2013-09-18

森林問題の深層◆3)江戸時代の林政~「治山治水」を中心とした実学に基づく事実追求~

前回に続き、今回は江戸時代の森林事情について見ていく。

江戸時代の特徴は、なんといっても「鎖国」と「平安」といえる。
戦争のない約300年間は、歴史的にみても稀有な存在であった。
それは、どのような時代であったのだろう。

◆◆江戸時代の外圧◆◆

古代から連綿と続いてきた木材資源の収奪は、日本全土に及んだ。
特に1570年頃からの100年間は建設ラッシュで全国的に木材の窮乏を招き、材価は急騰した。
タットマンは、これを「近世の略奪」と呼んだ。【図版】江戸時代は、森林資源の劣化により常に大量の土砂が生産され続け、河床が上昇し続け、海岸から飛砂が飛び続け、それらによって地形が変貌をし続ける環境であった。

そして、17世紀後半には、全国で土砂災害や水害、旱魃が多発して人々は苦しんでいた。
それは、世界規模の影響をもたらした小氷期の影響によるものでもあった。



〔天明の大飢饉〕
全国で天候不順となり、東北地方はやませ による冷害、関八州では河川の氾濫などが稲作に影響を及ぼして収穫は1/3以下となったと云われる。

〔天保の大飢饉〕
洪水や冷害が主原因で、東北地方の被害が大きかった。仙台藩は、新田開発が盛んで米作に偏った政策を取ったことが災いを加速したといわれる。犠牲者を一人も出さなかった田原藩や天明の大飢饉の教訓を生かした米沢藩もあった。原因が天候異変でも、対応する政策如何で人災がそれを加速することもあれば、天候異変の影響を食い止めることができる、ということだ。

最近は、地球温暖化問題はさすがになりを潜めて、地球寒冷化を懸念する声が高まりつつある。
その意味では、江戸時代の気候変動に着目して学んでおくことの有効性を感ずる。
キーワードは、「備籾倉(備蓄)」、「救荒食物(飢餓や災害に備えて備蓄、利用される代用食物)栽培」、「かてもの(食料となる草木果実などの手引書)」辺りであろう。

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◆バイオ資源の疲弊枯渇を招いた原因

【1】建築資材としての森林 :安土桃山時代は築城ラッシュ

天正年間(1573~1591年)には、亀山、姫路、広島、岡山、松本城
文禄年間(1592~1596年)には、金沢、若松城、
慶長年間(1596~1615年)には、仙台、熊本、萩、福山、江戸城ができた。
古墳時代にも匹敵する大工事の連続であった。


江戸城などは完成までに20数年間も要し、造営用材は70~80万石(約20万立方メートル)というから半端じゃない。江戸の大火も木材需要を喚起した。300年の間に大火80回を数え、そのたびに船持ちや木材商人は巨利を得た。

【2】燃料としての森林 :人口増で膨らむ燃料需要

江戸時代は、薪炭などの燃料として800万tのバイオ資源を必要とした(http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2012/12/001239.html)というから半端じゃない。
お伊勢参りが普及した頃の伊勢周辺の山は禿山と化した、という話もあるくらい。
炊飯、暖房、灯りなどの生活に必要な資源はもとより、製塩、製鉄、製陶・・・などのエネルギー源もすべてバイオマスに負うとなれば、人口増は即燃料需要を引き上げることとなった。

【3】肥料としての森林 :草肥としての刈敷、飼葉

田畑の作物は、土地の養分を吸収して成長し、その収穫物を持ち出せば耕作地の知力は減退する。耕作地の生産性を維持するために広葉樹の若枝や草が刈り取られて田畑に敷き込まれたものが「刈敷」と呼ばれた。それは、弥生時代から戦後まで利用されてきた肥料であった。

江戸時代後期に田畑に施用される刈敷は、反当たり平均20駄(=馬の背中に1回で運べる量で約100kg)で、その採集のために必要な面積は、田畑面積の約10倍だった。(古島、1975)
これも人口増がモロに森林利用圧力として作動することとなる。

【4】直接的なダメージを受けた森林 :新田開発による大規模国土開発

幕藩体制とよばれる近世封建制度は、大名による土地支配と強固な身分制度によって社会を秩序だてるもので、米の生産量を基準として耕地に石高を割り当て、米を年貢の形で徴収することを経済的・財政的基盤とした。(「大地への刻印」)

戦国時代のように武力が制覇力となりえない平安の時代においては、経済力が制覇力となるので、各藩はこぞって「新田開発」に心血を注ぐこととなる。その開発は、水理の困難であった洪積台地や扇状地の中央部まで行われることとなり、低湿地帯や湖沼なども干拓の対象とした。
それらは、天候異変の影響をモロに受ける領域でもある。

耕地規模は、豊臣秀吉時代の約150万haが、100年後の元禄の頃には約300万haと急激に増大したというので、大規模開発が森林利用圧力を増大させることとなった。
そして、自然林は食いつぶされた。

◆江戸時代の山地荒廃対策

台地は旱魃の影響を受けやすく、低湿地帯は洪水の影響を受けやすい。
江戸中期以降は、全国の低湿地のほとんどで洪水の氾濫が常態化する。

〔幕府や各藩が取組んだ災害対策の基本〕

・治水事業:堤防建設、浚渫、河川の付替え(舟運確保と灌漑重視)
・森林保全:禁伐林などを指定する保護林政策、伐採禁止、土砂留工事、植栽
      (保護林政策は、有力財政基盤である樹木資源の保護が目的)

