科学はどこで道を誤ったのか?』(13) 中世後期~キリスト教の権威付けのための大学の創設により、神の手先の「神官」から「学者」が登場する~
(※左はトマス・アクィナス、右はアリストテレス)
前回記事(リンク)では、キリスト教が勢力を拡大しヨーロッパ世界を席巻していく段階(中世初期)で、キリスト教の指導者である教父たちが「絶対化した『神』という観念から対象世界を理解するという倒錯した世界認識方法」をとるようになったことを書きました。
そして、それらは中世後期(12世紀)に、キリスト教指導者育成のために創設された大学に引き継がれてゆきます。
今回は、この倒錯した世界認識方法と大学の創設・制度化により、科学がどのように変貌していくのかに焦点をあてます。
時代は、11~16世紀の中世ヨーロッパです。
では、まずは、キリスト教指導者育成のために創設された大学の中身から見ていきましょう。
◆ ◆ ◆ キリスト教の権威付けのために大学が制度化される
ローマにはじまったキリスト教は、古代以来のゲルマン・ケルト的伝統を残す異教の地である西欧にまで広がり、11世紀頃には概ねローマ・カトリック教会に吸収されます。そして、西欧全土にまで拡大した教会を支配・統合するために宗教指導の知識人の需要が拡大していきます。
その需要に応えるべく、12世紀にはフランスの各地に司教座教会付属神学校が発達していき、その内の、ノートルダムのパリ司教座教会付属神学校を起源としてパリ大学が設立されました。そこで教えられていた内容は、
高等教育においても基本思想は同様で、そのことは十二世紀に創設された大学の教育システムにも反映されている。中世の大学では、当時教養の基礎であるいわゆる「自由学芸(artes liberales)」すなわち修辞学・弁証法・文法の「三学」と算術・幾学・天文学・音楽の「四科」を教える「学芸学部(facultas atrium 人文学部との訳される)があり、その上に専門学部としての「神学部」「法学部「医学部」が置かれていた。
つまり「学芸学部」は現在の教養課程に相当し、そこで「自由学芸」を修めてはじめて上級の専門学部に進学できたのである。したがって、聖書と教父の著作の注解を教育の中心に据えている神学部から見るならば、学芸学部は予備課程にすぎず、言語と事物に関する世俗の学問としての「自由学芸」はあくまでも神の御言葉を研究するための補助学、すなわち「神学の婢」でしかなかった。
※【重力と磁力の発見1 山本義隆著】
このように、大学は、中世初期に、教父アウグスティヌスが、ギリシア・ローマの自然科学論理を聖書理解の補助理論として取り込んで創った『認識方法』を広めるための機関として設立され、その大学での学問とは、「神学」を頂点に「法学」と「医学」のことであり、自然を対象とする「学芸学部」は神学のための補助学にすぎなかったのです。
つまり、キリスト教拡大期に、観念を操る宗教指導のエリートを育成するために設立されたのが、大学の起源なのです。
これは現在の日本の大学からは想像しがたい起源ではありますが、観念を操り自分たちの地位や身分を確保するという意味において、世界中の大学に引き継がれています。
Q.では、このようなキリスト教の知的エリートを養成する大学が制度化されると
◆ ◆ ◆ 神の手先として神学者が権力を持つようになる。そして同時に、学者という知的特権階級の身分が登場する
◆ 『追求の動機』に自我・私権志向を内在させた知的特権階級
中世の聖職者は第一身分とも呼ばれる様になり、大学による聖職者増産があっても人口の1%にも満たないエリート階級であり、彼らと第二身分といわれる貴族には年金支給と免税特権が認められており、知的特権階級として存在していたのです。そして、現在の大学とは異なり、ここで学べるのは富裕な貴族の子弟などの限られた人間で、聖職者となったあとは高い社会的地位が保証されていたのです。
そこには、聖職者という名前とは裏腹の、大多数の平民が貧困にあえぐ中、自らの高い地位を確保していくという自我・私権を志向する意識が多分に含まれていたと見るべきでしょう。
これは、16世紀には、金貸しのメディチ家が、その家系の中から、潤沢な資金によりローマ法王の座(レオ10世・クレメンス7世)に就き、強大な権力を欲しいがままにしたことからも類推できます。
