ダイオキシンって危険なの?(6)筋書きにはマスコミが欠かせなかった!
ダイオキシンって危険なの?(5) では、まるで筋書きがあったかのように、マスコミによる歪曲化した報道からダイオキシン法が成立していますが、15年以上を費やした前史について扱ってみたいと思います。
これは、ダイオキシンって危険なの?(3)やダイオキシンって危険なの?(4)の「誰のためのダイオキシン法なのか?」でも少しふれられていますが、付け加えて背後の動きを見てみたいと思います。
もっと知りたいと思った方は ポチっとお願いします
このブログを応援するよ 次回も期待しているよ という方 このエントリーのトラックバックURL:
■ドラマの原点
1983年11月19日、立川涼氏率いる愛媛大学の研究チームが「都市ゴミ焼却炉の灰から猛毒のダイオキシンを検出」と発表。マスコミ各社が大きく報道し、これが日本発ダイオキシン騒ぎの原点となり、以後の流れのパターンを決めました。
※ 通常、研究の世界では、成果を論文にまとめた上で匿名の審査を受け、
投稿から掲載まで普通は数ヶ月から1年以上かかるのも珍しくない。
立川氏は審査を受けない発表は、「緊急事態に面倒な手続きは踏んではいられない…」と判断したのかもしれない。
だが、あいにくマスコミには、科学情報を正しく評価できる者が多くなく、そのため、高名な研究者の言葉を信用して「緊急事態発生」を報じたが、実のところ、ゴミ焼却の灰にダイオキシンが含まれるのは、とりたてて新しい話でもなかったのである。
通常終わっていたダイオキシン研究
1976年にイタリア・セベソの農薬工場で起きた事故をきっかけに、発生源から毒性まで徹底したダイオキシンの研究が全世界で行われます。初期はおもに農薬を調べたが、ゴミ焼却でもダイオキシンがでることが分かった1978以降は燃焼との関係もテーマになっています。
ダイオキシン研究は急速に進み、70年代の末にあらかた終わり、1980年代にはアメリカ環境保護庁(EPA)が成果を報告書にまとめています。。91年に出たその邦訳には「1980年代のダイオキシン研究は、1970年代ほど目ざましいものではなかった」という監訳のことばがあり、ものが燃えれば必ずダイオキシンができる(注:800℃以上の完全燃焼でゼロ)ことも、1970年代の末には研究者の常識であったようです。
■すばやかった厚生省
愛媛大学の発表から20日後の12月9日、厚生省は立川氏を加えた「ダイオキシン対策専門家会議」を設置します。しかし、マスコミは大きく報道するも、国民の多くはダイオキシンにほとんど関心や恐怖心などなかった時期です。
なぜ、厚生省はこれほど迅速に、ごみ焼却に特化したダイオキシン対策を始めたのか?
実害はまず考えられない、焼却灰にダイオキシンが出たという当たり前の話が報道されたからと言って、すかさず専門委員会を設置したのはなぜか?
以後、厚生省が司令塔として、研究者と焼却炉メーカーがダイオキシン対策の検討にあたることになる。
厚生省は「ダイオキシン類発生防止等ガイドライン検討会」を発足
1990年12月 「旧ガイドライン」が答申され、地方公共団体に通達。
ここでも、ガイドライン検討会の設置がテレビ報道や焼却炉騒ぎであること。さらには3ヶ月足らずでガイドラインをつくり、市町村に勧告したという迅速な対応には疑問が残るところです。
自治体に莫大な費用を強いる「旧ガイドライン」の勧告を境に、焼却炉をひたすら問題視するダイオキシン対策が全国の自治体で始まる。だが、この段階でも、ふつうの国民はダイオキシンに不安を覚えてはいなかったし、騒ぎもなにひとつ起こってはいませんでした。
『旧手引き書』では「わが国の代表的な焼却炉メーカーの方々と分析の専門家の方々に執筆をお願いした」とあり、資料編には各メーカーが工夫をこらした13のモデル焼却炉が並んでいます。アメリカ企業提携や欧米の実用例をあげ、炉の心臓部は欧米のノウハウだとほのめかすものもあります。(このあたりにも利権の構図が浮かび上がってくるのではないだろうか?)
■「新ガイドライン」勧告とタイムリーなダイオキシン騒ぎ
環境庁は「ダイオキシンリスク評価検討会」と
「毒性評価等分科会」を発足
※両検討会の委員には摂南大学の宮田氏が加わっています
1996年 6月 厚生省は環境庁のリスク評価検討会の提案に従って、
耐容1日摂取量(TDI)を10pg/kgを提案。
→「旧ガイドライン」を見直す「ゴミ処理に係るダイオキシン対策委員会」と
「ダイオキシン対策技術研究会」が発足。
1996年10月 「緊急対策」
1997年 1月 「新ガイドライン」が答申され、地方公共団体に通達。
1997年 2月 「止めよう!ダイオキシン汚染」さいたま実行委員会(以下「埼玉NGO」)が
「所沢のダイオキシン汚染地域で新生児の死亡率が増加している」と発表。
この発表をもって「人体被害」がはっきりと告発されることになります。これは埼玉NGOが単独で起こしたものでなく、活動をささえた一人、田宮氏の助言によるものであったと思われます。
埼玉NGOによると、運動開始のころ(1995年12月~96年10月)の勉強会には出たのは外部の人が多く、地元住民の関心はほとんどなく、地元住民に危機感をもたせたのは96年10月12日のテレビ朝日「埼玉県T市がひた隠す高濃度ダイオキシン汚染」の報道だったということです。
そして、約3ヵ月後の埼玉NGOの「新生児死亡率の増加」告発により、引っ越す人、中絶する女性、妊娠をさける夫婦までいたと言います。それほどまでに住民を脅えさせた告発であり、ダイオキシン法制定の大きな引き金となっています。(次回で扱いますが、こうした被害はことごとく幻だったと云えます。)
マスコミ報道、国民を洗脳しつくかのような恐怖本が次々と(97年から99年にかけて)出て、火に油を注ぎます。
そして、ダイオキシンって危険なの?(5)でも明らかにしたように、国民の不安が頂点に達した99年に、国があわただしく動いてダイオキシン法をつくってしまうことになります。
このダイオキシン法制定までの流れは、政治と業界、学者との癒着を疑うものであり、その切り札になったのがマスコミ報道という、国民の洗脳にあったということは間違いないようです。
<参考文献>
・ダイオキシン(神話の終焉)/渡辺正、林俊郎/日本評論社
長文にお付き合い頂きありがとうございました m(_ _)m
ランキング にご協力をお願いします m(_ _)m
クリック クリック
トラックバック
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2007/05/136.html/trackback
コメント1件
Financial Journal | 2007.06.25 0:02
温暖化と経済(2) ~CDM~
地下埋蔵CO2大作戦に続きまして、今日は「CDM事業って何?」行ってみま~す! …