2010-11-22

『次代を担う、エネルギー・水資源』水生圏の可能性、水力エネルギーの活用5.水主火従から火主水従へ(電力政策と発電方式の変遷) 明治期から高度経済成長期<後編>・・・何故火力発電が主になったのか

『主水火従から火主水従へ、明治期から高度経済成長期 <前編>』では、明治期の水力、火力発電の並存状態から、大型水力発電所(大量発電、高電圧送電)が優位に立ち、「水主火従」の体制が確立したことをみてきました。 
 
「水主火従」とは、水力発電を主とし、火力発電(燃料は石炭)を補助として位置づける電力供給の仕組みです。
豊富な降水量と急峻な河川という日本の自然条件を活用して、山間地に大型水力発電所をつくり、その電力を都市部に送電して活用する。理にかなっていますね。
 
今回の<後編>では、自然の理にかなった「水主火従」の体制が、何故、「火主水従」に転換したのかをみていきます。 
 
「火主水従」とは、火力発電(燃料は石炭とC重油)を主とし、水力発電を補助として位置づける電力供給の仕組みです。 
 
「火主水従」に転換するのは、昭和37年(1962年)です。火力発電所の主役は、C重油を燃料とする火力発電所です。(C重油という言葉を覚えておいて下さい。) 
 
下図は、サウジアラビアの油田・ガス田です。サウジアラビアの油田は、第二次世界大戦の終わった後に発見されます。世界最大のガワール油田(図中央やや下にあるGHAWAR)の発見は1948年、生産開始は1951年です。 
 
 GHAWAR.bmp 
 
 (図は、サウジアラビヤ・アラムコのハンドブックから加工) 
 
日本から遠いサウジアラビヤでの相次ぐ巨大油田発見が、「火主水従」につながっていきます。 
 
今回の物語は、明治43年(1910年)から始まります。 
 
1.国家意思に基づく発電水力調査(国産電力の適地調査)
2.戦後復興を支えた水力発電所建設
3.国際石油メジャーの隠れた意図・コンビナート開発と火力発電所 
 
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1.国家意思に基づく発電水力調査(国産電力の適地調査) 
 
明治政府は、殖産興業・富国強兵を支える電力供給のために、水力発電の潜在力を調査し、その調査結果を広く公開していきます。国家による調査として、第1次発電水力調査を実施します。その後、第2次、第3次調査が行われました。 
 
この調査について、御年87歳、水力発電業界の大長老である鈴木篁(たかむら)氏のHPから紹介します。

明治20~40年代に水力の開発が行われたが、完成して見ると水量が少ないとか、落差が得られないとかトラブルが多く、後藤新平がドイツに調査団を派遣して調べたところ、ドイツでは國が全国の発電水力調査をしていることを聴き、直ちに逓信省に「臨時発電水力調査局」を設置し、4カ年間の第1次水力調査を始めた。この時外部からおおくの人材を集めたという。調査の資料は希望する者に無償で提供された。 
 
 G-31.昔ばなし「水力情報」其の-1

(1)第1次水力調査(明治43年~大正2年) 
 
この調査結果が詳細な図表類となり、発電水力の原簿として逓信省に保管され、一般の利用に供され、其の要綱は「発電水力調査書」全3巻に収録して公表されたので、斯界に及ぼした影響は極めて大きかった。
この時の調査は比較的簡単に開発しうる200馬力以上の水力地点を選定。その結果1536地点、3,275,000馬力の調査が得られた。 
 
 F-25.(08.05.25)電力技術行政史「半世紀の軌跡」-抜粋/2.水力調査

(2)第2次水力調査(大正7年~大正11年) 
 
水力開発規模が産業電力として利用されるようになり、積極化されるに及び発電水力調査としては平水量程度まで精密に調査された。 
 
調査地点は1190地点。これら選定された地点も産業界と電力技術の進歩により続々と開発された。特に関東、関西、中部の主要な電力需要地域における需要電力量に対する供給として遠隔地の水力電源地帯である木曽川、天竜川、黒部川、庄川から154,000Vで送電されるに及び水力調査の対応も変化していった。 
 
