東北地方太平洋沖地震~原発は必要か否か12~自然の摂理を踏み外してしまった原発技術開発
(画像は社会科学者の時評さんよりお借りしました。)
地球温暖化対策のもとで、原発がクリーンエネルギーとして脚光を浴びている。原爆材料プルトニウムを大々的に利用するプルサーマル発電が開始され、ナトリウム火災事故を起こした高速増殖炉「もんじゅ」が14年の冬眠をへて運転再開。
さらに政府が閣議決定した「エネルギー基本計画」では、2030年までに原発14基以上を新増設し、現在60%台まで急落している原発稼働率を90%まで引き上げる方針を掲げている。
エコの名の下で、日本人は疑問を抱くことなく電力会社の宣伝文句に踊らされているが、日本の原子力産業が突進しようとしている未来には、とてつもなく巨大な暗黒時代が待ち受けている。
その正体こそ、地球の地殻変動がもたらす「原発震災」の恐怖である。 スマトラ島沖地震、四川大地震、新潟県沖地震等々は、刻々迫る東海大地震の予兆である。この日本列島に阪神大震災をはるかに上回る巨大地震が襲うのは確実で、そうなれば浜岡をはじめとする原発が大事故を起こし、首都圏崩壊、さらには日本全土が壊滅するおそれが高い。
科学的・論理的に考えれば、周期的に到来する東海大地震は間違いなく起こることであり、これを否定する人間は、電力会社にも一人もいない。その時に、浜岡原発が破壊され、取り返しのつかない末期的な大事故が起こる可能性は、ほぼ百パーセントと言ってよい。これは、時限爆弾の爆発を待っている、ということになる。私たちに分らないのは、その時限爆弾が、いつ爆発するようセットされているか、その時刻だけなのである。『原子炉時限爆弾』広瀬隆著 2010年8月発売
今回の福島原発事故の報道や状況から、『原子力発電は安全』という認識の誤りが明らかになってきました。
これまで、官僚や学者、マスコミは『原子力発電は安全』という社会共認を形成してきました。だから、人々も漠然とではあるが『たぶん安全なのだろう』と思ってきました。これは、当の官僚たちも同じなのではないかと感じます。
自らが「安全だ」と言っているうちに、自家中毒的に「安全神話」にはまっていってしまったのではないでしょうか。
いずれにしても、福島原発はまだ予断を許さない状況です。今回の記事も「原発は必要か否か」の視点から、過去記事の引用抜粋、改訂してお届けします。詳細な内容は以下の記事をごらんください。
『次代を担う、エネルギー・資源』原子力発電のまとめ1~(技術開発編)
シリーズ11~地球の物質循環から切り離された廃棄物の増量→蓄積の危機~
☆☆☆原子力発電そのものが孕む危険性に目を背けてはならない
☆ 原子炉とは原子爆弾をゆっくり爆発させている装置
日本は世界で唯一の被爆国です。原子爆弾は一瞬のうちに大量の人々の命を奪いました。そんな危険な代物が生み出すエネルギーを使用して発電しているのが原子力発電です。
原子力を使用してどうやって発電をしているかというと、原子力が創出するエネルギーによって水蒸気を発生させ(お湯を沸かし)、そのエネルギーでタービンをまわしています。つまり、元の力が火力でも水力でも基本原理は同じで、原子力発電は核分裂エネルギー=原子爆弾を使ってタービンを回しているのです。
しかし、一気に爆発してしまったら大変なことになるので、様々な機械や水(冷却水)を使って『制御する』ことでゆっくり爆発させる必要があります。ここには高い技術力と厳重な管理体制が必要となります。
そして、この制御が利かなくなるという危機が、現在の福島原発で一番恐れられており、予断を許さない状況なのです。
☆ 発電が終わったら出るゴミ=放射性廃棄物(核廃棄物)は数万年の間、放射線を出し続ける
原子力発電により、発生するゴミは作業員の衣服から核反応後に残る燃料まで様々です。この放射性廃棄物は物質の種類にもよりますが、数万年の間、放射線を出し続ける危険なものです。
電力会社や官僚はこれを「いずれまた使用する=再処理する」という名目で『使用済核燃料』と呼んでいます。
しかし、再処理をしたとしても安全になるわけではありません。再処理とはゴミの中から微量のプルトニウムを取り出すことであり、残ったゴミにもプルトニウム以外の放射性物質が含まれたままです。つまり、ほとんどそのままゴミは残るのです。どういう呼び方をしようとこれは非常に危険なゴミです。
ですから、仮に原子力発電の稼動自体が『地震にも津波にも強い建築物』で『安全な技術』で行われていたとしても、ゴミの危険性の問題は別次元に存在するのです。
☆ 放射性廃棄物は埋めるしかない。→「埋設処分」は決して安全な処分方法ではない
現状の放射性廃棄物の最終処分は、全て「埋設処分」に行き着きます。高レベル放射性核廃棄物の場合、ガラス固化させた後、キャニスターと呼ばれるステンレス製の容器に入れて埋設されます。低レベル放射性核廃棄物の場合は、ドラム缶に入れセメントで固めて埋設されます。
一見、これで「安全に処分された」と思われがちですが、実はそうではないのです。
「埋設処分」されようとも、その核廃棄物は有害な放射線を何千~万年もの間、出し続けることになります。また、放射線を放出する際には崩壊熱が出ます。
キャニスターの温度は空調などで冷却したとしても表面温度は250度、中心温度は430度以上となると言われています。六ヶ所村で計算したところ、一番高い温度では624度にもなりました。
空調で冷却しているにも関わらず、これだけの温度になってしまうのです。
放射線にしても崩壊熱にしても、人間の生きている時間スケールを逸脱した期間の間、管理し続けなければなりません。そしてそれには非常に精密な制御と管理体制が必要になるのです。