◆ プロフェッション(→専門職の学者)の誕生
そうして、観念を操る知的特権階級の神学者から、以下のようなプロフェッションが登場します。
建築家・彫刻家・画家・作曲家・小説家などの総称を私たちは芸術家と呼んでいますが、(略) それは、まず表面的には、いずれも人並外れた職能レベルと職業倫理が重要であるということを自らが口にするのを憚らず、・・・(略)
しかし、プロフェッションは、高い職能と倫理観を持った人たちであるというのは、実のところ単なる見せ掛けで、単に職能者としての地位や身分を保障された階級だというのが実情です。そして、職能者としての基盤は、その時代その時代の先端に位置する観念にどれだけ習熟しているかに依っているのは、今も昔も大差ありません。(略)
この原型が、古代の宗教者や哲学者です。彼らは、中世末期に大学が生まれてからは(ソルボンヌ大学あたりが現在の大学の起源らしい)、大学をねじろにプロフェッサーとしての道を歩み始めますが、彼らこそ、観念を武器に自分たちの地位や身分を確立してきた先駆者であり、・・・(略)
※筆者注記:ソルボンヌ大学≒パリ大学
「るいネット『プロフェッションたちの職能意識の正体』」
現在ではこれ以外にもさまざまなプロフェッションが存在しますが、その起源は、神という観念を絶対化して、存在証明の為に、観念を操り相手を論破していくことで自らの特権的な地位を確保していくという『観念主導の論証型』の知的特権階級の神学者がその起源なのです。
そして、キリスト教の権威付けのための大学が創設されると、神の手先の神学者が権力をもつようになります。と同時に、プロフェッションという専門職の学者という知的特権階級の身分が登場します。
また、中世初期にアウグスティヌスを中心とする教父が、キリスト教の権力獲得を目的に古代ギリシア思想を取り込むことで、科学の担い手が、古代の哲学者から中世キリストの僧侶へ移りました。それが、中世後期にキリスト教の拡大・権威付けを目的に設立された大学の制度化により、科学の担い手が、僧侶から学者へと移ってゆくことになります。
この科学の担い手として知的特権階級の学者の登場により、大学をねじろにした科学の権威化が進むことになります。
Q.では、科学の担い手が、僧侶から学者へと移っていくと
◆ ◆ ◆ アリストテレスの思想が起点となって、教会権力から学者を自由にさせていく
ここで、上記のような大学の誕生した12世紀のヨーロッパ社会に目を向けると、前世紀(11世紀)に続き二度、第二回、第三回の十字軍の遠征が行なわれていました。これらを通じて、イスラムに移植されたギリシアの古典の文化が西欧に伝えられ、哲学、美術、文学などの分野でも新しい動きを見せています(12世紀ルネサンス)。
これは、交易資本を牛耳る金貸し勢力が力をつけていく起点になると同時に、西欧キリスト教圏に、まだ伝えられていなかったギリシア思想がイスラム経由で輸入されてゆきます。そして、それまでギリシャ思想を改変した新プラトン主義で説明されていたキリスト教も、この時期のアリストテレスの思想が移入されたことで大きく揺れ動きます。
◆自我・私権拡大を擁護できる思想を含むアリストテレスの思想
特にこの時代で重要なのは、ルネッサンスの母体として、十字軍による掠奪から交易を契機にする市場拡大がはじまり、キリスト教も含めた身分秩序の確立で閉ざされていた、自我・私権の拡大可能性が開かれたことです。そこに、
アリストテレスは『形而上学』冒頭でストレートに「すべて人間は、生まれつき知ることを欲する」と切り出している。
知を宗教に従属させるキリスト教思想とは異なり、アリストテレスは知的欲求それ自体を全面肯定したのである。キリスト教イデオロギーに縛りつけられていた中世において、この宣言は人の心を大きく揺さぶった。※【16世紀文化革命 山本義隆著】
という、キリスト教からの縛りから解放された知的探究を肯定させるアリストテレス思想が注入されたのです。これにより、もともと『追求の動機』に自我・私権志向を内在させた知的特権階級の多くが、アリストテレス思想に賛同し対象としました。
その結果、自然の研究は信仰に従属し、自然を学ぶ目的は、ひとえにその中に神の啓示を読み取るものであるとするキリスト教神学は、危機を迎えます。