このときの調査は河川の一貫的な合理的利用の面に力点を置いた進歩的な調査方法であった。しかし、水路式が主で、貯水池式など大規模なものは考えていなかつた。 
 
第2次の結果は、「水力調査書」全7巻として公表された。これが我が国の水力開発の基礎資料となり、同時に治水や他種利水にとって重要な資料となつた。これを広く利用してもらうため、省令をもって図表類の副本公布規則を定めて一般の希望に応じたのである。 
 
<同上>

(3)第3次水力調査(昭和12年~18年) 
 
この時代は電力を原料として電解、電気精錬等の電気化学工業、アルミニウム等の軽金属工業や時局下で必要な硫安、石灰窒素工業の如き電気を原料とする産業需要の増大する一方、石油、石炭資源の豊富ならざる我が国としては、電力需要増加に対する水力電源の開発の期待が大きくなった。 
 
この時局に応ずるように第3次水力調査が実施された。この要請に応えるため1次、2次では対象とされなかった河川の最上流部、下流部はもちろんのこと河水の利用を高度化するため水火併用、河川総合開発という観点から貯水池式、湖沼の利用を図ると共に最大使用水量は著しく増大した。 
 
昭和12年、河水統制調査費の名のものに調査費がついたので、内務省、農林省と連絡を保ちつつ、第3次水力調査が開始され、最初の2カ年は河水統制の名のもとに、昭和18年まで臨時発電水力調査の名で5カ年続いたのであった。 
 
これらの結果は報告書、付属図表として通産省に保管されているが、前回のように概要報告書は作成されずに、終戦を迎えた。 
 
これら水力調査に基づく水力行政に関して次のような話から、資源の合理的利用を果敢に指導した当時の水力行政官の面目躍如たる面が窺われた。 
 
①福沢や増田は「電気事業は国家事業であり、そのために土地収用等の特権を与えられ、民営は国営の代行である。」と考えておった。需要増加か幸いして電気事業は大いに発展した。
②電気事業改革論がおき、国家管理時代になったのだが、水力について言うと民営時代は水利権競合時代であり、放っておけば周波数や供給区域のように紊乱するところであったが、過去の水力行政は異彩を放っていた。
③したがつて、水力行政だけは日発(株)になっても、改められることもなく、過去と同じで、少しもかまわないのである。この裏には一貫した愛国水力技術行政官がおつた。これは逓信省の高橋三郎氏であつたと。 
 
<同上>

欧米列強に対抗して国家を維持するための産業力、その前提となる国産電力を確保するために、数次に渡る水力調査が実施された。その水力調査は、「愛国水力技術行政官」が指導していたのです。 
 
この国家による水力調査が裏づけとなり、水力発電所が着々と増加していきます。 
 
下の図は、1907年(明治40年)~1941年(昭和16年)の日本の発電所数です。
第1次調査が終わった1914年(大正3年)から、水力発電所の数が、火力発電所の数を引き離していきます。そして、第3次調査開始の1937年(昭和12年)では、水力発電所数1342カ所、火力発電所204カ所と、圧倒的に「水主火従」の体制になっています。 
 
 
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2.戦後復興を支えた水力発電所建設 
 
敗戦後の電力事情と戦後復興を支えた水力発電所建設をみていきます。 
 
GHQの賠償撤去を免れた火力発電所 
 
GHQ(占領軍司令部)は、戦後賠償として、火力発電所設備を持ち帰ろうとしますが、危うくその難を免れます。

占領軍は戦後まもなく、日本の非軍事化、民主化のためと言う理由で、日本の主要産業施設の賠償指定を行なつた。米国火力調査団が来日して、昭和21年8月13日、日本の最新鋭の優秀火力20基137万KWを指定した。このとき日発の総火力は42基、268万KWであった。 
 
これでは日本の火力の大半をうしなうことになり、戦後の産業復活に重大な影響を及ぼすと言う事で、官民挙げて解除を要請したが、「おまえたち又戦争をする気か」と何度も怒鳴り返えされたと言う。 
 
昭和23年3月「ストライク報告書」が発表された。其の報告書の骨子は、日本国民の最低生活として、戦前の昭和5年から9年の一人当たりの平均水準を維持するために必要な生産能力を伸ばす。この水準を越える生産能力を賠償として取り上げると言う方針をきめた。併し其の計算の根拠を見ると、兵隊とか海外からの引き揚げ人口がうんと増えており、一人当たりの生活水準は同じだとしても、これを計算に入れると、必要な生産能力は戦前の水準より高くなることが明かになり、GHQも賠償は事実上打ち切りとなった。 
 
