『科学はどこで道を誤ったのか?』(7)近代の前夜~「科学技術による自然の征服」という思想の登場~
(左からコジモ・ディ・メディチ一世、コジモ・ディ・メディチ二世)
自然を支配対象と捉える認識は、西洋のルネサンス期の魔術思想やヘルメス主義に萌芽が見られます。
その後16世紀末から17世紀に「科学技術による自然の征服」という思想が登場します。
この自然に対する対象認識の変化が、以降の科学技術発展における大きな転換点であったと考えられます。
今回はこの近代前夜の大転換の過程を押さえていきます。
◆ ◆ ◆ 金貸しの台頭⇒エリート知識人を囲い込み(パトロン化)
十字軍遠征への投資で財を蓄えて台頭してきた欧州の金貸し(商人)階級は、大航海時代に入ると、ラテンアメリカ侵略によって、莫大な富を蓄積して、大きな力を持つようになりました。
そして、さらなる私権獲得の可能性を求めて、ルネサンス活動や魔術思想に取り組む人々をパトロンとして支援しました。
ルネサンス(人間主義)は、欲望⇒私利私欲の追求を至上のものとする価値観であり、魔術思想は、自然を人間の快美欠乏を満たすための使役対象としており、いずれも人々の欲望を正当化して、市場拡大を促進するのに都合がよかったからです。
【参考】
近代科学の成立過程2~金貸しに都合のよい思想を過去から拝借したパクリ思想がルネサンス
『科学技術はどこで道を誤ったのか?』(5)ルネサンス(14~16c)~自然魔術による自然支配観念の萌芽と、「科学」「技術」統合への流れ
金貸し階級のこのスタンスは、科学技術に関しても同様で、近代科学の土台を確立していくエリート知識人達もパトロネージして囲い込んでいきます。
そして、エリート知識人達にとって、パトロンは食い扶持の確保や名声獲得の拠り所であったため、パトロンの意向に沿った研究成果をあげることは極めて重要な課題でした。
この関係を近代科学の父と呼ばれるガリレオの例で見てみます。
ガリレオにとって、木星の衛星をメディチ星と命名したことは重要であった。その命名のゆえに、木星の衛星そのものが彼からトスカナ大公コジモ二世への献上品となったからである。しかし、衛星の発見とそれを公表した『星界の報告』の出版はもっと深遠な意味を持っていた。
『星界の報告』冒頭のコジモ二世への献辞で、ガリレオは「それ(メディチ星)は、……最も高貴な星であるユピテル(木星)のまわりを、驚くべき速さで進行し、回転しています。あたかもユピテルの御子のようにうちつれて…」と述べ、「星の創造者自らが明らかな徴をもって告げているように思われます。これらの新しい惑星にはほかのだれよりも殿下の御名をつけるように運命づけられているのだ、と。事実、ユピテルの御子にふさわしく、これらの星はそのそばからわずかのあいだも離れることはありません」と続けている。この献辞の意味するところは、ジュピターがトスカナ大公国の神話上の建国者であったことがわかれば誤解しようもない。つまり、メディチ家によるフィレンツェの統治はジュピターから委ねられたものであり、運命として約束されていたと言っているのである。
出自の明確でない一介の商人から成り上がって、もともとは共和国だったトスカナを支配するようになったメディチ家にとって、その統治を正統化してくれるものは金銭の力を除いて何もなかった。メディチ家がガリレオからの献上品を歓迎したのは当然で、彼の願いのほうもことごとく叶えられることになった。このようにしてガリレオは大公付き哲学者兼数学者になったのだが、メディチ家にとっても自らの統治を正統化してくれた人物がパドヴァ大学の数学者であっていいはずもなく、彼にもそれなりの権威を与える必要があっただろう。※【ガリレオと処世術としての自然研究 -パトロネージを求める学者達-(日本物理学会誌 vol.59,No.2,2004)】より引用
ガリレオは天体観測で木星の衛星を発見した際に、最大のパトロンであったメディチ家の名から、メディチ星と命名しました。これは、メディチ家からのパトロネージに対する単なるお礼ではなく、当時のメディチ家の深い欠乏を巧みに捉えて応え、自らの待遇を確保するための戦略であったのです。
◆ ◆ ◆ 「科学技術による自然征服」という思想の登場
17世紀の科学革命の時代には、「科学技術による自然の征服」という思想が登場し、魔術思想の段階では、(自然を使役・支配の対象と捉えつつも)残存していた自然に対する畏怖の念が完全に失われました。
その転換過程を押さえていきます。
自然認識における近代への転換を象徴しているのが、ガリレオの実験であった。滑らかな斜面を用いることで落下時間を引き延ばして時間の測定を容易にし、かつ空気抵抗の影響を低減させることで自然界には存在しない真空中での落下という理想化状態に人為的に近づけてなされたその実験の目的は、それまでの魔術師による自然の模倣としての驚異の再現や技術者による試行錯誤を通じてのノウハウの改良ではなく、時間と空間の関係としての定量的法則を確立することであった。
