『科学はどこで道を誤ったのか』(14)最終回 ~共同体を悉く解体された古代ギリシャの自分発の“思弁的な自然哲学体系”が、科学が道を誤った源~
(※左から、タレス、プラトン、ユークリッド)
福島原発の大惨事により、近代の科学技術が人類を滅亡に導くものとして存在していることが明らかになった。
つまり、近代科学は、現実に則した事実認識とはいえず、傲慢にも「人間が自然を支配する」という現実を捨象した架空観念発の認識体系であり、そのような近代科学技術への万能観が、人類滅亡に瀕するような状況へ暴走させている。 (参照:シリーズ1)
この問題意識をもって、なぜこのようになったのか、科学がどこでどのように道を誤ったのか、その構造を解明するために、古代(シリーズ2、シリーズ3、シリーズ4)~中世(シリーズ12、シリーズ13)~近世(シリーズ5、シリーズ6)~近代(シリーズ7、シリーズ8)~現代(シリーズ9、シリーズ10、シリーズ11)と、歴史を遡って追求してきましたが、いよいよ最終回です。
最終回の今回は、ここまでの中身を踏まえ、シリーズテーマ『科学はどこで道を誤ったのか』に迫ります。
Q.近代科学技術の根本問題は
◆ ◆ ◆ 倒錯した架空観念への絶対視
近代科学技術は、17世紀のヨーロッパで形成され、それが世界に拡大し、現在に至っています。
近代前夜のヨーロッパ社会は、(11・12世紀)十字軍の遠征~(15世紀)大航海時代(ルネッサンス)の交易を契機に市場拡大がはじまり、キリスト教も含めた身分秩序の確立で閉ざされていた「自我・私権(※)の拡大可能性」が開かれだし、交易資本を牛耳る金貸し勢力が商業国家(ベネチア、フィレンツ)を形成するほど大きな力をもちだしていました。
そして、キリスト教権力から支配権を奪うために、金貸しの始祖であるコジモ・デ・メディチ(1389~1464:イタリア)の命により、マルシリオ・フィッチーノ(1433~1499:イタリア)とジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(1463~1494:イタリア)らにより、中世キリスト教会社会において異端として抑圧されていた「ヘルメス思想」や「魔術思想」を復権させ、『人間は神と対等もしくはそれ以上の存在』という認識がつくられたのです。 (参照:シリーズ5)
(※参照:「自我」 「私権」)
近代科学が拡大したのは、この近世~近代の状況を背景に、科学を担う科学者・技術者が、金貸しをパトロンとし、その手先として金貸しの意向に沿う私権獲得につながる課題を最重要としたからです。
そして、この近世~近代にかけての認識を引き継ぎ、近代科学を導いたのが、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642:イタリア)の『実験科学的手法』、フランシス・ベイコン(1561~1626:イギリス)の『自然の支配視』、ルネ・デカルト(1596~1650:フランス)の心身二元論による『機械論的な世界像』。そして、それらの「還元主義的機械論科学」の観念成果に、ウィリアム・ギルバート(1544~1603:イギリス)とヨハネス・ケプラー(1571~1630:ドイツ)の磁力の遠隔作用の概念も踏まえて、力の概念を導入して数式や理論としてまとめ統合したアイザック・ニュートン(1643~1727:イギリス)の『万有引力』という認識です。 (参照:シリーズ7)
この近代科学の認識の中身を端的に言うと、
自然のなかに霊魂的・生気論的・魔術的世界観を一切除去し、人間の精神からも一切の物体的なものを取り除き(心身分離の二元論)、物体界から全く区別された「純粋思惟」として純化されると同時に、自然的物体は単なる「延長」として人間的生命的要素を欠いた“数学的対象”となった。
※「科学と現実」 伊藤俊太郎 著
このような自然認識をもって、17世紀以降の近代科学は、金貸しの私権獲得に都合のよい成果をだすべく、「自然は人間の奴隷・支配対象である」という市場拡大のために自然から収奪することを正当化する倒錯した架空観念を大前提にし、現実に存在しない矮小化した特殊な(単純化、理想化)空間を人工的に創出して実験を繰り返し、その結果を自分の都合の良い現実の現象として逆に規定して普遍化していった。
そして、その実験や法則化は、己の(自我・私権に侵された)頭の中にだけある倒錯した抽象観念を「数学」を根拠に導き出しただけで、本当は未解明課題がたくさんあるにも関わらずそれらを捨象して「科学技術は万能である」という誤った価値観を形成していったのです。 (参照:シリーズ11)
