アヘン密売によって得た富で、中国の銀⇒金融を支配する一方で、アヘンによって大衆を廃人化(超非充足)させることで代償充足⇒市場拡大の原動力を創っていく。上海は、むごいくらい、この構図の歴史を歩んできてますよね。私は上海には行ったことがないのですが、上海の人は、今もこの傷が残っているのでしょうか?
nannoki | 2011.01.05 13:50
>rinoさん
コメントありがとうございます☆
傍観者だと環境問題は解決しない、というのは、誰もが実感するところですよね。ただ、この事を否定したり、啓蒙するだけでは、何も変わらないのも現実。
そっちの方が充足できるからそうする、その結果環境も変わっていく、みたいなアプローチが求められているのかなと思います。最終回をお楽しみに♪
しょう | 2011.01.05 20:35
“しょう”のブログから来ました。
拙ブログへのご訪問・コメントありがとうございます。環境問題に関して議論することも含め、問題意識を共有していけたら、と思います。
>文明前夜の頃から略奪、皆殺しを繰り返してきた西洋では、共同体=共認充足の場が失われたことによって個々人が根無し草の存在となり(・・・)
確かにそれが、キリスト教をはじめとする「世界宗教」誕生の背景になっていたと思います。ただ、「世界宗教」の歴史的な意味については別の角度から考察したころがあります。
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/201007240000/
よろしければ、ご一読ください。
nannoki | 2011.01.06 15:50
>しょうさん
コメントありがとうございます☆
しょうさんのブログの記事も拝見しました。共感する点、参考になる点、たくさんありました。ありがとうございます。
島国日本は、昔から世界の略奪闘争から縁が遠く、古代中世の敗北者が朝鮮半島からやってきた歴史があります。縄文の南方モンゴロイドから敗北者の吹き溜まりまで、多様な人種を受け入れてきたのが日本のようにも思えますが、面白いのは、日本に来れば皆縄文的体質の日本人になるということ。
超越性の宗教を必要とした西洋人でさえ、日本にくれば共同体的日本に感化され、超越性云々の宗教色や人権色を失っていくようにも思われます。それが日本の可能性でもあるのだと、しょうさんのブログを読ませていただき感じました。
bambi | 2011.01.11 13:41
>共認非充足を埋める代償充足の場が芸術・芸能
なるほどなーと思いました。
大昔は歌手の歌を聞くんじゃなくて仲間と歌ったり、芸能人の話を聞くんじゃなくて仲間の話をもっと聞いたりして楽しんでたんだろうなあ。。
nannoki | 2011.01.13 20:41
>bambiさん
コメントありがとうございます☆
>大昔は歌手の歌を聞くんじゃなくて仲間と歌ったり、芸能人の話を聞くんじゃなくて仲間の話をもっと聞いたりして楽しんでたんだろうなあ。。
とても解りやすい実感ありがとうございます。ホントその通りですね~
今はテレビを見ない人がすごく増えているように思いますが、日常の中に充足の場面が増えるほど、芸能人一色の無内容化したテレビは無用になっていくのでしょうね。
青銅器 | 2011.01.03 22:48
>共認非充足を埋める代償充足の場が芸術・芸能であり、この芸能(主要には恋愛)を基点とした商品市場こそが近代市場の原動力となり、豊かさ期待と並ぶ、代償充足(解脱埋没)の社会共認が創られてきた
なるほど~。
先日、上海で上海の歴史の博物館に行ってきましたが、その中でも、農村だった上海がどんどんヨーロッパ系の外国人移民が持ち込んだ思想によって、娯楽や恋愛が発展し、近代都市としても大きく発展していく様が見て取れました。
しかしながら、その一方でアヘン中毒やギャンブルの発展、搾取されていく庶民の暮らしなど、共認非充足の高まりももう一面の上海の暗い歴史として残されていました。
次回、今後どうなる!?も楽しみにしていますね^^