東北地方太平洋沖地震~原発は必要か否か16~原発業界に蔓延る「神話」それは原発導入の経緯にある
これまでこのシリーズでは、原子力発電の原理から、危険性について扱ってきました。しかしそもそも何でこんな危険な原発を導入するにことになったのでしょうか?その歴史や背景をこれから探って行きたいと思います。
そもそも日本の原発数はどのように推移してきたのでしょうか?まずは近年の原発着工数でその推移を見てみましょう。
1979年米スリーマイル島事故、1986年露チェルノブイル事故を踏まえても、日本の原発建設に大きな変化はなく、70年80年代は原発建設を推進しているようです。
90年代に大きな落ち込みを見せている点でいえば、まるで日本経済そのものの動きのように、高度成長期には続々建設を行い、バブル崩壊によってブレーキがかかったとも見えます。97年京都議定書を受けてCO2削減圧力から再度建設が復活しています。
原発は電力会社による“投資”と捉えれば理解できますが、果たしてこんな企業任せでよいのでしょうか?原発の「安全」というものはどこが負うのでしょうか?
2008年6月19日の新潟新報に興味深い記事がありましたので紹介したいと思います。
実は原発業界には、一般市民の感覚では理解できない2つの神話が存在してきたというのです。
1.新品神話~何年経っても新品同様
どんな設備や機器も時間が経てば老朽化し、破損したり、故障するのが常識ですが、原発業界には、「原発の機器はいつも新品」という神話があるそうです。神話というよりも“単にそうゆことになっている”というだけのことなのですが・・。
かつて東京電力で火力発電担当だった竹内哲夫氏が、原発の使用済み核燃料の再処理などを行う日本原燃の社長に就任したとき、そこで部下が発した言葉にもショックを受けたそうです。
(引用)
「社長、故障するなんて言わないでください」
その部下を強くしかりつけたことを竹内は鮮明に覚えている。
「機械は故障するもんだ。何を言っているんだ」
火力発電では故障したことを報告しなければ、修理代の予算も付かない。そうした普通の世界からは想像もつかない“原子力部門の常識”の異様さを目の当たりにしたのである。
竹内は「『壊れますよ』と言えない社会。技術屋から見るとすさまじい話。昔は『隠せ』『聞きたくない』という社会だった」と振り返る。
(引用終わり)
原子力業界が「新品」に執着してきたのは、なんで?
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原子力業界が「新品」に執着してきた理由は、法体系の不備にありました。
国内初の商業原発が運転を始めたのは1966年でした。
しかし、損傷があっても安全性に影響がなければ運転を認めるという国の「維持基準」ができたのは、何とその37年後の2003年のことなのです。
その間は、何らかの変化(≒問題にならない程度であれ)が発生すれば、どうしていいか分からない→運転停止→電力供給ストップ→そして責任問題となる為“法律上”は導入当初の新品同様の機器であることが求められてきたのです。
トラブル隠しが相次いだのはこのためだと考えられます。(写真は47newsさんからお借りしました)
2002年の柏崎刈羽原発の配管などのひび割れを知りながら、隠していたのも、問題即運転停止となることを避ける為なのです。問題が起きたとき、そして廃炉にするときのことを全く想定せずに走り始めた結果なのです。
そしてこの「新品神話」につながるもう一つの神話が、日本に原子力が導入された経緯を背景に生まれた「安全神話」なのです。
2.安全神話~「安全論議はなかった」輸入に頼り法改正怠る
そもそも日本の商業原発は欧米からの輸入によって成立していました。
1966年、茨城県東海村で初めて営業運転を開始した原子炉はイギリス製。
次いで70年代、東京電力をはじめ国内電力各社が相次いで導入したのはアメリカ原子炉でした。
この「海外からの輸入」という日本の歴史的な経緯が原発の「安全神話」を生む背景にあったのです。
旧通産省資源エネルギー庁で官房審議官を務めた逢坂国一氏はそれを象徴する言葉として「フルターン・キー」を挙げました。
「原発一式」として完成品を引き渡されるため、購入者側は「鍵(キー)を回し(ターン)さえすれば発電できたということを意味します。
海外で安全性が認められ、運転実績がある完成品の輸入なので、当時の電力会社は製品と同時に「安全」もそのまま受け入れていた状態だったというのです。
日本の原子力政策の在り方を定め、55年に公布された原子力基本法ですが、既に海外の手によって安全が確認されているという安心感は、その原子力基本法にも影響を与えていました。
第2条の基本方針に掲げられた「民主、自主、公開」の3原則は、日本学術会議が原子力の平和利用について提言したものですが、その中に「安全」という文字はありません。
世界で唯一の被爆国である日本なのに、「安全」という文字が入らなかったのはなんで?
(引用)
同法は議員立法によって生まれた。中心となって動いたのは元首相・中曽根康弘と旧社会党の故松前重義らだ。当時、原子力の平和利用には積極的だったという旧社会党の政策審議会でエネルギー政策を担当して松前を支え、後に衆院議員を六期務めた後藤茂氏は振り返る。
「基本法の内容を話し合うため松前さんは中曽根さんと何度も打ち合わせをしたが、安全の論議はほとんどなかった」
抜け落ちた「安全」の論議は56年の原子力委員会発足時も同様だったという。後藤の回想が班目東京大学大学院教授の推測を裏付ける。
「ほぼそのまま導入できる技術が(海外で)既に開発されていたから、委員会でそれをどう使うかという組織や体制の話が中心だった」
米国などから与えられた安全の中に浸りきって法制度を見直してこなかった国と業界の姿勢が、ゆがんだ神話を生む結果を招いたといえる。
(引用終わり)
「神話」という名の思い込み→そして思考停止。それにより最も重大な「安全」が置き去りにされるという現実に私たちは立たされているのです。
そしてそもそも日本の原子力導入は、資源のない日本のエネルギー対策という大義名分以外のことがあったのです。
日本に原発を積極的に導入したのは、日本に原爆を落としたアメリカでした。
原爆投下によって原子力開発で圧倒的に先行していたアメリカですが、ソ連やイギリスが追随してきたため、さらに優位性を高めるために原子力の平和利用という目的で開発を進めていきたいという思惑があったようです。
ここは、ブログ:日本を守るのに右も左もない(日本の原発導入の歴史2~アメリカの事情2009年2月21日)に詳しく書かれています。是非参照してください。
そしてそれを受け入れる日本側にも事情がありました。
日本側といってもその中心となったのは、中曽根康弘氏、正力松太郎氏、児玉誉士夫氏の3人。彼らは「原子力」というツールを使って自らの私権拡大を目的としていたようです。
政界内での力を拡大させる中曽根氏。メディアを活用して大衆共認を形成する正力氏。反米活動家たちを押さえ込む児玉氏。
それぞれの思惑の中で、自らの役割を担い全うしていく様子が、
ブログ:日本を守るのに右も左もない(日本の原発導入の歴史1~事実が隠蔽される構造2009年2月19日)に詳しく書かれています。これも是非参照してください。
エネルギー政策以外の方に重きが置かれた結果が、現在の大惨事につながっているのです。
彼らは、私たちの現在~未来を担保にして私権をむさぼっているのです。私たちの生命に直結する政策については私たち自身も係って行きたいと思います。
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