その後、19・20世紀にかけての欧米列強による「市場拡大のための戦争圧力」を受けて、科学技術は、戦争科学として化け物化し暴走してゆく。その典型が、アメリカでのマンハッタン計画(原爆製造計画)。 (参照:シリーズ9)
そして、第二次大戦後も、金貸しによる「市場拡大第一のイデオロギー」に導かれた国家の巨大資本と、そこに取り込まれた大多数の科学者の全く経験に基づかない頭の中だけの観念とが組み合わされ、「核エネルギー(原発)」という巨大プロジェクトが公然と形成される。その行き着いた果てが、福島原発の大惨事です。 (参照:シリーズ10)
このように、近代科学の認識は、金貸しの私権獲得を正当化するために、徹頭徹尾“現実とは乖離した観念のみで体系化”されてきたもので、その「倒錯した架空観念への絶対視」と金貸しの「資本力」とが両輪になり、「市場拡大」という極めて一面的な現実のために技術を追求してきたというのが、近代科学技術の歩みです。
そして、見逃してはならないのは、このような認識体系をもつ科学は、ヨーロッパのみで生まれているということです。
Q.とすれば、なぜ、ヨーロッパで近代科学が発生したのか
◆ ◆ ◆ 中世キリストの「“神”を絶対視する観念」を下敷きに形成されている
中世に入ると神、人間、自然は階層的に分裂し、人間は神のために、自然は人間のために存在するものとなる。<中略>
ベイコンにおいては発明・発見による「自然支配」の根底ないし前提にある自然の認識とは、結局この「神の御業の模倣」である。
いわばそれは神の創造の機微に立ち入ることなのである。しかしベイコンによれば原罪に堕ちた人間はもはや創造の機微に立ち入ることはできない。それゆえ「事物との交わり」であり「実験」を通して外から世界を知るほかない。それが「世界の分解と解剖」といわれていることの意味なのである。<中略>実験という営為も第一義的には単に生活の便宜をもたらすことを目指すのではなく、真理の保証となる光をもたらす限りにおいて、このような「真理の観照」と一致するものであり、それはまさしく「創造主の被造物にきざみこんだ真実の印章」を読むことなのである。
またこのことによってのみ、知は力を得て、「自然の支配」、自然の上に築き上げる「人間の王国」も可能となるのである。<中略>彼の「自然支配」のイデー、それを支える「実験」の背後には、このようなキリスト教の神が厳存している。
以上、デカルトにおける機械論世界像の形成においても、またベイコンにおける自然支配のイデーの確立においても、その根底に共にキリスト教的思考を見出した。※「科学と現実」 伊藤俊太郎 著
このように、近代科学を導いた近代観念は、中世キリスト教(と王侯・貴族)による私権拡大を封鎖する序列世界から金貸しが支配権を奪うために形成されたが、その根底にキリスト教の観念世界が存在しているのです。
キリスト教の観念世界の起源は、古代における熾烈な私権の強制圧力に喘ぎ共認非充足(※)に陥った属州の民や奴隷や下層階級の『救い期待』に応え、“せめて頭のなかだけでも共認充足できる”ように、架空の全知全能なる「神」の存在を絶対的な価値として観念化したものです。
そのような中世キリスト教の「絶対化した『神』という観念から対象世界を理解するという倒錯した世界認識方法」を下敷きにしているからこそ、自分の都合の良い架空観念を絶対視する近代科学が生まれたのです。
(※参照:「共認機能」)
これが、近代科学がヨーロッパで生まれた大きな要因ですが、もうひとつ大きな要因があります。それは、中世キリスト教は、古代ギリシャの思想を取り込んでいるということです。
反権力的であったキリスト教が社会の統合階級に台頭(※)する契機は、属州の民や奴隷や下層階級がキリスト教に救い期待を求めたように、滅亡の予感にうち震える末期の古代ローマ帝国の支配層が、キリスト教に社会秩序維持の手段を求めたことにあります。
(※380年にキリスト教はローマ国教になり、これによりキリスト教社会が成立しヨーロッパ中世が始まる。)
しかしながら、キリスト教は、現実には可能性のない救い期待に応えるものであるがゆえに、その観念は頭のなかの慰めの「解脱観念」にしかならず、現実の社会秩序をなしえる科学的論理はもっていない。
そのため、キリスト教は、異教徒を論破し救い期待を独占して秩序化する目的で、自然を対象とした論理体系をもつ古代ギリシャの思想を取り込んだのです。
Q.では、その古代ギリシャの自然認識の中身は
◆ ◆ ◆ 自分発の思弁的な自然哲学体系
人類は約500万年の歴史をもつが、その99.9%の歴史を占める極限時代の「精霊信仰観」は、人も自然も共認対象であり、従って意志をもった存在でした。