このガリレオの実験の意義を、カントは「理性は一定不変の法則にしたがう理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問いに答えさせねばならない」ということを自然科学者が知ったことに求めている。「それはもちろん自然から教えられるためであるが、しかしその場合に、理性は生徒の資格ではなく本式の裁判官の資格を帯びるのである」。
ここには、人間が自然の上位に立ったという自覚が鮮明に窺える。
そしてそれは「自然の秘密もまた、技術によって苦しめられるとき、よりいっそうその正体を現す」と言ったフランシス・ベーコンから「私が元素の混合によって生ずるといわれている諸物体そのものを試験し、それらを拷問にかけてその構成原質を白状させるために忍耐強く努力したとき」と語るロバート・ボイル、そして「自然は、より穏やかな挑発では明かすことのできないその秘められた部分を、巧みに操られた火の暴力によって自白する」というジョセフ・グランヴィルにいたるまでの17世紀の論客に共通する、能動的な、というよりもむしろ攻撃的な実験思想に発展してゆく。
これとならんで、ケプラーやフックやニュートンによって、かつては魔術的文脈で語られていた自然の力にたいする物理学的で数学的な把握-力概念の脱魔術化-が進められていった。
その延長線上に科学技術による自然の征服という思想が登場する。実際、ベーコンにとって、自然研究の目的は「行動により自然を征服」することにあった。『ノヴム・オルガヌム』には「技術と学問は自然に対する支配権を人間に与えるもの」と明記されている。機械論哲学の徒デカルトもまた『方法序説』で、「私たちは自然の主人公で所有者のようになることができる」と語っている。
それと同時にベーコンは、科学技術研究の近代的なあり方をはじめて提唱した。彼は、近代科学技術研究のあり方として、選ばれた専門の研究者集団が国家の庇護のもとで先進的研究と技術革新を組織的かつ目的意識的に遂行するべきことを提唱し、晩年の『ニュー・アトランティス』において、その機関として「ソロモン学院」を描き出している。
このガリレオの実験思想、デカルトの機械論、ニュートンの力概念による機械論の拡張、そしてベーコンの自然支配の思想を背景に、近代の科学技術思想が形成されていった。自然と宇宙に見られるさまざまな力を探しだし、その法則を突き止め、それを自然の支配のために制御し使役するという目的において、近代の科学技術は自然魔術思想の継承である。しかし、近代科学は古代哲学における学の目的であった「事物の本質の探究」を「現象の定量的法則の確立」に置き換えただけではなく、魔術における物活論と有機的世界像を要素還元主義にもとづく機械論的で数学的な世界像に置き換えることで、説明能力においてきわめて優れた自然理論を作り出した。そして同時に近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然にたいする畏怖の念を忘れていったのである。
※【福島の原発事故をめぐって 山本義隆著】より引用
(左からガリレオ・ガリレイ、フランシス・ベーコン、ルネ・デカルト、アイザック・ニュートン)
ガリレオは自然現象に対して、現実にはない理想(架空)状態を前提とした実験で、自然の法則を数学的に定式化することを試み、同時代のベーコンは、帰納法による科学実験手法を確立しますが、自然は人間の奴隷・支配対象であるという観念を大前提として実験を繰り返しました。
その後、デカルトが二元論によって自然は目的や生命や精神性を全く持たずに機械的(数学的)法則に従って動くものであると提唱し、ニュートンが、ガリレオやベーコンやデカルトらの成果を統合する数式や理論をまとめて、還元主義的機械論科学が確立されました。
この自然を現実状態から切り離して解釈していく過程で、自然は説明・再現可能→支配可能な対象と劣化認識され、「科学技術による自然の征服」という思想が誕生したと考えられます。
※ガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンについて
●ガリレオ・ガリレイ(1564~1642:イタリア)
理想化状態での実験で測定して定量化できる物体の形状・数量・運動(位置変化)のみが第一義的な特性であると主張。
※物質の量的特性だけに注目することで、自然を数学的に理解できる対象(≒機械)としてみなす思想の基礎を形成。
●フランシス・ベーコン(1561~1626:イギリス)
