2011-01-17

『次代を担う、エネルギー・水資源』水生圏の可能性、水力エネルギーの活用10. 大型水力発電所の歴史と揚水型への転換の背後~

みなさん、こんにちは。
今回はシリーズ第10回目。
前回は、小水力発電の可能性をどのようにして実現していくかを追及しました。
今回は、改めて水力発電全体の可能性を押さえるためにも、大型水力発電所の歴史(何のために、どのようにつくられてきたか)に注目していきたいとおもいます。
そして、そのなかから、なぜ、活用率が非常に少ない揚水ダムが現在も建設され続けたのか?を明らかにします。

 
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  【黒部ダム】
  写真はこちらよりお借りしました   
  
 
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①大型ダム式発電所への前史~ダム建設
・明治編  ~上水確保から始まった近代のダム建設~
 
 みなさんが思い描く日本初のコンクリートダムの建設は、建設後100年を超える布引五本松ダム(生田川・神戸市)の歴史から本格的にはじまります。
 
 近代におけるダム建設の歴史は、1854年の日米和親条約締結・1858年の日米修好通商条約締結による開国に始まり、それにより横浜・函館・長崎・新潟・神戸が開港し、急速に各地域で人口が増加していきました。このため、飲料用の上水の供給が重要な課題となっていました。当時は、河川から直接上水をまかなっていたため、コレラ・赤痢等の病気が蔓延していたのです。
 
 これを防ぐために近代の上水道事業が横浜市をスタートに普及していきました。この中で全国第3番目の水道事業を開始した長崎市で1891年(明治14年)に本河内高部ダムが完成しました。それまで灌漑用でしか建設されなかったダムでしたが、この時日本初の上水道専用のダムが完成したのです。
 
 そして1900年(明治23年)には神戸市が生田川に布引五本松ダムを完成させませた。これが、同じく水道用であるダムとして、日本で初めて建設されたコンクリート製のダムなのです。
 
 
 
・大正編  ~企業間の電力確保に伴い高まったダム技術~
 
 布引五本松ダムの建設に引き続き、大正時代に入ると本格的なコンクリート製のダム時代に入ります。
この時代、殖産興業政策(明治政府が西洋諸国に対抗し、産業・資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策のこと。)を進める中で、日清・日露戦争などに伴い重化学工業が発達していきました。
それに伴い、大量の電力が必要となり各河川で大規模な水力発電が開発されるようになります。明治以降、最新の欧米技術が日本に持ち込まれるようになり、ダム開発についても例外ではありませんでした。
 1882年(明治15年)には、大鳥圭介により『堰堤築法新按』を翻訳・刊行されました。これは、日本初のダム技術専門書であり、本格的な日本のダム開発における礎となったのです。(この発刊を機に、次代の波を受け日本にダム建設ブームがやってきたのです。)
 【建設事例】
 ・1910年(明治43年)
 王子製紙株式会社が苫小牧の製紙工場に電力を供給するため
 →千歳第一ダムを皮切りに千歳川に4基のダム・小堰堤を建設
 大同電力の「電力王」福澤桃介・東邦電力の「電力の鬼」松永安左エ門達により、木曽川・天竜川・信濃川といった大水系に水力発電開発が進められる。
 ・1924年(大正13年)
 →大井ダム(木曽川)が完成(日本初の50メートル級ダム)
 ・1930年(昭和5年)
 →小牧ダム(庄川水)が完成(日本初の大規模な機械化工程で建設)
などが建設され、これらはいずれも発電専用のダムでした。
 
 
 
・戦後編(1)  日本を襲った大型台風に対処する多目的ダムを開発~
 太平洋戦争で敗れた日本に、追い討ちをかけるよう毎年のように日本列島を大規模な台風 ・水害 が襲いました。
 ・枕崎台風   :広島一体が壊滅状態
 ・カスリーン台風:利根川を氾濫させて関東平野を水没
 ・アイオン台風 :北上川流域を水没
 ・ジェーン台風 :西日本の河川が軒並み氾濫
 ・紀州大水害  :日高川・日置川・有田川・古座川が大氾濫
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  【枕崎台風が襲った後の広島】 
  写真はこちらよりお借りしました
   
 
 これらの自然外圧を防ぐための国策として「河川総合開発」という概念が現れました。
 一つの水系を系統的に開発し、治水・利水(上水道・灌漑・発電)を総合的に計画するというものでした。(アメリカのTVAを参考に、全国7河川1湖沼を対象に総合的な河川開発が計画される。)
 この概念が登場したことで初めて、従来は「灌漑のため」、「上水道」または「水力発電」といった独立した目的しか持たなかったダムに複数の機能を持たせ、新たに河川開発の要をダムに集約するとする発想が生まれたのです。
 ・1933年(昭和8年))
  →沖浦ダム(浅瀬石川)が着工
 ・1940年(昭和15年)
 →向道ダム(錦川)が完成
 ・1947年(昭和22年)
 →相模ダム(相模川)が完成
などが建設され、戦後一時中止となっていたダム事業が続々と建設を再開していったのです。
 
