問題突破のヒントは根っこ(潜在思念)と答え(構造認識)
ダム日記2というブログをやっておられる まさのあつこさんの以下のコメントは
『今後の社会変革において、基本スタンスになるのではないか』
と思い、紹介させていただきます。
>「河川事業や政策における市民参加」と言っても、具体的にでは河川法をどう直せば、今、噴出している問題を解決できるのか、それがジワジワと皆さん(私も含め)の頭の中にイメージが一人でに出来ていくために書いているのが、このブログの役割でもあります。
それは単に河川法を直せば解決という問題ではないということはもう、お分かりいただけたかと思います。
どこでどんなふうに市民参加が出来ていないのか、誰が、どんな制度が、それを妨げているか、「河川整備基本方針」策定という局面で見てきたこと、市民団体の戦い、私自身のいきあたりばったりな試みを、少し時差がありますが、実況中継しております。
だから、答えは、現実の中に(笑)。そして皆さんの頭の中に、自然と「こうすべきではないか」と浮かんできたときが、河川法改正市民原案ができあがるときです。法律案は決して国会の中で作られるものではない。個人の頭の中に出来上がるものでもない。
現場にある。そうでなければ現実に則したものにならない。そういう信念がこの10年でできました(笑)。>http://dam-diary2.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_7b3e.html
これは、ルイネットの注目投稿にある、以下の概念に換言できます。
>●直撃圧力を超えたor社会構造に起因する危機・課題は、構造認識によってしか把めない。肉体危機(飢えetc)や精神破壊は、潜在思念(感応回路)でも把める。しかし、社会構造に起因する危機・課題(観念閉塞や経済破局や環境破壊etc)は、構造認識によってしか把めない。たとえ潜在思念が感取したとしても不鮮明であり、危機・課題を明確化し、解決する為には構造観念が不可欠である。
●社会は、体感共認(の空間的限界)を超えることのできる観念共認によってしか、統合できない。社会の問題(危機・課題)を把握⇒解決し、あるいは社会を変革⇒統合する為には、人類と社会の形成過程や存在構造(原理や法則)の解明⇒構造認識が不可欠である。
また、構造認識とは、論理の整合する事実認識に他ならない。従って、誰もが認めることのできる認識であり、この事実の共認によって、はじめて社会の共認統合が可能になる。(注:感応観念は地域や利害によって異なるので、社会を統合できない。)>http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=18572
いうまでもなく、根っこの潜在思念には、
『生物原理を貫く、自然の摂理に適っているのか』
ということが前提としてあります。
ダム行政のこれまでの反対運動の根っこは、この自然の摂理に反しているという違和感が厳然としてあるのはいうまでもありません。
一方の国のお役人は、その職務上、法律に規定される所与の課題(政策)を如何に処理するかだけが問われるので、一旦方針化され固定されれば、頑なにそれを守るための説明、説得に終始してしまいます。これについても、るいネットの注目投稿で、
>●説明(説得)するという、説明(説得)の為の思考に入った途端に、本当の探求の為の思考は消え失せ、代りに辻褄合わせの思弁や詭弁やごまかし⇒説得しようとする欺瞞の自我が、引きずり出されてくる。
●説明思考においては、何よりも答えやまとまりや整合性とその様な意味での分かり易さが強く意識されているが、その元は「答えに成っていなければならない」従って「まとまって(or整合して)いなければならない」し「当然、分かり易くなければならない」という一種の強迫観念と考えられる。>http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=7674
とあります。優秀(職務に忠実)なお役人・御用学者ほど、この欺瞞の自我(まわりが見えていない)に陥りやすいこととなります。
はじめから、立場、意識の対立する構造があるのでは妥協の産物にしかなりえません。やはり、政策レベルから、開かれた場において、同一の視点、意識(最良の答えを探求しようとするスタンス)を共有できるひとが集まり、答え(事実の積み上げ)を探求していくべきだと思います。
まさのあつこさんほか、こういう想いを流産させないためにも、場への結集が何より求められます。
by鈴木康夫
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