2010-02-02

『次代を担う、エネルギー・資源』 トリウム原子力発2 核エネルギーを利用した発電システムを概観する2/2

museum51.jpg『核エネルギーを利用した発電システムを概観する1/2』の続きです。

前回、原子力発電とトリウム溶融塩炉の概要についての記事を書きました。今回は、その概要をイメージしながら、もう少し分解した要素ごとの概要と調査課題の設定についての記事です。

ところで、宇宙は核反応によって、さまざまな物質を生成しながら、姿を変えていくシステムだと考えられます。水素を核融合させてヘリウムを作り出す太陽や、命が尽きてまた他の星の材料に戻る超新星の爆発など、どれも核反応の結果です。

そして、原子炉の中では、このような宇宙での反応の一部を人工的に再現しているともいえます。今回は、この反応がどういうものなのか?を見ていきましょう。

それでは原子炉の中へ

元素の起源
画像はテクマグさんよりお借りしました。
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4.原子炉の中ではどんな核反応が起きているのだろう?

ウランを核燃料とする従来の原子炉も、トリウムをウランに変換して核燃料にするトリウム溶融塩炉も、核反応後の生成物に違いはありますが、基本的な反応構造は同じです。そこでまず、従来の原子炉を例にとって説明します。では、どのような核反応が起きているのでしょうか?

☆核燃料の殆どが、反応後に残ってしまう

核分裂を起こすウラン235は自然界における存在量は0.7%程度で、残りの99.3%はウラン238という同じウランの仲間ですが、そのままでは核分裂を起こさない物質です。これらの混在物が、核燃料の原料として採掘、精錬された上で、ウラン235を約3%まで濃縮することではじめて、核燃料として使用できるようになります。

つまり実際に使用するウラン核燃料とは、核分裂を起こしにくいウラン238を97%も含んだものなのです。かつ、質量がエネルギーになるのは大雑把には、3%のウラン235のうち、0.2/235の比率分だけですから、それ以外の物質は殆どが残ってしまいます。

ここでウラン235とウラン238の違いは、この数値の比だけ重さがことなるが、見た目には同じ物質程度に考えてください。これらを同位元素といいますが、この仲間には放射線を出すものが多いのが特徴です。また、放射線は3種類ほどありますが、原子から飛び出して、物質を貫通していく能力があり、場合によっては人体に悪影響を与えることがある、程度に考えておいてください。これらは、改めて詳細に扱います。

☆原子炉の中ではたくさんの副次的な核反応が起きている

原子炉の中で、どういう反応が起こっているのでしょうか?原子炉の中で起っている核反応のうち、ウランが核分裂して他の元素になることは、これが主要な核分裂エネルギー生成過程であるため、よく説明されています。しかし、それ以外の、核反応もかなりあることはあまり知られていません。

これらは、エネルギーを取り出すときの核分裂反応から副次的に起きるもので、必要悪に近いものです。そこでの核反応は、殆どの場合、放射線を発生する元素(放射性同位元素)への変化になります。だから、原子炉内では複雑な反応に伴い各種の放射線を発生させる物質を作り出しているのです。これを核分裂生成物といい、かなりの種類になります。

また、この核分裂生成物は、何千万から何億年という単位で、放射線を出しながら安定していくという特性があります。だから、一瞬の電力のために何億年もの放射線発生源を生成していることになります。この処理が、使用済み核燃料の問題として、社会に取り上げられているのです。原爆で発生する『死の灰』といわれるものは、基本的にはこれと同じです。

☆核兵器の材料プルトニウムも原発から出来る

ウラン型原子炉では、自然界にはほとんど存在しない、放射性元素であるプルトニウムも生成します。この一部は、原子炉内で燃焼してエネルギーとなりますが、殆どは使用済み核燃料として処理されます。そして、このプルトニウムは、ウランより核爆弾の設計に適しているため、軍事利用に転用可能なのです。というよりも、この利用が先にあり原発が推進されてきたという見方も出来ます。

☆トリウム溶融塩炉ではプルトニウムは発生しない

トリウム溶融塩炉では、プルトニウム239の親物質であるウラン238を使用しません。その代わり、トリウム232に核反応を人工的に起こさせて、ウラン233というプルトニウム239にならない物質を利用します。ただし、トリウムからウランへの変換過程には、別のエネルギー投入が必要で、かつ、この技術自体もまだ確立されているとはいえません。

5.トリウムという元素はどのくらいあるのだろう?

トリウムの埋蔵量はウランの3から4倍といわれ、ウランに比べれば遍在しています。残念ながら日本にはありません。また、アメリカでは再調査の結果、従来の発表の6倍ほどあったと報道されています。これで、今のところアメリカが世界一の埋蔵量になります。

この状況では、エネルギー自給という課題は達成できませんが、将来日本が同盟を結べそうな、意識的な共通点がある国に埋蔵されているかどうかの判断も含めて次の課題になります。

6.トリウム原発を巡る世界の動きはどうなんだろう?

現在の原発のもうひとつの目的である核兵器への転用や、膨大な開発投資を回収するという経済的目的が達成途中段階では、トリウム溶融塩炉は意図的に排斥されてきたという側面があったと思われます。また、技術面においても、その当時はまだまだ未成熟な部分があり、それを固体燃料の原子力発電所で蓄積された、運転段階の核反応データを利用しながら解決してきた、というのが実態ではないかと考えています。どの程度実現性があるのかが、今後の調査課題です。

7.原子力発電の安全性はどうなんだろう?