つまり、「未来永劫と言っても過言では無い長期にわたり、核廃棄物を安全に管理できること」が前提になっているのです。
これは、管理体制維持の問題もありますが、技術的側面から言うと、そのような長期にわたる経年劣化に耐え得る技術が確立(または保障)されていないという問題にいきつきます。
当然、埋設された核廃棄物は放射線を放射し続け、崩壊熱を出し続けるのですから、それを遮蔽する物質にも少なからず影響を与えることは避けられません。ましてや、放射線を浴びなくても、地球上の物質であれば、何千~万年も時間が経てば朽ちていくのは当然です。
このように、『長期間にわたり、管理を継続していかなければならないという問題』と、『経年劣化は避けられないという問題』には触れずに、目先的に、「地上に影響の出ないような場所に埋設すれば安全である」という社会共認を形成させ、現実に埋設処分場を建設し始めているのです。
☆地球の物質循環から切り離された廃棄物が閉塞空間を生み出す
(仮に東海原発が爆発した場合、日本列島のほぼ全域が農業ができない土地となるという試算。1960年に日本原子力産業会議が科学技術庁に提出した。)(画像は社会科学者の時評さんよりお借りしました。)
石炭・石油といった化石燃料は、炭酸ガスに変わって大気中に放出され、それを植物が吸収して光合成に使います。それを草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、やがて死んで微生物に分解され…と、最終的には食物連鎖へと循環します。
放射性物質の危険度についてはこれまでの記事でも散々説明してきましたが、実は、自然状態でも“放射性”の同位元素は存在します。例えばC(炭素)には、C12の他に放射性のC13やC14などがあります。
しかし、それらは自然界にごく僅かであり、そのような放射性物質が微量に存在する世界に、生物は適応してきたのです。
単に「放射性物質が危険だから隔離する」というのではなくて、「そういった環境の中に、原子炉が生成する放射性物質を、超短期的に放出する」ということが、自然の物質循環に反しているので、自然の循環に乗せてしまうと生物の生態系を脅かすことになるのです。
だから、隔離するしかないのです。
つまり、放射性廃棄物は地球の物質循環から切り離されています。核分裂が進み、放射能がなくなるまでの数万年~数億年もの間、分解されることなく残り続けるのです。
しかも、原子炉を作って50年もすれば原子炉を廃炉することになり、原子炉を解体した際に出る放射性廃棄物が急激に増えることになります。こうして増え続ける放射性廃棄物の行き場がなくなれば、廃炉になった原子炉を解体することなく、原子炉ごと周囲を立ち入り禁止区域にすることも想定されます。
いずれにしても、人間の使える土地が地球上からどんどん減っていくことになります。これが、原子力発電の最大の問題点なのです。
☆☆☆原子力発電によるエネルギー供給の背後で、社会活力の衰弱が進行する
放射性廃棄物は、無害化するまでの途方もない期間、人間の暮らす空間から隔離しておかなければなりません。放射性廃棄物が増えて蓄積されるということは、「隔離された閉塞空間」が地球上に増え続けることに他なりません。
それは同時に、その様な閉塞空間で核のゴミを管理する人間を増やすことを意味します。その様な息苦しい管理社会で、社会の活力が生み出されることはありません。、つまり、このまま原子力発電を続ければ、確かに目先のエネルギーを得ることはできますが、それと引き換えに急速に閉塞空間が増えていき、社会活力の衰弱が進行していくことになります。
現実には、この埋設処分場は試験場の位置づけであり、受け入れる体制は整っていません。ですから、やむなく原子力発電所内で仮置きしているのが実態です。これを原発推進側は「保管」とか「一時貯蔵」という言い方をしています。
今回の福島原発3号機でプールに「保管」された使用済核燃料が放射能を撒き散らしていることからも、その危険性と困難さがわかります。
このような危険性は充分に想定できるものであり、事故が起こってから「想定外だった」と言うのは明らかに誤魔化しと言えるのではないでしょうか。
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コメント2件
kirin | 2012.03.07 14:46
いいじゃん☆さん、コメントありがとうございます。
>こうやって見ると、観念って良くも悪くも「統合階級を育てるため」なんですね。>
観念を科学という言葉に置き換えると、これがシリーズの核心かもしれないですね。
いつから観念は統合階級のためだけになったのか。それとも、観念とはもともとからそういうものなのか。
>じゃあ、これからの共認社会の統合者も大学(みたいな所)が必要なのか、それともそれは私権時代特有で、共認社会では仕事しながらになるのか、気になります☆>
大学というのは私権時代特有な場でしょうね。
そして、これからの共認社会での観念(≒科学)の在り様を考えるうえで、場がどういうものかも、エピローグで考えていきます。
これからも応援よろしくおねがいします♪
いいじゃん☆ | 2012.03.06 0:20
>観念を操る宗教指導のエリートを育成するために設立されたのが、大学の起源なのです。
全然意識していないですけど、そういえば日本の大学でも、有名な大学ってキリスト系や仏教系ですもんね!
神の手先→金貸しの手先・・・
こうやって見ると、観念って良くも悪くも「統合階級を育てるため」なんですね。
じゃあ、これからの共認社会の統合者も大学(みたいな所)が必要なのか、それともそれは私権時代特有で、共認社会では仕事しながらになるのか、気になります☆
エピローグの『科学はどこで道を誤ったのか?』、楽しみにしています♪