そして、古代エジプトをはじめとするオリエントの科学思想も、集団私権を含みながらも、精霊信仰を受け継いだ「守護神信仰」で、自然を共認対象として捉えていました。
それが、約5500年前の乾燥化をきっかけに、イラン高原で人類最初の略奪闘争を起こす古代ペルシアにおいて、自然を物質的なものとして霊的存在と対立させる意識が登場します。
肉体(欲望)を悪の根源であり死に行くものと見なし、精神=霊を善の根源であり不死のものとみなして、対立的に見る見方が出来上がっていく。逆に言えば、霊を物質と切り離すことで、物質である自然はいくらでも残虐に扱うことができるようになるわけです。
近代科学認識に連なる、精神と物質、心と物という「心身二元論」そして「自然支配視」の起源が、人類史上初の略奪闘争を引き起こした古代ペルシャ(アーリア人)に芽生えているのです。 (参照:シリーズ2)
そして、その精神性を受け継ぐ古代ギリシャになると、科学認識は決定的・根底的な変貌を遂げます。
古代ギリシャのポリス社会の出自は、約5500年前の人類最初の略奪闘争の果てに、悉く共同体を解体され山賊・海賊化した敗者が、私的所有(私有権)を唯一の共認として寄り集まった人工集団(ポリス)です。
略奪闘争の果てに『共認基盤である共同体を悉く解体され、共認非充足に陥ったバラバラの自我・私権主体』の寄せ集め故に、(人間としての本源的充足の)規範共認では集団を統合できなくなった。
そのため、私有物の公正な分配を前提に、新しい秩序を求める個人と集団の意識を統合するために「誰に命令されなくても自明であると誰もが認めるような不動の秩序の体系」を自然の中に求め、自然を原子・分子に還元し、幾何学的に表される完全に調和した世界という観念に収束していったのです。
しかし、元来、自然は融通無碍なものだし、変化していくものであって、混沌と秩序を反復する。従って、「誰もが認めうる不動の秩序原理」とは“そうあってほしい”と願望したところの価値観念でしかないし、現実にはありえない架空観念です。
自然は(幾何学的に表され)規則正しいor美しいという仮説が始めにありきで、そのような視点から自然が観察され、それを証明する数式が探求される。そして証明されれば、絶対普遍の自然の秩序が証明されたこととして固定される。
つまり、ギリシャの自然認識とは、“自分たちに都合のいい価値観念=願望から始まって、それを論証していく演繹的手法こそが科学的なことだ”という『まず価値観念ありきで自然を対象化し、それを思弁的・数学的に論証して理解する』という認識方法なのです。 (参照:シリーズ3)
自然のありのままの具体的な現象事実を直視し受け入れ、そこに深く同化するなかから、その背後に自然の摂理の像を見いだすというのが科学認識であるが、全く逆の自分の価値観念から自然を対象化し理屈を駆使して型にあてはめてゆくという倒錯した認識方法なのなのです。
この人類がはじめて陥った『自分発』という“天地が逆転した”とでもいうべき思考パラダイムこそが、科学が誤ってゆく源なのです。
そして、この思考パラダイムのなかで、古代ギリシャの代表的哲学者で学問として哲学を確立したプラトン(BC427~BC347)は、幾何学的な図形の完全な姿で表される「永遠不変のイデア界」とその模造でしかない現象界(感覚界)とを峻別する「二元論的世界観」を提唱し、学問として体系化した(=哲学)。
それを、固有の自然科学論理を持たない中世初期キリスト教の教父アウグスティヌス(353~430)は、プラトンのイデア界と天にある神の国を同一視し取り込み、疑いも無く『神』の存在を絶対化した観念をつくりあげたのです。 (参照:シリーズ12)
そのことにより、中世初期キリスト教会は、解脱観念を超えた現実の自我・私権にもとづく権威を確立し、序列の支配者としての地位を獲得する。そしてのちに、神学大学を創立・制度化させ、神の手先の神学者が権力をもつようになると同時に、金貸しの手先として現代に至る知的特権階級の学者を登場させることになったのです。 (参照:シリーズ13)
Q.科学が道を誤った源は 【まとめ】
◆ ◆ ◆ 共同体を悉く解体された古代ギリシャの自然認識に遡る
近代科学は、確かに16・17世紀のヨーロッパを起源に拡大します。
しかし、ヨーロッパの自然観・科学認識の歴史は、煎じ詰めると、
極限時代の「超越存在たる自然観」から、古代エジプトなどオリエントの対象の中に霊魂をみる「土俗的・呪術的な魔術観」を経たあと、人類最初の略奪闘争をおこした古代ペルシャにおいて、自然を単なる物質とみなす「心身二元論」そして「自然支配視」の意識が芽生える。