アリストテレスの自然思想は、キリスト教の教義、とりわけ天地創造と最後の審判を語り、神の奇蹟を認め森羅万象を神の意思に結びつけるキリスト教の自然観とは根本的に異なっていた。
アリストテレスのおいては「天界はひとつにして永遠で始まりも終わりもない」し「何事も自然に反して起こることがない」のである。つまりアリストテレスの「世界と自然」は超越的な他者によって外から意図的に作られたものではないし、超越者の恣意にゆだねられてもいない。
キリスト教およびプラトン主義とアリストテレスの自然観・世界像の違いは、つきつめれば「始めと終わりのある世界」と「永遠の世界」の違いであり、「被造物としての自然」と「おのずから成った自然」の違いである。
<中略>こうしてアリストテレスの発見とともに、自然の秩序やその変化はそれ自体の原理――自然に内在する力と目的――に支配されているのであり、自然的理性によって合理的に理解されるはずのものであるという意識が、ヨーロッパの知識人のあいだに少しずつ芽生えていった。
トマス・アクィナスやロジャー・ベーコンの一世紀前、イスラーム社会から西欧へアリストテレスの翻訳がはじまった十二世紀が「自然の発見の時代」と言われるのはその意味においてである。
※【磁力と重力の発見1 山本義隆著】
このように、古代ギリシャの科学や哲学、とりわけアリストテレス哲学との遭遇は、キリスト教社会の知の全体構造に亀裂をもたらし、その精神統一を揺るがしかねない状況を招いたのです。
◆トマス・アクィナスによる異教徒の自然科学理論の妥協的改変
そこに13世紀になって登場したのが、パリ大学のトマス・アクィナスで、彼は本来相容れないはずのアリストテレス哲学とキリスト教神学を精妙かつ遠大な理論で統合しスコラ哲学『神学大全』を作りあげました。それは、14世紀になって教会公認の理論となり、キリスト教神学の中心を占め、一旦キリスト教とアリストテレスの対立は表面的には解消します。
しかし、アリストテレスの吸引力は大きく、
自然的理性により認識される哲学的真理は、その範囲内では信仰と矛盾するものではなく、信仰に調和的に包摂されるはずであるというトマスの与えた御墨付きは、結果的には理性が自律的に活動しうる分野を保証することになった。
つまりトマスは啓示にかかわる問題をはなれたところに理性の権利を認めたのである。そのことは、さしあたって啓示の真理を顧慮することなく、そしてまた神学的な動機づけをはなれて、自然をそれ自体で合理的に研究するゆき方を事実上容認するものであった。
(略)そして実際には、逆説的に聞こえるにせよ、十三世紀の時点ではトマスの理論がむしろ自然学の神学からの自立を促した側面を有することは認めなければならない。
※【重力と磁力の発見1 山本義隆著】
というように、トマス・アクィナスの理論により、逆に、アリストテレス思想への収束力を高めることになったのです。
そして実際、その後の大学では、アリストテレスの自然学と哲学の探求が、学芸学部の主要な課題となり、かつて神学の補助理論だったこれらが、神学から自立し、絶対存在として君臨していた神と同列の地位を獲得してゆくのです。
と同時に、キリスト教に縛られていた学者たちは、神学で鍛えた『観念主導の論証型』という『認識方法』はそのままにして、当時勢力を失いつつあったキリスト教権力から徐々に離れてゆくようになります。
Q.では、キリスト教権力から離れてゆく学者は、また科学は、どうなっていく
◆ ◆ ◆学者は、神から金貸しの手先に
◆ 15世紀頃までは、「大学の学問」と「工房の技術」は没交渉であった
ただしまだこの段階では、例えば近代科学の重要な要素である数学でみても、
十二世紀から十三世紀にかけて、ヨーロッパの諸都市で高等教育としてつぎつぎに創設された大学は、その時代の翻訳運動においてヨーロッパに流入してきた古代ギリシャやイスラムの哲学や科学を吸収する機能を果たした。とくに再発見されたアリストテレス哲学は多くの大学生や学生の心を捉えることになった。
しかしそれらの大学はでアル・フワーリズミーの書やアラビアの数学が熱心に研究された形跡は見られない。せいぜいが、十三世紀中期にはインド・アラビア数字をもちいた算術書『通俗アルゴリズム』がクサクロボスコことホリウッドのジョンによって作られたぐらいである。しかもこの書もボエスティウスの影響を強く受けたもので、実用性は乏しかった。
