2011-01-04

社会期待の歴史(7)~環境問題を解決するには新しい認識(=近代思想、近代市場を越えた可能性)が必要~

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写真はコチラからお借りしました
年末年始シリーズ「社会期待の歴史シリーズ」も、とうとう大詰めです。
現在の「社会期待」が、「豊かさ期待」から、「社会の当事者として、みんなでこの社会をどうする?」という「本源期待」へと変わったことを前回の記事で押さえました。


社会期待の歴史(6)‘70年~現代 遊びの終焉により社会はパラダイム転換を迎えた

70年代の豊かさの実現以降、40年をかけて私たちの社会期待は本当の意味での社会期待=自分たちの社会どうする?という本源期待へと転換してきたのです。
’70年、豊かさの実現によって私権意識が衰弱
’90年、バブル崩壊によって豊かさ期待が消滅
’08年、世界バブル崩壊によって私権観念が瓦解
’10年、豊かさ期待に代わって本源期待が生起
このことは、つまり共同体の時代が始まったことを意味するのです。それは、これまで個々で存在し、個々に発散して、各々が社会不全を捨象してきたバラバラだった個人。その一人一人が、これからは社会の当事者としてみんなで「社会をどうする?」という共通の課題のもとに収束する事なんです。

現に、人々は今や「物を消費すること」やそれらを保証する「お金や身分を手に入れること」での市場価値(その結果得られる“代償充足”)よりも、「もったいない」に代表されるような、「過剰消費はもはや不要」という意識が芽生え、「誰かと一緒にみんな(≒社会)の役に立つことで得られる充足感(=共認充足=本源充足)」の方が優先される意識に変化しています。
しかし、この「本源期待」を受けて、実際に行われている政策や環境運動はというと、本当にこれからの社会の実現基盤にのった方針になっているのでしょうか?
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  投稿者 tutinori | 2011-01-04 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史No Comments » 

社会期待の歴史(6))‘70年~現代 遊びの終焉により社会はパラダイム転換を迎えた

あけましておめでとうございます
 
前回は環境問題の根幹である、近代市場=「豊かさを要求する大衆」と「私益を貪る特権階級の暴走」の登場。そして、その背景にある大衆側の【豊かさ期待】と【代償充足(解脱埋没)】共認の構造を押さえてきました。
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1970年代の豊かさの実現の後、私たちの【豊かさ期待】や【代償充足⇒芸能】はいったいどのように変化していったのでしょうか?今回は貧困が消滅した‘70~現代までの社会期待の行方を追っていきます。
 
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  投稿者 kasahara | 2011-01-03 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史2 Comments » 

社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待

あけましておめでとうございます。
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前回の記事では、古代から中世までを押さえました。文明前夜の頃から略奪、皆殺しを繰り返してきた西洋では、共同体=共認充足の場が失われたことによって個々人が根無し草の存在となり、誰もが自我・私権の主体となっていきました。しかし、支配体制が絶対であった中世までは、大衆の私権獲得の可能性は閉ざされており、出口のない救い欠乏が社会期待として登場し、その収束先に宗教(唯一絶対神)が存在していたといえます。
まとめると【略奪・戦争→共同体解体⇒自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神】という構造です。
これを、環境問題にひきつけてみると、この時代までは自我・私権の主体となった特権階級と大衆という構造が確立したものの、大衆の私権獲得の可能性が閉ざされているが故に、今日に見られるような【豊かさを要求する大衆】は存在しておらず、従って大量生産・大量消費といった環境問題も顕在化しませんでした。つまり、環境問題は顕在化していないが、その原因となる土台が創られた時代だったと言えるでしょう。
今回の記事では、『社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待』と題して、環境問題が顕在化してきた近代市場を扱います。

前回の記事にも触れられていますが、近代市場時代とは、自然圧力×同類闘争圧力×支配圧力=3重の圧力からの脱出口として、新しい私権獲得の場である市場が登場した時代です。市場の登場によって、大衆にまで私権獲得の可能性が開かれ、大衆の末端に至るまで自我・私権が顕在化し「救い欠乏」にかわって「豊かさ期待」が社会共認として登場し、市場拡大の原動力となってきました。
また、この市場拡大を牽引してきたのが、国際金融資本家(金貸し)の意向に従い、私益を貪る特権階級や知識階級です。そして、その私権獲得を正当化するために登場した観念が近代思想ということになります。古代宗教の神の位置に、個人をすげ替えたのが近代思想であり、これは現代でも市場拡大を正当化する思想として脈々と受け継がれています。
しかし、当時も現代も近代思想に収束していたのは知識階級のみであり、大衆全てが近代思想に収束していたわけではありませんでした。大衆は近代思想ではなく何に収束していたのでしょうか。これが、前回記事の予告にある「共認非充足はどのように処理されていたのか?」の答えにあたる部分です。

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  投稿者 nannoki | 2011-01-02 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史No Comments » 

社会期待の歴史(4)~西洋の自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神信仰~

 あけましておめでとうございます。
初詣はお済ですか?日本の神様達は環境問題をどう感じておられるのでしょうか?
本年も「自然の摂理」をよろしくお願いします。
 年末年始特別シリーズとして、環境問題の根本、「過剰消費」の原因となる価値観がどうやって生まれてきたかを見ていますが、今日は現代社会で広く使われる西欧発の観念の根っ子について考えます。
 西欧発の観念と言えば、まず、キリスト教ですね。おそらく、世界で最も影響力のある思想体系かと思います。
でも、日本人はあまり浸透しなかった。何か、違和感があるように思います。そんなに都合よく割り切っちゃって良いのか?と。
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  投稿者 hihi | 2011-01-01 | Posted in A.史的構造認識から紐解く環境, A04.社会期待の歴史1 Comment »