このことは、賠償指定の中止ばかりでなく、其れまで日本の発電能力の増強を一切禁止し、建設中の水力発電所も全部中止命令を出していたが、それらをも緩和する為の大きな基礎資料になつた。 
 
 F-25.(08.05.25)電力技術行政史「半世紀の軌跡」-抜粋/[Ⅱ]終戦から電気事業再編成前まで

国策会社、電源開発㈱を設立しての大型ダム開発・水力発電所建設 
 
戦後復興が進むと、電力供給が逼迫し、使用制限をするまでになります。そこで、水力発電所の建設を勢力的に進めていきます。
水力発電所の適地が山奥になり、そこに大規模なダムをつくる必要があります。当時の電力会社はその体力がありませんので、国が特別の会社・電源開発株式会社を設立して、大型ダム・大規模水力発電所を建設していきます。

終戦当時占領軍は、電源の開発を禁止し、工事中の水力も中止させられた。 
 
そのうちに電力不足が深刻化し、経済安定本部(安本)で昭和28年を目標とする「経済復興5カ年計画」を作成し、この計画を達成するための電源開発計画は、水力発電に基本を置き、火力を補うと言う水主火従方式とし、5カ年間で水力126万KW、火力43万KWの拡充を計画した。政府は直ちに昭和23年11月初年度着工予定の水力37カ所につき、GHQに承認を求めた。 
 
当時のGHQは「また戦争をやるつもりか」と慎重な態度を崩さなかったが、昭和24年6月3日付けで、33地点118万KWの許可がで、更に9月19日には火力7地点約21万KWと一部水力の追加が認証された。電力関係者は一斉に歓声を上げたが、多額の資金調達難に直面する。 
 
電力再編成後も電力需給はいっこうに緩和されず、自由党の有志議員の発議によって、議員立法の電源開発促進法が、昭和27年3月25日に国会に提案され、参議院で難航したが7月30日に成立し、31日に公布された。 
 
その趣旨は、第1に只見川、天竜川、庄川など一般電力会社にとって開発困難な大規模水力の開発を行う。第2に、国土総合開発に必要な大規模多目的ダムをやって、公平な費用負担により、低廉な電力を豊富に確保する。 
 
この会社は昭和27年9月16日に発足 
 
  F-25.(08.05.25)電力技術行政史「半世紀の軌跡」-抜粋/[Ⅳ]電源開発促進法

下の図は、戦後の水力と火力の発電能力(KW)の推移をみたものです。 
 
1950年からの推移では、水力発電が確実に拡大しているのが分ります。戦後復興の基盤は水力発電によって担われたのです。 
 
mizu503.bmp 
 
r0402_okutadami%5B1%5D.jpg 015%5B1%5D.jpg 
電源開発が建設した只見川の奥只見ダム(左)と天竜川の佐久間ダム(右) 
 
写真出典:奥只見ダム/阿賀野川流域パンフレット(阿賀野川河川事務所)、佐久間ダム/あらたまの湯と佐久間ダム・ツーリング(チーコさん) 
 
 
3.国際石油メジャーの隠れた意図・コンビナート開発と火力発電所 
 
上の図で確認できますが、発電能力で火力が水力を追い越すのは、1963年です。上の図は自家発電を除いてあります。自家発電を加えると、前年の1962年(昭和37年)に火力発電が水力発電を追い越します。 
 
火力発電所の発電能力の伸びは、1959年(昭和34年)から顕著になります。これは何故なのでしょう? 
 