そもそもはアリストテレスは商業を否定的に見ていた。彼の『政治学』には「取財術には二種類あって、そのうちのひとつは商人術で、ひとつは家政術の一部であり、後者は必要欠くべからざるで賞讃せらるべきものであるが、前者は交換的なもので、非難せられて然るべきものである」とある。すくなくとも、商業技術を学的研究の対象とする姿勢はない。
中世キリスト教社会もまた、営利を目的とする商業を罪悪視していた。富者が天国に入るのは駱駄が針の穴を通るよりも難しいとされていたのである。<中略>商業に対するそのような全否定の態度は、十二世紀なかばを境にすこしずつ薄れ、正当に営まれるかぎりで―貪欲におちいらぬ限りで―商業の必要性を認める方向に風向は変わっていったとある。しかし、利潤追求が魂の救済にとって有害だと見るキリスト教の立場は変わらなかった。
アリストレス哲学をキリスト教神学に組み込みスコラ学を作りあげた十三世紀のトマス・アクィナスも、市民が商業に関心を向けると「市民たちの心に貪欲が伝わり・・・・公益が無視され、各人は私欲に走る」と記している。商業技術としての数学を積極的に学び教育するという姿勢は、そこにはない。
いずれにしろ大学は実用的なものを軽視していたのであり、金儲けや金勘定を目的とする学問を認めようとはしなかった。
そのかぎりで、商業数学の色彩の濃いアラビア世界の数学がヨーヨーロッパの大学に根付くことはなかった。※【一六世紀文化革命 山本義隆著】
このように、中世の大学のなかでは、自然学への関心の高まりはあるにしても、現実を対象とした実用的な学問はまだ根付いておらず、中世からルネサンス期の古代人の方が優れていると思われていたための古代文書の翻訳も、13世紀にアリストテレス哲学とキリスト教神学を統合したスコラ哲学も、その後登場したルネサンス人文主義も、「学問」の対象はあくまでも古代の“書物”に書かれた観念世界のことであり、現実世界を対象にしたのでもありませんでした。
他方、5世紀のアウグスティヌス以降、一般的に空白の科学史といわれる1000年間においても、教会神学のための文書偏重の思弁的論証に終始していた大学の学問とは別の道を歩んでいた職人・技術者達は、彼らの工房において、現実の自然を対象として、自らの感覚でそれを捉え、それをもとに技術を更に改良していくという潜在思念に基づく工夫思考の領域で、着実に“経験”に基づく「技術」の発展・伝承を行っていました。
しかしながら、交易資本を牛耳る金貸し勢力の意に適った、現実世界の現実の利用価値を持った錬金術などの魔術やそれを操る職人の地位向上が起りつつも、15世紀頃までは、
しかし、中世ヨーロッパにおける学問と技術の決定的な問題点は、大学で学ばれ教授されていた学問と工房で営まれ伝承されていた技術が、たがいにまったく没交渉であったことにある。
大学の学問-スコラ学の「自由学芸」-は古代の文献に依拠した思弁的学問であり、他方、職人たちの技術-「機械的技芸」-は科学的な裏づけのともなわない経験にもとづいていた。そして、技術が先行していたにもかかわらず、学問は手仕事を蔑んでいた。
※【一六世紀文化革命 山本義隆著】
という状況にありました。
Q.それが、いつ、どのように交わるのか
◆キリスト教の衰退と金貸しの台頭を契機に、「神学」から現実の世界や自然を認識する「実学」に比重が移っていく
それが、近代前夜にはいり、交易資本を牛耳る金貸しの権力が増大しだすと状況が変わってゆきます。
シャルルマーニュの勅令(※)以後、初等教育のための学校が修道院に設けられ、やがて高等教育機関としての司教座聖堂附属学校、さらには大学の創設へと、西ヨーロッパの教育制度は拡充していった。しかし修道院や司教座の学校はすべて教会の影響下にあり、基本的には聖職者養成を目的としたもので、ラテン語とキリスト教思想が教育の中心であった。
それにたいして都市の市民層は教会の息のかからない実学を重視する学校を求めるようになっていた。
