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社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待

あけましておめでとうございます。
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前回の記事では、古代から中世までを押さえました。文明前夜の頃から略奪、皆殺しを繰り返してきた西洋では、共同体=共認充足の場が失われたことによって個々人が根無し草の存在となり、誰もが自我・私権の主体となっていきました。しかし、支配体制が絶対であった中世までは、大衆の私権獲得の可能性は閉ざされており、出口のない救い欠乏が社会期待として登場し、その収束先に宗教(唯一絶対神)が存在していたといえます。
まとめると【略奪・戦争→共同体解体⇒自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神】という構造です。

これを、環境問題にひきつけてみると、この時代までは自我・私権の主体となった特権階級と大衆という構造が確立したものの、大衆の私権獲得の可能性が閉ざされているが故に、今日に見られるような【豊かさを要求する大衆】は存在しておらず、従って大量生産・大量消費といった環境問題も顕在化しませんでした。つまり、環境問題は顕在化していないが、その原因となる土台が創られた時代だったと言えるでしょう。
今回の記事では、『社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待』と題して、環境問題が顕在化してきた近代市場を扱います。

前回の記事にも触れられていますが、近代市場時代とは、自然圧力×同類闘争圧力×支配圧力=3重の圧力からの脱出口として、新しい私権獲得の場である市場が登場した時代です。市場の登場によって、大衆にまで私権獲得の可能性が開かれ、大衆の末端に至るまで自我・私権が顕在化し「救い欠乏」にかわって「豊かさ期待」が社会共認として登場し、市場拡大の原動力となってきました。
また、この市場拡大を牽引してきたのが、国際金融資本家(金貸し)の意向に従い、私益を貪る特権階級や知識階級です。そして、その私権獲得を正当化するために登場した観念が近代思想ということになります。古代宗教の神の位置に、個人をすげ替えたのが近代思想であり、これは現代でも市場拡大を正当化する思想として脈々と受け継がれています。
しかし、当時も現代も近代思想に収束していたのは知識階級のみであり、大衆全てが近代思想に収束していたわけではありませんでした。大衆は近代思想ではなく何に収束していたのでしょうか。これが、前回記事の予告にある「共認非充足はどのように処理されていたのか?」の答えにあたる部分です。


◆肥大した共認非充足と、その代償充足先としての芸能

動物は本能上の欠乏を充たすことが充足となりますが、人類は本能の上に共認機能を獲得しており、人類の充足は共認充足が命となります。共認充足とは、一言で言えば「相手と同化することで得られる充足」ですが、共認非充足とは、その充足が得られない状態のことです。

10/17なんでや劇場(5) 市場時代の共認非充足の代償充足⇒解脱(芸能)埋没 [1]
原始時代においても仲間が死ぬこと、これが最大の共認不全であっただろう。∵最大の充足源=共認対象がいなくなるわけだから。死の問題は原始時代は精霊信仰に、部族連合の時代は守護神信仰に収束することによって解消されてきた。死の問題は超越的なものに収束するしかない(現在の葬式に見られるように、それは現在も変わっていない)。
近代市場社会では、それまでの時代よりも共認非充足が甚だしい。ところが、宗教は衰弱しているし、近代思想は現実には存在しない架空観念なので、共認非充足は解消できない。
そこで増大する一方の共認非充足を解消したのが、歌・演劇・映画etcの芸能である。近代思想に収束したのは知識階級だけだが、芸能は万人が解脱収束する。つまり近代は共認非充足の解消先が宗教から芸能に移行した時代であるとも言える。もちろんそれは、共認非充足を芸能の観客(傍観者)として代償充足させているにすぎず、本物の共認充足ではない。
ルネサンスが宗教(観念)収束→芸術・芸能収束への転換期である。以降、宗教収束力が衰弱するに従って芸術収束~芸能収束が強まってゆく。

略奪闘争から武力国家時代を経て、西洋では共同体的色彩を残した集団は解体され、恒常的に共認非充足でした。その基盤の上に、市場が開かれ万人が自我・私権の主体となった大衆の共認非充足は、古代、中世に比べて甚だしく大きくなりました。
その共認非充足を埋める代償充足の場が芸術・芸能であり、この芸能(主要には恋愛)を基点とした商品市場こそが近代市場の原動力となり、豊かさ期待と並ぶ、代償充足(解脱埋没)の社会共認が創られてきたと言えます。

科学の過ちとは「代償充足の場」への貢献ではないのか [2]
宗教、それは現実世界における共認非充足を非現実のあの世の世界に追い求めたものであり、現実捨象の「代償充足を適える場」となって発展したものです。
一方市場は、現在「芸能市場」という本丸が露わになってきたように、物的交換や取引共認の成立より先に、「代償充足の場」が商品市場発展の土台となったものです。
この二つを結ぶ共通項は、「代償充足の場」ということであり、現実捨象・現実逃避の「傍観者構造」そのものということでしょう。近代科学は「代償充足の場」を拡大・深化させるための表層的な認識に留まり、その限りにおける技術貢献でしかなかったと総括されると思います。

また、共同体を失い代償充足(解脱埋没)を追い求めるだけとなった大衆は、ますます傍観者の構造となり、要求するだけ、消費するだけの存在となっていきます。

演者こそ傍観者の親玉、観客は二乗の傍観者 [3]
観るのは当然、観客=傍観者だけど、演じるのは当事者?
学者でも役者でも、もっぱら表現することに頭を使っているけど、当事者として現実と対峙してる訳じゃない表現者って、これこそが傍観者の親玉なんだと思う。で、それを見ている観客は二乗の傍観者(それとも、傍観者の子分?)。
出版・マスコミは3乗の「傍観者」 [4]
これまでも、多くの観客は、自分の人生を、社会を、芝居に重ね合わせて見てきたはずです。しかし、それで、人々の現実は変わったのでしょうか?
◆代償充足は支配体制存続の温床
  演劇を含め、文学者たちは、確かに、社会をテーマに様々な作品を書き続けてきました。そして、それがあたかも、何か社会に対して意義のある活動であるかのように思われてきました。
 しかし、彼らがどんな問題意識を持とうが、どれほど紙幅を埋めようが、社会の現実は変わらず、むしろ、代償でしかない充足で人々の不全を麻痺させることによって結果的に支配体制の維持存続に資することになったのです。反体制を自称する劇作家であっても、その中身が代償に過ぎない限り、それは支配体制存続の温床でしかないのです。
◆現在の統合階級は3乗の傍観者
 しかも、今日では、その下手人たちの言葉を集めて、売りさばくことが、マスコミ・出版という巨大産業となっていますが、彼らこそ、傍観者(普通の人々)を眺める傍観者(作家たち)のさらに上を行く傍観者とも言えるでしょう。
 
 つまり、作家たちは少なくとも何かを生み出してきましたが、現在の共認を支配する統合階級は、その成果を差配するだけの、普通の人々以上の3乗の傍観者=ただの見物人であり、だからこそ、社会は一向に変わるはずがなかったのです

現代の環境問題の問題構造である「豊かさを要求する大衆」と「私益を貪る特権階級の暴走」が登場したのは、この近代市場時代にあります。そして、それらの構図を生み出した背景には、【豊かさ期待】と【代償充足(解脱埋没)】という、社会を貫通した共認内容が出来上がったことにあります。

従って、この【豊かさ期待】と【代償充足⇒芸能】が今後どのようになっていくか。これが環境問題解決に向けての糸口となっていきますが、次回は貧困が消滅した‘70~現代を見ていきます。

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