そして、その精神性を引き継ぎ、略奪闘争の果てに共同体を悉く解体された古代ギリシャにおいて、『価値観念ありきで自然を対象化し、それを思弁的・数学的に論証して理解する』という倒錯した認識を形成する。
そして、中世キリスト教の時代になると、古代の魔術観は抑圧され、絶対存在とする神の下に神によってつくられた人間と自然が存在し、「自然は人間とは独立に創造され人間とは異質な他者の存在」とする倒錯極まる自然観に変貌する。
そして、近世のルネッサンス期に、神に許されて奇蹟を人間が行使することを許される、という古代の土俗的で呪術的なものと区別される「自然魔術」が確立され、金貸しの自我・私権の欲望を充たす「市場拡大のために自然を支配する」ことを正当化・欺瞞化するまでになってゆく。
そして、それを受け継いだ近代になると、「還元主義・機械論」を中心とする認識で、遂に、自然魔術によりかろうじて維持されていた自然への畏怖の感情すらも失われていったのです。
このように、古代~中世~近世~近代と歴史を遡ると、近代科学技術を導いた認識体系は、中世キリスト教の絶対存在「神」に源流があるし、自然を対象とした認識体系という面で突き詰めれば、古代ギリシアの自然に対する対象認識の体系に源があります。
そしてここで注目すべきことは、(救い期待発の)中世キリスト教と(秩序期待発の)古代ギリシャに共通しているのは、どちらも共同体が解体され『共認非充足』になったがゆえに、架空の絶対観念へ収束したということです。
Q.では、共認非充足になると、なぜ、架空の絶対観念に収束するのか
◆ ◆ ◆ 共認非充足のバラバラの自我・私権主体ゆえに『倒錯した架空観念』に陥る
人類にとって共認充足は絶対的なものであり、その充足は(闘争と生殖を包摂した全的集団たる)本源集団=共同体のなかで形成されてきました。
それが、略奪闘争のなかで共同体が解体され共認基盤を失って共認非充足になると同時に、憎悪と警戒心の塊となり全面的にかつ強く(自己正当化・他者否定の)自我に収束する。
しかし、人類にとって共認は絶対で、自我だけでは共認出来ないので、専ら自我に基づく本源風(ex.神の愛、平等など)の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。
(※参照:「実現論:第二部 私権時代 ロ」)
しかしながら、自我発で形成された「自己正当化観念」ゆえに、倒錯した架空観念にもかかわらず、その観念が絶対正しいとイデオロギーになる。
そして、それもこれも、共同体を解体され、共認非充足になり、それゆえにバラバラの自我・私権主体になったからです。
つまり、私権時代の略奪史のなかで、本源集団(共同体)が解体され共認非充足になってゆく度合いに応じ、バラバラの自我・私権主体として架空の絶対観念に収束していく。そしてそれに応じて、科学認識も現実と乖離する度合いをましてゆき、科学技術の暴走を加速させていったのです。
とすれば、科学が道を誤っていった歴史とは、5500年前の略奪闘争からの私権社会の歴史と軌を一にしているということです。
そして、このことがこそが、これからの科学の可能性を示しているのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
では、私権から共認原理で統合する社会に大転換したこれからの科学とは? 【どうする?】
Q.そもそも、観念・科学は何のために存在するのか
◆ ◆ ◆ 現実を対象に、共認するために観念は存在する
極限時代、人々は圧倒的な自然外圧に対し「仲間たちとの期待・応望=共認原理」を適用して「その現実の背後に精霊という具体的だが実体を超越した観念を獲得」します。
そして、観念→言語を媒介として、工夫思考や仲間との共同作業が進化し、火の使用や弓矢の発明といった技術発展を生み出してきました。と同時に、常に自然は圧倒的な存在感を持つ畏敬の対象であり、であるが故に、祈り=期待・応望の対象であり続けました。
言い換えれば、科学認識の元祖というべき精霊信仰は、徹底して共認原理に貫かれていたし、自然も人も共認の対象という意味では一体でした。
そして、守護神信仰の古代オリエントの思想でも、具体的な自然現象の解明を出発点とした精霊信仰の流れを受け継ぎ、共認対象でもある自然に期待する=祈りを捧げる祭儀こそが、最も重要な場であり出来事であり、そのために土木事業や貢納が発達し、その先に天文学や数学が発達しました。
そして、それはすべて、意識や集団を共認統合して置かれた環境=外圧に適応するためで、観念(≒科学認識)は、徹底した共認原理に貫かれ、現実を対象に共認するために存在したのです。