そもそもが聖職者に求められる禁欲主義的規範は商人にそぐわない。現実にも、北イタリアでは1300年頃までに教会が教育に果たす役割は大幅に後退してゆき、それにかわって都市自冶政府(コムーネ)が教育に乗り出すことになった。その教育は読み書きとともに商業のための実用数学を重視するものであった。(※)シャルルマーニュの勅令:
800年に神聖ローマ帝国の王冠を戴いたシャルルマーニュが、王朝の秩序樹立のさいに範としたのは旧ローマ帝国の秩序でありキリスト教の組織であった。シャルルマーニュは宮廷に知識人としての聖職者を集めラテン語を教育する宮廷学校を創設し、さらに修道院に学校の設置を促す勅令を発している。※【一六世紀文化革命 山本義隆著】
というように、教会神学のための大学とは別に、商人や職人を中心とする都市市民層(13世紀商業革命)の求めに応じた都市自治政府(コムーネ)の教育が拡大し、聖職者と宮廷貴族による知的教育の独占が徐々に崩れつつありました。
そして15世紀末には、(知的特権階級の観念基盤である)ラテン語ではなく、ヨーロッパ全域で書き言葉としての俗語(自国語)の使用は拡大し、それに伴い都市市民の識字率も上昇していきました。
このことを背景にして、「17世紀の科学革命」を前にした16世紀にはいると、
クリストファー・ヒルの言うように「十六世紀は、宗教においてと同様に、科学においても、おもてに表れることなく手工職人たちのあいだで長いあいだ渦巻いていた諸観念が奔出して尊敬をかちえた時代なのである」
航海技術が急速に進歩し地球の実相が日々あらたに開けているこの時代に、ラテン語を操るエリート知識人によって担われていたそれまでの書物偏重の学にかわって、経験を重視する新しい知のありかたが、それまでの学問世界の住人とは考えられていなかった芸術家や職人や商人のなかから語られはじめたのである。
立ち入って言うならば、それはただたんに経験一般の重視ではない。それは芸術家が自然を表現する技法や職人や技術者が自然に働きかける手順や方法、そして商人が商品や資本を管理する手法は、世界や自然の認識にとって有効で大きな価値をもつという主張である。
※【一六世紀文化革命 山本義隆著】
科学の主要な中身も、現実の市場拡大に役立つ実学が台頭していきます。
そして特に決定的だったのが、15世紀の大航海の経験を、16世紀の印刷・書籍の登場とともに、大学とは無縁な技術者や職人が、(知的特権階級の観念基盤である)ラテン語ではなく俗語(自国語)でもって、科学・技術書を書き始めたことで、これにより大きな転機を迎えます。
上記の、都市住民の識字率の上昇と俗語での印刷・書籍の登場により、『脱神秘化した魔術と理論化された技術の流れが合流し、新しい科学を生み出す』ことになったのです。
【参照】
●日本を守るのに右も左もない「近代科学の成立過程18~十六世紀ヨーロッパの言語革命はキリスト教と金貸しの共認闘争だった」
●自然の摂理から環境を考える「『科学はどこで道を誤ったのか?』(5)ルネサンス(14~16c)~自然魔術による自然支配観念の萌芽と、「科学」「技術」統合への流れ」
それに応じて、大学の学問は、架空観念を駆使した「観念主導の論証型」を温存しながらも、現実の世界の私権獲得を行うことができる、それまで蔑んでいた経験に基づき現実を対象化した「職人たちの技術」を取り込んで(というより職人たちの技術に駆逐されて)、現在に至る科学技術の原型が形成されてゆくようになります。
そして、観念を操り科学を牛耳る大学(学者)の権威は、その時代の権力者を観念的に正当化する機関として、中世のキリスト教に替わり、交易資本を牛耳る金貸しに融合し、金貸しの都合の良い観念をつくり出す機関として、現在に至るまで権威を維持してゆくのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
前回と今回で中世キリスト教の時代の科学について再度検証しました。
これでこのシリーズは、「近代科学が、なぜヨーロッパのみで生まれたのか」の問題意識をもって、古代~中世~近世~近代における科学を追求しました。
そして、いよいよ次回はエピローグとして、シリーズのテーマ『科学はどこで道を誤ったのか?』の答に迫ります。
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