東北地方太平洋沖地震~原発は必要か否か25~『統合なき専門家体制』の末期症状(暴走)-その2 私たち自らが事実を紡いで答をだし社会を動かす
前回の記事で、
『福島原発の大惨事は、一企業の東電が犯した事故で済ましてはならず、本質は、「原発推進を犯した国の大きな過ち」であり、大惨事はその必然の帰結であること。』
そしてそれは、
『社会統合という最重要課題が分業体制(専門家体制)によって担われてきたが故に、「国益より省益、省益より私益」と、狭い専門領域に閉じこもり己の保身を第一に考える(=無能)者が、社会統合の位置に陣取り権力を振るっていること』に根本問題があることに迫りました。
今回は、この内容を受け、私たちはどうしていけばいいのか?について迫りたい。
◇ ◇ ◇ どうしていけばいいのか?
そもそも、福島原発の大惨事が如実に示したように、無意識に信仰してきた近代科学も、細分化(=専門分化)できる領域に限定されており、例えば今回のような社会インフラの基盤となるエネルギーなど、社会統合の地平にある対象性が要求される領域には全く適応できない。
「専門分化(=細分化)は統合されることが前提」であって、自分の領域(→国益よりは省益、省益よりは私益)しか考えることができない保身の官僚体制になれば、その弊害・暴走は甚だしく、今回のような大惨事として顕れてしまう。(それゆえ福島原発の大惨事が、人災といわれる所以です。)
これまでの「社会統合のプロ(政治家、官僚、学者、マスコミ)では答を出せない」ということを、誰もが強く認識する必要があります。
もはや、私たち自らが事実を紡いで答をだし社会を動かす以外にありません。
一部の特権階級に社会の統合機能を委ねるのではなく、私たち自身が、旧い制度の枠組みを越えて、社会を自ら運営していく能力を獲得していくこと、それが求められているのではないでしょうか。
幸い、現在は、国民がダイレクトに受発信できる双方向メディア(ネット)を持っています。
もちろん、全ての情報が正しい訳ではありませんが(保身で情報を統制し、全てに近いほど信用出来ない政府や東電、マスコミ発の情報よりはるかにましだといえる)、いまやTVや新聞などの大手マスコミが一方的に発信する内容と同等以上に、みながネット情報を頼りにしています。
そのため、現在の危機的状況においては尚更、「政府や官僚の嘘・ごまかし」、「事実は何か?」、「どうすればいいのか?」という、事実情報と可能性の創造をネットを中心に発信し積み上げていくことが問われます。
『皆の役に立つ事実の探求と可能性の創造競争』により、国家やマスコミに代わる共認形成機関としての社会統合サイトが必要不可欠なものとなっていけるかが決まります。
また、ネットを中心とした真の社会共認を受けて、官僚達と対峙する大衆発の政治家もつくることができます。
まだまだ、(菅・民主党執行部のような)自己利益中心の利権政治家が多いのが実情ですが、今後、私たち国民が社会統合の土俵に乗り、正しい審判(選挙等を通して)を行っていくことで、国民側に立って動こうとする政治家を輩出していける可能性もあります。
◇ ◇ ◇ 今後、電力・エネルギーにどうかかわっていくか?
もはや、真っ当な判断をもつ人なら、地震大国日本にとっては特に危険極まりなく、かつ途方もない期間を管理し続けなければならない放射性廃棄物を蓄積させ、人類の活力を削いでいく、自然の摂理に反する原発を使ってまで、これまで享受してきた快適性・利便性は望まないでしょう。
(※実際は、原子力が無くても、現在の火力と水力発電により、エネルギー使用量を減らさなくてもいけますが)
しかも、『自然の摂理に則り』『自給自足できる』次代の新資源・新エネルギーは、例えば、小水力、地熱、リグニンや藻などバイオによる小火力、太陽光、風力などなど、すでに様々な開発が行われており、可能性はたくさんあります。
◇ 『誰もが「当事者」として社会を動かす』土俵に乗ること
供給者≠消費者(使用者) →傍観者
↓↓
供給者=消費者(使用者) →当事者
福島原発は、東電区域外の福島に建設され、そこで発電された電力はすべて東京に供給されていました。それは、危険・厄介な原発を地方に押し付けている(傍観者)構造で、それが福島原発の安全管理の欠如にもつながっています。
とすれば、次代のエネルギーシステムは、「供給者=使用者」の視点に立った『地域分散型エネルギーシステムの構築』こそが答ではないでしょうか。
(※図は、当ブログで作成したものです)
<参照>
『次代を担うエネルギー・資源』火力発電の可能性7~「これからは、エネルギーの消費者が供給者になること」~
環境問題の改革を進めるには、新しい社会統合機構が不可欠!8『官僚制の突破口は、「半専任・半事業⇒参勤交代制」』
そして、供給者=使用者の構造をもつ『次代のエネルギー』を模索することは、地域のエネルギー生産事業として地域活力再生事業の起爆剤にもなり、それはとりもなおさず、生産・消費を含めた私たちの生活様式の見直しにつながる『生産の構造を大転換させる』ことになる可能性を含みます。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
遅ればせながらも、これまで無意識に当然のように享受してきた電力・エネルギーに対し、誰もが真摯に向き合う新たな局面を迎える契機にしなければ、今回の大惨事はまったく意味のないものとなります。
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