戦後復興が一段落すると、日本は重化学工業へと邁進します。その象徴がコンビナートです。 
 
コンビナートには、中東からの原油が到着します。その原油を精製して、ガソリン、ナフサ、軽油等の石油製品を生産します。ナフサは化学繊維やプラスチックの原料です。 
 
精製では、重い成分残ります。そのうちA重油は船舶燃料に使いますが、C重油は重く、ドロドロしていて余り使い道がなく、単に燃やすしかありません。 
 
この石油精製の余りものであるC重油を燃料とするのが、コンビナートに建設された火力発電所です。 
 
 mizu504.bmp 
 
例えば、1959年(昭和34年)に稼動する四日市の塩浜地区コンビナートは、昭和四日市石油が精製を行い、中部電力が三重火力発電所を建設します。第2コンビナートでは、大協石油と中部電力(四日市火力発電所)という組合せです。 
 
原油から精製される成分を余りなく使用するということは、理にかなっています。しかし、その前提は、大量な原油が調達できることです。そして、この原油は、海外からの輸入です。 
 
戦後、中東諸国で相次いで巨大油田が発見されます。この油田の権利を握っていたのが、国際石油資本・国際石油メジャーです。中心は、ロックフェラー財閥のチェースマンハッタン銀行とエッソ・スタンダード石油(現在のエクソン)です。 
 
そして、国際石油メジャーは、巨大油田から生産する原油の大消費地が必要になりました。
そこで目に付けたのが、人口規模が大きく、民力と技術力の高い日本です。 
 
日本に、「今後、重化学工業を発展させる」という方針をとらせ、中東原油の大消費地として育成していきます。 
 
この「重化学工業・コンビナート」という仕掛けの中に、火力発電所が組み込まれていたのです。 
 
日本の発電が、「水主火従」から「火主水従」に転換したのは、国際石油メジャー(背後の国際的な金貸し)の意図です。

 中東原油、その権利を握る国際石油メジャー・ロックフェラー等の国際的な金貸し
    
 日本を原油の大消費地に育成する
    
 日本の重化学工業を推進する
    
 全国にコンビナートをつくる
    
 コンビナートにC重油を燃料とする大規模火力発電所ができる
    
 火主水従へと転換

戦後復興は、愛国技術行政官と国策会社・電源開発㈱が中心となり、水力発電を拡大させることで果たしました。 
 
戦後復興が終わると、日本は高度経済成長路線、重化学工業路線に転換します。この高度経済成長、重化学工業路線は、中東原油に依存するもので、根元はしっかりと国際石油メジャー・国際的な金貸しの支配下に置かれてしまいました。 
 
「火主水従」への転換は、国産エネルギー路線から、海外原油依存=国際石油メジャー・国際的な金貸し依存への転換なのです。 
 
 
最後に、水力発電業界の大長老である鈴木篁(たかむら)氏のHPトップ頁と図で活用したデータ元をリンクしておきます。 
 
2100年の世界の一次エネルギーを考える 
 
日本電力業史データベース 
 

List    投稿者 leonrosa | 2010-11-22 | Posted in E07.水力エネルギーの活用4 Comments » 

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コメント4件

 hosop | 2011.09.24 15:54

電磁波は波長が長く、細胞の外側から干渉して身体に影響するらしいです。
真偽は不明ですが一説では陽子に作用して、だんだん人間の意志ややる気が衰弱するらしいです。長く何年もパソコンにくぎ付けの毎日を続けていると、だんだん意志ややる気が弱まってくるらしいです。
一方放射能はそれとは反対に波長が短く、細胞の核等の中に直接的に作用し身体を破壊していくらしいです。
電磁波と放射能の波長の長短、作用の仕方はある程度科学的に確認されているようです。

 sinsin | 2011.09.24 16:41

hosop様
貴重な情報ありがとうございます
低周波域と高周波域は作用原理からして異なるということのようですね。

 Michiko Wakeling | 2012.03.09 14:32

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英国の小学校での実験で 電子レンジとやかんで沸騰させたそれぞれの水で植物を育てたところ 電子レンジの水で育てられたものは9日間で枯れてしまったそうです。従って電子レンジを使った食品は健康を害する恐れがあるのではないかのとことです。 本当に危険なのでしょうか。

 天変地異 | 2013.04.16 3:22

DNAはマイクロ波を極めて吸収しやすいため、人体には非常に危険だ、と言う記事を何処かで読んだ事があります。
今、i-phon や tablet への無線通信には、マイクロ波ではありませんが、周波数がこれに近い電磁波が使われているそうです。こうしたwi-fi 等で使用される電磁波の危険性について何か情報はないでしょうか?
私も大分調べてみたのですがありませんでした(情報統制でもされているのだろうか)?

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