 
 
②戦後復興を支えた大規模ダムのダム開発
 
・戦後編(2)  ~多目的ダムから大規模ダムの開発へ~
 1955年(昭和30年)、建設省中部地方建設局は木曽川本川中流部に丸山ダムを完成させました。戦前から計画されていましたが戦争による中断を挟み完成したダムであり、堤高は98.0mにもなります。
この丸山ダムこそが100メートル級大規模ダム建設時代の号砲となったのです。
 
 同年九州電力は宮崎県に堤高110メートルの上椎葉ダム(耳川)を建設し、大規模アーチ式コンクリートダム建設の先駆けともなりました。
 翌1956年には「暴れ天竜」とあだ名された天竜川を堰き止め佐久間ダム(堤高155.5メートル・電源開発株式会社)が完成させました。このダムは3年という超短期間で完成し、日本土木史の中でも最も注目される建設でもありました。
 
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  【佐久間ダム】
  写真はこちらよりお借りしました
 1957年(昭和32年)には多摩川に当時「世界最大の上水道専用ダム」と称された小河内ダム(堤高149.0メートル・東京都水道局)が戦争による中断を挟みながらも完成。
 
 その翌年1959年(昭和34年)には北陸電力が「常願寺川有峰発電計画」の中心事業・有峰ダム(堤高140.0メートル)が世界銀行などの融資を受けて完成。
 そして1960年(昭和35年)には、電源開発株式会社が重力式コンクリートダムとしては日本最大を誇る奥只見ダム(堤高157.0メートル)が完成させ、コンクリートダムは、世界の中でも技術の粋を極めていったのです。
 
 これら大型ダム建設時代の真打が、日本で最も有名な1963年(昭和38年)に完成した黒部ダム(黒部川、高さ186.0メートル)なのです。
 
 
 
・現代編 ~原発の身勝手により揚水ダム開発へ転換~
 
 1970年(昭和45年)を過ぎて、長年にわたって展開されてきた「河川総合開発事業」が完成されてきました。
 1975年(昭和50年)「吉野川総合開発事業」の心臓に当たる早明浦ダムが完成し吉野川の総合開発は大きな山を越え、1976年(昭和51年)には船明ダムが完成し佐久間ダム等日本の代表的水力発電事業であった「天竜川電源開発事業」が完了しました。
 さらに1981年(昭和56年)には御所ダムが竣工し「河川総合開発」の象徴でもあった「北上川五大ダム事業」は1947年(昭和22年)の石淵ダム(胆沢川)着工以来34年の月日を経て完成するに至りました。
 これを機に大規模なダム開発の火は急速に縮小していったのです。
  
 それと入れ替わるように、日本初の商用原子力発電が1966年(昭和41年)東海発電所で火が灯り始めました。そして、1970年(昭和45年)には、大阪で開催された日本万国博覧会に、同日運転開始した日本原子力発電株式会社敦賀発電所から未来のエネルギーとして電気が供給され初めたのです。
 
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  写真はこちらよりお借りしました
 原子力発電の傾倒に伴い、再度注目されてきたものがダム発電の中でも、「揚水発電」という分野でした。
 一般的に電気は1日の内の昼間に多く消費され、夜間は需要が小さくなる傾向があります。電力を発電する方式は幾つかありますが、容易に運転を停止できるものと、定常運転を前提としたものとが大きく2通りあります。
 揚水発電では、定常運転に適した原子力発電方式のような、夜間に電力需要が小さくなっても発電を停止できない施設からの余剰電力を受けて、水を高い位置に汲み上げることで、そのエネルギーを蓄える(位置エネルギーに変換する)ものなのです。
 
  
  写真はこちらよりお借りしました

 
 写真はこちらよりお借りしました
 ところで、そもそもなんで、原発はそのような構造になっているのでしょうか?
 原子力発電では炉心の構造物に日常的に温度変化を与える運転を行えば、それがストレス(急激な膨張⇔収縮を繰返し)となって炉の劣化を加速することになり、施設の寿命を短くすると考えられています。日本では、原発をつくる時から、原子力発電での出力変化はなるべく避ける方式が採用され、揚水発電所と原発の建設はセットで考えられるようになっていったのです。
100の揚水電力で、70程度の発電が出来、30%程の損失がありますが、効率・電力量・設備寿命の点で揚水発電が最大の電力貯蔵の方法(一時蓄電池)であり、原子力発電所の安定供給を支える基盤には不可欠な設備とされています。
※火力発電にとっても揚水発電所は変動を抑え、効率向上になる設備でもあります。
 