1684年土砂留奉行、1687年土砂留方が設置され、各藩も砂除林や水野目林などを指定し、切畑や炭焼きの禁止を行っていく。
江戸時代の森林は、藩有林、村持林、社寺・豪族私有林に大別され、藩有林は原則樹種を指定して伐採を禁止するか許可制の「留木」とされた。

留木に対する各藩の主な名称は、土砂山林(土砂流出防止)、飛砂防止林(飛砂を弱める)、風除林(強風や潮風を弱める)、水野目林(水源涵養、河川流量安定化)、雪持林(雪崩防止)、魚付林(魚を呼び寄せる)、巣山(鷹狩用禁伐林)などで、近代における「保安林」の概念がすでに見られる。
(1)治水事業:舟運交通確保・灌漑用水建設
        (浚渫、河川の付け替え、新田を守るための堤防建設)
(2)森林保全:保護林政策(伐採林の指定)
         ↓
         山腹緑化工事
         ↑
       :土砂流出防止・森林回復政策(伐採禁止、山留工事、植栽)


《藩の行った樹木資源を守る政策》
・留山:山全体を立ち入り禁止や禁伐にする制度
    *砂防林、飛砂防止林、風除林、水野目林、巣山、雪持林、魚付林など
・留木:樹種を指定して禁伐や許可制にするもの
    *尾張藩の木曾の五木(檜、椹、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ)が有名。

《藩有林が支えた藩経済》
3大美林:木曾のヒノキ(尾張藩)、秋田のスギ(佐竹藩)、青森のヒバ(津軽藩)
などは、市場価値の高い材木を供給することで藩の経済を支えた。
しかし闇雲に供給し続ければ資源は底をつく。佐竹藩の林政は、その利益を農民7対藩3とすることで農民の植樹意欲をかきたて、30年ごとに、決められた地域のみから順に木を切り出していく「番山繰制度」を採用することで自制を効かせることに、成功した。
盗伐をすれば首が飛ぶ「木一本、首一つ」とした木曽五木の尾張藩の藩有林でさえ、村民の刈敷の採取は可能であった。ましてや村有林にあっては、沖縄に今でも残る「結」の思想のようにヤマはみんなの資源と捉える規範が成立する。

江戸時代の藩制は、中央集権ながら、共同体の民の意識を育むシステムを微妙に取り込んだバランスをなしていたようにも思えてくる。

《土砂流出防止と森林回復を狙う積極政策》
1)山腹に芝を張る(芝張り)
2)粗朶や芝、藁を埋める(筋芝)
3)木杭などで柵を作る(杭柵)
4)階段を切って松苗を植える

などを単独あるいは組み合わせて行った。
⇒現在の山腹緑化工法に生かされている。

さて、これからが本題である。

◆◆現実を直視し、実学に基づく事実追求の江戸時代

日本は【植物国家】で展開されているように、近代まではバイオ資源が唯一のものであった。
宵越しの金を持たず、仕事をシェアして小さな生業をすることをよしとした庶民が、ヒマを持て余しても享楽な生活に堕さないというのが日本らしい。

江戸時代は、園芸植物文化が花開いた時代であった。品種改良の成果は著しかった。
対象と向き合い、様々な改良種を追うことで次の可能性を予測するという道筋が、品種園芸植物の命名に見て取れるという。同化観察力が優れ、メンデルの法則を既に体得していたのではないか、という記述も見られる。

《陽明学の洗礼を受けた「蔡温(さいおん)」》1682~1761年

『林政八書』の「杣山法式帳」にある「遠山見様之事」で、山奉行が山林を巡視する時に森林を遠望してひと目でその林相を見分ける方法を図示したもの。



林政の場面で上図のような概念図絵が活用されていた、というのはすごい。
カメムシ先生(後藤伸)が「明日なき森」の中で紹介している古老の炭焼き「太一のおじやん」も、『わしは山見て、木の葉っぱ見て、繁り具合でなんの木がどれだけあるかわかる』と言い切るのに通ずるものだ。

《経世済民の思想家の熊沢蕃山》1619~1691年

単なる知識を生業とする人間を嫌い、具体的な対策、民情を知り抜いた上での政治経済論を展開し実践した。「治山・治水」が一体であることを見抜いて政策をすすめた。
新田開発は、山を荒らすと批判的であった。

江戸幕府は蕃山を要注意人物としたため、晩年は不遇をかこった。
*森林保護と新田開発は論理矛盾で、幕府も後年には新田開発を自粛した。
 蕃山に先見の明があったといえる。



古代にあっては、強度の森林利用圧力が森林破壊となり、そのシッペ返しがあろうとも新天地を求めての遷都や架空観念としての新宗教に逃げ込めた。江戸時代は、連綿と続いた森林の利用圧力が究極の禿山を齎し、天候のバッファ機能としての森林がないことで、天候異変が生活や農業生産を直撃し、飢饉の多発という事態にも直面することとなった。

生存の危機の中で、生産技術革新だけでは事態を突破できず、社会のシステム変革に切り込む政策対応こそが切り札となることを体現する集団も出てきた。林政場面では、度重なる洪水という現実を直視し「治山・治水」が一体であることを見抜いて政策に反映していく動きが成果をだしている。

江戸時代は、実学に基づく事実追求の時代であった、と云えよう。

つづく
                     by びん

List    投稿者 staff | 2013-09-18 | Posted in E02.林業編No Comments » 

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