『科学はどこで道を誤ったのか?』(10)~“科学技術の申し子”が起こした惨劇
これまで、近代科学技術の成立過程について歴史を辿って見てきました。
今回はそれらを踏まえ、近代科学技術がどのように原子力発電を生み出してきたのかを考えてみます。
まずは、山本義隆著「福島の原発事故をめぐって」より引用します。
経験主義的にはじまった水力や風力あるいは火力といった自然動力の使用と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみにもとづいて生み出された。実際、これまですべての兵器が技術者や軍人によって経験主義的に形成されていったとの異なり、核爆弾はその可能性も作動原理も百パーセント物理学者の頭脳のみから導き出された。原子炉はそのバイプロダクトである。その意味では、ここにはじめて、完全に科学理論に領導された純粋な科学技術が生まれたことになる。しかし理想化状況に適用される核物理学の法則から現実の核工業-原爆と原発の製造-までの距離は極限的に大きく、その懸隔を架橋する課程は巨大な権力に支えられてはじめて可能となった。その結果は、それまで優れた職人や技術者が経験主義的に身につけてきた人間のキャパシティの許容範囲の見極めを踏み越えたと思われる。
ポイントは3つです。
◆ 1.経験に基づかず、純粋に科学理論から生み出された
◆ 2.理想的な状況にのみ適用される物理法則に基づいている
◆ 3.巨大な資本力を投下できる権力に支えられて実現した
◆ ◆ ◆ 1.経験に基づかず、純粋に科学理論から生み出された
火力、水力、風力などが経験からはじまったのにたいして、核エネルギーは、経験からではなく純粋に物理学理論から導き出されたものです。
核エネルギー利用の歴史は、原爆からはじまります。つまり
科学技術による大量殺戮兵器こそが、原子力発電の出自です。そして原子力発電推進のため、様々な策謀が行われてきました。オイルショックで演出された石油枯渇説や、地球温暖化説がそうです。
あらゆる国際機関やマスメディアをフル活用して、それらを喧伝してきた背後には、「何をおいても市場拡大が絶対である」というイデオロギーが存在しています。でなければ、生産を抑制して市場を縮小しさえすれば終いだからです。
つまり、核エネルギー利用は、金貸しによる市場絶対のイデオロギーと、物理学者の頭の中の理論が組み合わされ進められてきたものであり、これまで人類が経験的に獲得してきたものとは質的にまったく異なるものです。
◆ ◆ ◆ 2.理想的な状況にのみ適用される物理法則に基づいている
“核分裂”という物理学の理論から、現実的に熱を取り出す理想的な状況を作り出すためには、様々な技術や膨大な資本を要します。そのため、どのように条件設定し、どのような事態を「想定」するか、という問題が常につきまとうことになります。そして、ここに「科学への万能視」が加わったことが悲劇を生みました。
近代科学は、ある一定の条件下でだけ成立する法則の集合体だ。あたかも全ての条件下で適用可能な一般法則のように思われているが、実は違う。万能性はない。しかも、この欠陥を逆に捉えると、恣意的に条件を変えれば、自らの都合が良いように特定の結果を導く事が出来る。ここに近代科学が万能であるという妄信が加われば、恣意的に操作した結果得た答えでさえ、万能性のもとに得た最良な結果である、という妄信が生ずる。
今回の原発事故は、そのようにして生じた。
どこまでの事態を勘案するか、恣意的に条件設定したにも関わらず、あたかもそれが万能であるかのような「安全」という答えを導いた。そして、恣意的な条件操作をした際に抜け落ちた、もしくは、作為的に勘案しなかった部分が「想定外」だったのである。
恣意的な操作をしているにも関わらず、それを万能と思い込むことは、もはや原理主義といっていい。「想定外」という発言がでる時点で、自らが恣意的な操作をした事を認めていない。当然、自らが信仰する近代科学の重大な欠陥には気づいていない。恣意的な操作をしたことを「意図してやったわけではない」という発言は、自己正当化を通り越して完全に思い込みの世界である。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=249153
原子力発電初期のキャッチフレーズは、「Too cheap To meter」であった。これは、「原子力発電で作った電気はあまりに安すぎるので、計量する必要がないほどだ」、という意味である。原子力発電はそれだけ安く大量に電気を供給できるものと期待されていた。しかし現実はそうではなかった。バックアップ装置の増設等により、建設費が高騰したのだ。原子力発電は他の発電に比べて設備費の割合が非常に大きいため、建設費が高騰するとその影響がより大きくなってしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB
科学者がいかに楽観的で理想的な状況のみを考えていたか、そして補助装置の建設がいかに大きかったかが分かります。
◆ ◆ ◆ 3.巨大な資本力を投下できる権力に支えられて実現した
原子力発電を実施するには、核燃料の製造や発電施設の建設をはじめとして、核廃棄物埋設に至る技術力と資本力、さらには核分裂反応や放射線を適切に制御する技術力が不可欠で、膨大な周辺技術と補助装置に支えられることになります。
したがって、必然的に国家的なプロジェクトとなり、ひとたび事業の実施が決定されれば、それを遂行する側から見て不都合となる事実は隠蔽され、「どんなことがあっても」継続が前提となる構造にあります。
また、建設から稼働のすべてにわたって、肥大化した官僚機構と複数の巨大企業からなる怪物的プロジェクトであり、そのなかで個々の技術者や科学者は主体性を喪失してゆかざるを得なくなるのです。
さらに、「優れた職人や技術者が経験主義的に身につけてきた人間のキャパシティの許容範囲の見極めを踏み越えた(山本義隆)」ことにより、以下のような致命的な問題を抱えます。
◆ 1.核エネルギーは、その大きさと放射線による毒性ゆえに、ひとたび暴走をはじめたら人間によるコントロールを回復させることが絶望的
石油コンビナートが爆発し火災を起こしても、何日かせいぜい何週間かで確実に鎮火され、跡地に再建可能である。しかしチェルノブイリにしてもフクシマにしても、大きな原発事故の終息には、人間の一世代の活動期間を超える時間を要する。そしてその跡地は何世代にもわたって人間の立ち入りを拒む。このような事故のリスクは個人はもとより企業でさえ負えるものではない。
(山本義隆著「福島の原発事故をめぐって」より)
◆ 2.物質循環から切り離された核廃棄物が、人の住めない閉塞空間を増やしていく
石炭・石油といった化石燃料は、炭酸ガスに変わって大気中に放出され、それを植物が吸収して光合成に使います。それを草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、やがて死んで微生物に分解され…と、最終的には食物連鎖へと循環します。
それに対して、放射性廃棄物は地球の物質循環から切り離されています。核分裂が進み、放射能がなくなるまでの数万年~数億年もの間、分解されることなく残り続けるのです。
しかも、原子炉を作って50年もすれば原子炉を廃炉することになり、原子炉を解体した際に出る放射性廃棄物が急激に増えることになります。こうして増え続ける放射性廃棄物の行き場がなくなれば、廃炉になった原子炉を解体することなく、原子炉ごと周囲を立ち入り禁止区域にすることも想定されます。
いずれにしても、人間の使える土地が地球上からどんどん減っていくことになります。これが、原子力発電の最大の問題点なのです。
☆原子力発電によるエネルギー供給の背後で、社会活力の衰弱が進行する
放射性廃棄物は、無害化するまでの途方もない期間、人間の暮らす空間から隔離しておかなければなりません。放射性廃棄物が増えて蓄積されるということは、「隔離された閉塞空間」が地球上に増え続けることに他なりません。
それは同時に、その様な閉塞空間で核のゴミを管理する人間を増やすことを意味します。その様な息苦しい管理社会で、社会の活力が生み出されることはありません。つまり、効率だけを考えて原子力発電を続ければ、確かに目先のエネルギーを得ることはできますが、それと引き換えに急速に閉塞空間が増えていき、社会活力の衰弱が進行していくのです。
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2010/07/000750.html
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原子力発電は徹頭徹尾“科学技術の申し子”です。福島原発の事故は、それゆえに起きたと言えるのではないでしょうか。
近代科学技術の行き着いた先が、フクシマでの惨劇なのです。
次回は、これまで考察してきた近代科学技術の成立過程をまとめ、「これからどうしたらよいのか?」を考える足掛かりとします。
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