 ダム建設の視点は大きく、『大規模ダム建設による河川開発の積極的推進』から『未来のエネルギーである原子力発電を助ける、クリーンかつ再生可能な国産エネルギー』として考えさせられるようになっていったのです。
 しかし、1978年(昭和53年)の福岡市大渇水に見られるように、既存の多目的ダムでは、カバーできない自然災害・異常気象が起こり始め、新たなる治水・利水のあり方・ダムそのものつくられ方が、同時に問われ始めた時期でもあったのです。
 
 
 
③これからのダム開発、水力発電所の考え方について
 上記の日本のダムを作ってきた歴史構造を押さえた上で、改めてこれからの大規模発電所のダム開発の可能性について考えてみたいとおもいます。
 当初、日本では近代化を迎え、人口の過密化を受けた上で大規模な飲料水確保のためのダムつくりからスタートしました。やがて、戦争を迎えるにあたり富国強兵の方針のもと、民間により大規模発電ダムがつくられるようになりました。
 また戦後大きな自然災害を経験したことにより、防災の観点からも複合的な用途を組み合わせた多目的ダムが国策として1970年までに建設されてきました。
 そして、現代では夜間も発電を続ける原子力発電所等のために「揚水発電ダム」が現在までに国内44箇所で建設されてきました。1970年を境に、日本の水系65%にダムは建設され尽くしており、本来ならダムの適地は殆ど無くなってきているにも関わらず、これらの揚水発電ダムはつくられてきました。それは原発の蓄電池という目的に照準を合わせてつくられた構造ゆえに、貯水量が少なくて済み、従来のダムに不適切な急峻な山間部にも作ることができたからなのです。
  
 しかし、これらの揚水ダムの年間稼働率は僅か5%に留まっており、一度水を完全に落としてしまうと発電できなくなってしまう仕組みとなっています。なにやら、無駄の多そうなシステムの中で、何故「揚水発電ダム」は未だつくられ続けてきたのでしょうか。
そこには、『総括原価方式』と呼ばれるシステムが存在するからなのです。
 
 このシステムは電気料金を決めるもので、原価(建物の建設コスト)にプラスして、そのコストの4.4%を利潤として加え料金にすることができる制度です。
その為、原発をつくる電力会社は5%しか稼動しない揚水ダムをつくることに、なんのブレーキもかからないのです。
(大きくは、原子力発電所と揚水発電ダムをセットで建設に要する原価は約1兆円となるため、電力会社は1兆円の4.4%つまり440億円の利潤をそのまま手にできるのです。)

 
 その結果、電力会社は過大な電力需要の見通しを立てダムを造っていく側面がありました。本当にみんなのために必要か否かを軸に考え抜く姿勢が不十分だったため、ダム建設が一部の人間の利権争いと化してしまったのではないでしょうか。
 
 また、別の側面で考えると、近年建設されてきたダムは渇水対策や発電、それに洪水対策を加えた「多目的ダム」と呼ばれるタイプが多いのですが、実際これは自然のシステムとして矛盾しています。
渇水や発電のためならば、ダムは水を貯めなければならないし、洪水に備えるためにはダムを空にしておかなければならなりません。二つのの目的を同時に満たすのことは現実的に不可能でしょう。また、洪水を防ぐためには流域面積全てをカバーしなければなりませんが、ダムがカバーできるのはせいぜいその水系の約1%(揚水発電問題全国ネット調査より)に過ぎません。
 川(自然)をダム(人間の力)では、決して支配できないのです。
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  写真はこちらよりお借りしました
 
 今後は、今までのダムのように水(自然)と戦うのではなく、原点に返って、水や地形を生かし・自然の摂理に沿った知恵が求められるのではないでしょうか。
 まさにその可能性こそが、これからに続く小水力の流れだとおもいます 😮

List    投稿者 egisi | 2011-01-17 | Posted in E07.水力エネルギーの活用1 Comment » 

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コメント1件

 山澤 | 2011.12.22 14:33

>気候図を手掛かりに、農的な潜在力を推し量るには、土壌の評価というファクターが不可欠なのだ、というのが気付きでした。こうしてみると、亜熱帯から亜寒帯に及ぶバラエティに富んだ気候帯を有し、水と緑に恵まれた日本国土は農の再生の可能性を秘めているように思います。
なるほど。大事な視点ですね。

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