ガリレオと同時期に帰納法(多くの個別的・特殊的な事象から共通点を抽出して一般法則を導き出す)による実験科学的手法の確立。
自然の持つ秘密は機械的装置を用いた拷問によって引き出せるとし、科学の目的は、自然を支配・征服することと主張。
※ジェームズ一世の下で大法官を務め、魔女狩り裁判にも精通し、科学的実験結果を用いて伝統的な諸学派の思想を徹底攻撃した。
●ルネ・デカルト(1596~1650:フランス)
心身二元論(精神領域と物質領域)による複雑な問題の細分化分析方法を掲げ、物質的な宇宙(自然)は完全な機械で、正確な数学的法則に支配されているとの機械論を提唱。
また、科学的知識は、人間を資源の支配者と所有者にすることに役立つと断言。
●アイザック・ニュートン(1643~1727:イギリス)
非接触の物体間にも神の存在の延長である“力”が作用することで、自然の諸現象・運動が機械論で説明できることを数学的に示した。
コペルニクス、ケプラー、ベーコン、ガリレオ、デカルトなどによる成果を統合することに成功した。
【参考】
近代科学の形成と還元主義的機械論科学の特質
◆ ◆ ◆「対象の矮小化→捨象」が科学技術思想の形成過程
17世紀に起こった科学革命の中で、科学技術思想が生まれてきましたが、必ずしも未解明の対象を明らかにすることで確立されていったわけではありませんでした。
14.十七世紀科学革命の真実
技術者によって進められた十六世紀文化革命は、自然認識における経験の重要性を強調し、自然研究の主要な手段として定量的測定と実験的方法を押し出した。
近代力学とそれにもとづく宇宙像(太陽系像)はデカルトとガリレオによる運動理論の定礎と、ケプラーからニュートンにいたる太陽系の秩序の解明によって形成された。
ガリレオがその公式を現実の物体の運動を表すもの、それゆえ実験的に検証可能でかつ実験と測定で検証されるべきものとしていたのに対して、スコラ学者のものは現実の自然とは無関係な仮想の議論、つまり知的なエクササイズでしかなかった。
しかし、ガリレオは、物体は「なぜ」落下するのか、さらには落下のさいに「なぜ」加速されるのか、というそれまでの自然学の設問それ自体を退け、物体は理想と考えられる状況において「どのように」落下するのかという問題-落下の様態の数学的表現の確定- に自然科学の守備範囲を限定したのである。
また、ニュートンは、万有引力の法則を数学的に定式化したが、重力の本質(なぜ引き合うか)を明らかにせず、自ら棚上げにしている。
※【一六世紀文化革命 山本義隆著】より引用
当時の科学者達が、本質を解明できない以前に解明しようとしなかったのはなぜでしょうか?
それは、彼らにとって一番重要なことは、自分たちのパトロンである金貸しの欲求(=私権獲得)に応えることであったからです。
ゆえに、彼らが取り組む科学にとっての最重要課題も目先の私権獲得の道具となることでした。
よって、私権獲得に直接関係しない本質的な疑問は容易に棚上げされたのです。
このことは、ガリレオの弁に端的に表れています。
今ここで自然運動の加速の原因が何であるのかについて研究することは適当ではないと、私には思われます。これについては、いろいろな哲学者が種々の意見を提出しております。……これらのすべての空想はその他のものとともに検討を加えねばならないでしょうが、そのことで得られるものはわずかしかありません。現在われわれの著者〔ガリレオ〕の求めているところは(その原因は何であれ)そのように加速された運動のいくつかの性質を研究し説明することにあるのです。
※【一六世紀文化革命 山本義隆著】より引用
つまり、科学技術思想は、私権獲得を第一義とする金貸しの欲求に基づいて現実対象を矮小化→捨象する過程を経て形成されたと言えます。
課題の全体(本質)を矮小化→捨象して、私権獲得に都合のいい部分だけを追求し、一面的な目先の成果を積み重ねた結果、未解明課題がたくさんあるにも関わらず、「科学技術は万能である」という誤った万能観が芽生えていったと考えられます。
近代科学の礎をなしたと言われている科学者達にとっては、あくまでも金貸し=パトロンの意向に沿うことが最重要課題(=科学者達は金貸しの手先)で、科学技術思想が、現実対象の矮小化→捨象によって歪んだ科学万能観を生み出したとすると、この近代前夜の科学の“進歩”は、科学が自然の摂理から大きく逸脱していくターニングポイントであったのではないでしょうか。
今後の記事では、科学理論が実践に先行して導き出される技術=「科学技術」が誕生し、国家規模で取り組んで行く近代以降の変遷を追究していきます。
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