それが、共同体を悉く破壊され現実の人という生身の共認対象を失った古代ギリシャの時代になると、科学認識は、現実を対象に誰もが共認するための存在ではなくなったのです。そして、それに端を発して、現在、近代科学が人類を滅亡の危機に導いているのです。
Q.しかしながら、これまで、現在のような直ちに人類滅亡につながるまでの状況にはならなかった。なぜか
◆ ◆ ◆ 観念によって全てが動く時代
<前略>
たとえ観念内容が間違っていても、それが直ちに滅亡に繋がることはなかった。現実世界は、私権収束(→私権圧力)によって統合されていたからである。
しかし、私権圧力=古い現実の圧力が豊かさの実現によって衰弱したことによって、現実世界は共認収束(→共認圧力)によってのみ統合されることになった。しかも、その共認圧力は、物的制約を脱した全く新しい同類圧力である。つまり、人類は物的制約を超えた新しい同類圧力のみが現実を形成する、全く新しい時代を迎えたのである。
それだけではない。原始時代のように、お互いの表情や気配が感じ取れる単一の集団なら、集団は観念がなくても共認統合できる。しかし、遠く離れた無数の集団によって形成されている超集団=社会は、観念の共認によってしか統合できない。
従って、現実=同類圧力そのものを対象化した事実認識(の体系)の共認が、現実を導き、動かしてゆくことになる。もともと人類の最先端機能は観念機能であるが、人類は物的制約を脱したことによって、ついに観念共認によって現実が動く、本来の観念統合の時代に入ったのである。
換言すれば、人類は長い前史を終えて、ようやく人類本来の歴史を刻んでゆく夜明けの時代を迎えたといえるだろう。ただ、観念とは別に現実が動いていた時代なら、たとえ観念内容が間違っていても現実は崩壊しない。しかし、観念によって全てが動く時代になれば、観念内容を誤れば、人類は滅亡する。
近代観念に支配された結果、自我を暴走させ、その果てに地球破壊と経済破綻の瀬戸際に追い詰められた、現代の人類がまさにそれである。
<後略>
このように、現在は、観念共認により全てが動く時代になっており、観念内容を誤れば、それが直ちに人類滅亡に繋がるのです。
福島原発の大惨事は、まさにそのことを如実に示しています。
Q.とすると、このまま近代科学に委ねれば人類は滅亡する。⇒どうする
◆ ◆ ◆ 観念(≒科学認識)の再生⇒共認回路の再生⇒共同体の再生
科学は観念によりつくられた認識体系のひとつで、それゆえ科学の再生は、観念回路の再生にほかなりません。
そのためには、共認回路が不可欠であり、そのためには、共同体の再生が必要になります。
つまり、集団を再生し、そのなかで現実の仲間からの期待(圧力)を直視し受け入れ、そこに深く同化して、真っ当に応えることを通じて得られる共認充足により共認回路を再生さてゆく。
そうすれば、観念は圧力に適応するために自在に塗り変わってゆくものなので、現実の期待(圧力)を対象とした観念に再生される。そうすれば、架空観念に陥ることもないし絶対視にもつながらず、科学・技術も人々の現実の期待に真っ当に応えるものに再生されてゆく。
Q.共認社会で、科学を創ってゆく場とは
◆ ◆ ◆ 人々の期待を看取している「素人」が主導すべき課題
私たちが生きている現実は、生々しい人と人との期待・応合を通じた交わりの感覚、共認を基盤にした地に足の着いた生活世界です。それに対し、プロの科学者は、現実を、すべて原子・分子に還元し、単なる一様な幾何学的延長・広がりに還元し、ただ形、大きさ、運動といった数学的に操作できるものだけで世界を分析してきた。そしてその結果として、戦争や原発災害などに直面したとき、科学者は「科学研究それ自身が悪いのではない。その科学研究の結果を悪い目的に用いる政治や市場が悪い」というような弁明をする。しかしそれは、科学をその好奇心の赴くところどんなことをやってもよく、あとは社会がどうもちいるかという発想であり、それこそが現実を無視した自己正当化の自我以外の何物でもない。
それゆえ、共認社会での科学を担い創ってゆく場とは、市場拡大のパラダイムに犯され、社会の当事者としての意識を欠落させた大学、学会の場ではなく、共同体のなかで、日々仕事で現実の組織課題、人々の期待を看取している「素人」が主導して、皆の役に立つ科学を考える場を創って行く必要があります。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
福島原発の大惨事に直面している我々が、考え認識し実現すべきは、このことではないでしょうか。
<了>
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