前述のように、膨大なエネルギーを小さな原子力発電所で発生させることから、通常の火力発電所に比べれば、はるかに大きな潜在的危険性を孕んでいます。原理的には、原爆が一瞬のうちに核連鎖反応を起こすのに対して、原子力発電所では、それを何年もかけてゆっくり反応させるだけです。

そのため、固体燃料の原子力発電所は常に暴走の危険が有ります。また、各種の放射線は、原子炉の材料や冷却水まで核反応を起こしたり、漏洩したりする危険性を持っています。

ここで、液体燃料を用いるトリウム溶融塩炉については、核反応に必要な量だけを随時投入するというシシテムなので、暴走の危険性は、既存原子炉より下がるということはいえそうです。ただし、放射線については、固形燃料の場合と同様の問題を孕みます。

このような問題に対して、非常に精密な設計と管理を行うことにより、事故の発生可能性を下げています。その結果、潜在的危険性は高いが、事故発生確率がかなり低く抑えられていて、それらを掛け合わせたリスクは社会的に容認できるというのが原子炉の安全性を保証する論理です。

これについては、日本の技術力はかなり高く、先の論理に依拠する限り、大きく矛盾することは無いのではないかと思います。だだし、現在の意識潮流や今後の社会や経済はどうなるのか?という視点を加えると話は変わります。

それは、この安全性理論が物的生産が絶対善という時代に出来たものであるため、現在に人々の意識からして共認されるかどうかわからないからです。そのためこの論理は再検討する要があると思います。その条件としては、なぜ一般人が原発を嫌だと思うのかという潜在思念の部分まで踏み込こむことだと思います。

また、日本人は、既に消費そのものに充足を感じない意識変化を起こしていることや、二酸化炭素による温暖化理論の破綻などを考慮すると、原発開発の根拠となっている、電力消費量の伸びは逆転する可能性すらあります。これらの状況認識を踏まえ、トリウム原子力発電の可能性を検討していきたいと思います。

List    投稿者 sinsin | 2010-02-02 | Posted in E03.トリウム原子力発電6 Comments » 

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コメント6件

 タマゴ丸 | 2011.01.02 0:57

ひとつ前の記事で、西洋の社会期待にこたえたのは、結局、宗教ってことだったんですよね~。
でも、結局は、
>相変わらず残る共認非充足
なんですね・・・。
人々の根っこに非充足が残り続けてきたからこそ、ここで、環境問題においても、本当の答えを求めているんだなって最近つくづくかんじます。

 pinoko | 2011.01.03 22:39

わ~~!
続きが気になりますね><
共認動物である人間に必要なのは、共認充足。
それを破壊していったことが、環境問題をはじめ様々な問題を引き起こしていったんですね。。
でも、実感としてもそれは感じるように思います。
明日も楽しみにしていますね!

 hihi | 2011.01.08 14:41

タマゴ丸さん、あけましておめでとうございます。
そうなんですよね。集団が解体されている限り、共認非充足は残ってしまいます。
サルの時代に作られ、原始人類の時代に成立した、脳の部分は残っているんですよね。

 hihi | 2011.01.08 14:44

pinokoさん、あけましておめでとうございます。
ほんとうにそうですね。しかし、これからは共認充足を作って且つ環境問題もクリアしていく事例が出てきつつあるようにも思います。
これから、そんなものを探していきたいと考えています。

 bambi | 2011.01.10 18:04

>日本人はあまり浸透しなかった。何か、違和感があるように思います。そんなに都合よく割り切っちゃって良いのか?と。
西洋の考え方って、グローバルスタンダードとなって日本にもかなり入ってきましたが、やっぱり何となく居心地が悪いというか、合ってないんやな~って思うことがよくあります。
>近代になり、市場が開かれると、下層民も金儲けによって、社会上部へ浮上する可能性が出てきます。自然圧力が低下し、生産力が上がって、圧力が緩んだのですね。そこで、救いを与えるキリスト教ではなく、現世での金儲けを肯定する思想が出てきます。これが近代観念=自由・博愛・平等です。これによって、「個人」が人類の単位であり、各人それぞれが幸せを求めて好き勝手していいことにしてしまいます。
近代思想って市場を発展させるのにすごく大きな役割をもってましたけど、思想家は意図してたんでしょうかね???
あと、個人主義が浸透したのは宗教改革でプロテスタントが台頭したことも大きいのかなーって思いました。
今後の社会を考える上でためになり、とても面白かったです♪

 パルタ | 2011.01.16 14:47

開発独裁思想は本来西洋由来のものであって、
アジア・アフリカ由来のものではない。
今言われる人権侵害正当化の為の「アジアの価値観」なるものは
本来のアジアとは違う国家統合的なものだ。
「インドネシアは一つでなければならない」という考えは
オランダ植民地支配以前にはない。
何故ならば、インドネシアにあった諸王国は
オランダによって各個撃破されたのであり、
その植民地化された時期はそれぞれズレているのである。
決してオランダ侵略以前からジャカルタの王がアチェーからパプアまでを統治していた訳ではないし、
統治していても原住民を軍と開発業者が追い出すような事はなかっただろう。

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