2011-05-28

トリウム原発に騙されてはいけない!!4~近代思想が仕掛けた罠~

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前回は、原発推進の背後にある巨大な利権構造と、それらを牽引する官僚組織の成り立ちについて追求し、『これら問題の元凶は、近代以降の社会を導いてきた思想そのものにあるのではないか?』という問題意識に辿り着きました。
今回は、『近代思想は社会に何をもたらしたのか』という視点から、さらに切り込んでみたいと思います。

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◆◆◆近代思想の正体

市場=万人の私権闘争の場が開かれる事によって、私権の現実の可能性が一部開かれたが、逆に私権格差は拡大し、村落共同体や、人々のつながりは崩壊し、人々の苦しみや共認非充足もより拡大してゆく。その過程で私権闘争の場が開かれたという現実に照応して登場したのが近代思想である。つまり近代思想は、「神」に代わって私権主体である「個人」を絶対的な位置に置き、同時に失われてゆく本源価値を「平等や博愛」という観念によってそれをつなぎとめようとしたのである。
しかし、人々が私権収束している限り、必然的に私権闘争は発生し、敗者は勝者に否応なく従わざるを得なくなる。その結果「自由」や「平等」や「博愛」という理念は常に空虚なものと化す。その意味で近代思想も現実を捨象した、頭の中だけの充足にすぎないという、構造は何ら古代宗教と変わりがない。
それでも共認充足の可能性がそこにしかない限り、同じく人々は近代思想に収束する。
『知識人の操ってきた観念群』

ありもしない理想論を並べ立て、一方で都合の悪い現実をとことん否定・捨象し、その実私利私欲の亡者と化す。原発ムラの登場人物は、もれなくこの思想に染まっています。
なぜ、誰も原発推進を止めることができなかったのか?と問われれば、そもそも誰も止めようとしなかった=社会の当事者不在、がその答えであり、それを良しとする思想の蔓延が、今回のような危機的状況をもたらしたのです。
◆◆◆科学は、社会を救えないのか?

「想定外」。このたびの原発事故で関係者(科学技術者)が発した言葉だ。
この言葉を聞いた我々一般大衆は「そんなことも想定していなかったのか」と呆れ、ことの重大さ対する関係者の傍観的姿勢に怒りを禁じえない。
しかし、冷静になって考えてみれば、この「想定外」という発言は、学者自らが近代科学の重大な欠点に気づいていないことを示している。
近代科学は、ある一定の条件下でだけ成立する法則の集合体だ。あたかも全ての条件下で適用可能な一般法則のように思われているが、実は違う。万能性はない。しかも、この欠陥を逆に捉えると、恣意的に条件を変えれば、自らの都合が良いように特定の結果を導く事が出来る。ここに近代科学が万能であるという妄信が加われば、恣意的に操作した結果得た答えでさえ、万能性のもとに得た最良な結果である、という妄信が生ずる。
今回の原発事故は、そのようにして生じた。
どこまでの事態を勘案するか、恣意的に条件設定したにも関わらず、あたかもそれが万能であるかのような「安全」という答えを導いた。そして、恣意的な条件操作をした際に抜け落ちた、もしくは、作為的にに勘案しなかった部分が「想定外」だったのである。
『原発:近代科学原理主義者たちの産物』

近代科学は、確かに私たちに物的豊かさをもたらしました。しかしその一方で、諸所の社会的問題は一向に解決の兆しを見せず、悪化するばかり。それもそのはず、近代科学、それを振るう学者・技術者達は、元々そこまで現実の社会を対象化していないのです。
市場社会の黎明期にあたる18世紀。万人の私権追求の可能性が開くと同時に、それを後押しするように近代思想は生まれ、同じ潮流の中で近代科学的思考法は登場しました。
しかしこれは、人類や自然の全体性を捨象して、自分(私権)に都合のよい事実だけを対象化し、それが全てと誤認してしまう、極めて危険な思考法です。近代科学とは、近代思想が唱える市場拡大を絶対視することでのみ成り立ってきた代物と言えるでしょう。
近代科学への妄信は、社会を救うどころか、破滅へと向かわせるのです。
<参考>
『狂気の科学技術』
『観念の絶対性が近代西洋科学の根本問題』
◆◆◆度重なる反対運動が、原発推進を止められなかったのはなぜか?
官僚機構の特権維持に向かう自閉構造の問題は、特にここ数年、注目される社会問題の一つとして大きく取り上げられる機会が増えてきたように思います。
しかし、一方で大衆側の自由なエネルギー消費についてはあまり問題にされることはありません。個々の生活レベルにおける省エネについての関心はあっても、過剰な消費活動が国家規模のエネルギー供給や環境問題にどう影響しているのか?についてはほとんど考えていないのが普通です。
これらは、『消費する自由は絶対』という近代思想に導かれた価値観を、無意識に受け入れているために起こる現象です。この価値観の下では、その結果引き起こされたエネルギー供給の逼迫という社会的問題に対して、消費者は『どうする?』という発想すら沸いてきません。

自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。
社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。
社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。
『生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想』

近代思想に導かれた消費する自由は絶対という大衆の価値観は、エネルギーの安定供給という役割を自ら担うことなく、官僚に押し付けるだけの構造にあります。そしてこの構造を代弁していたのが、同じ近代思想に導かれた反対運動家たちです。

そこでは、エネルギー供給逼迫の原因である、自分達の消費の問題には触れず、ただ要求しているだけの構造になります。つまり、反対する側も原因の一部を負っているにも関わらず、そこを含めた新しい社会のありかたを提起することをせず、ただ反対しているだけの状態になるのです。
このように、近代思想に立脚した要求するだけの反対運動は、その対立を止揚し新たな社会のあり方を提示できる理論を持ち合わせていませんでした。よって問題が解決に向かうことはなく、それどころか無用な対立を煽り、共認充足の場を奪う結果となってしまったのです。
◇◇◇
近代思想が仕掛けた壮大な罠、その象徴的な事例が、原子力発電事業を巡る一連の問題ではないでしょうか。今後前に進むためには、『近代思想は誤りであった』と、他ならぬ私たち自身が事実として認め、狂気の思想に引導を渡す必要があるのだと思います。
では、その実現基盤はどこにあるのか?
次代の社会を導く理論、その中身と実現するための課題は何か?

…それは、次回のお楽しみ。
『トリウム原発に騙されてはいけない!!』シリーズ、いよいよラスト「今や、原発も金貸し支配も、私たちの世界と無縁の世界ではないことに気付く時。皆で答えを作るしかない!」をお送りします

List    投稿者 taka | 2011-05-28 | Posted in E03.トリウム原子力発電No Comments » 

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