2019-08-11
近代(現代)科学はまるでマンガ!宗教と全く同じ”唯一絶対の不変真理という思考”で貫かれている
一般的に自然科学とは自然の背後にある原理原則や法則を導いたものであると認識していますが、近代(現代)の科学というのは実はその真逆を向いた思考であることを前回のエントリーで明らかにしました。
>「現象の何でそうなるのか?には一切触れず、ただひたすら、現象を定量的に数学で表現するようになった」。近代科学の特徴はこれに尽きます。
>現象をひたすら数学に置き換え、その数学とは、ひたすら抽象化=非現実世界に傾斜していく思考的欠陥を持っているということなのです。
ひたすら抽象世界、つまりは非現実、空想の世界にのめり込む思考。
このことを端的に指摘している記事を引用します。
★ 近代(現代)科学は自然をありのままに見ているのでは無い!まるでマンガのようなもの
以下、破壊学事始さんより引用
『現代科学はマンガだ!』
一般には、自然界の背後にある単純な法則を導き出すのが、自然科学と考えられていますが、これは間違っています。自然は数学で記述されるべきだ、というピタゴラス主義です。科学以前の宗教、思想です。
実際の自然は非常に複雑な現象です。このブログでは、自然現象の複雑さを考えてきました。たとえば、宇宙と地上の重力は違います。地上の重力は、地球内部の構造から発生する電磁質量であることを説明しました。電磁質量から宇宙空間の電気引力・斥力に変化する仕組みもあります。質量が重力を生む、という単純な仕組みではなかったのです。それを単純化して、数式で表しているのが現在の科学です。重力は互いの距離の二乗に反比例するとしています。これは、自然のマンガ化です。ディテールを捨てて、自分が見えている部分だけを取り出した戯画といえます。
歴史を見ると、同じマンガ化が何度も行われてきました。ファラデーは電磁気に関する実験からたくさんの法則を得ました。それを数式にしたのはマクスウエルです。しかし、マクスウエルの導き出した数式にファラデーは大反対しています。ファラデーの考えていた電気力線は、途中で中和するものではありませんでした。プラスとマイナスの電気力線は途中で中和することなく、対象に届き、物体内部でベクトルが合成されます。また、電界と磁界は交換可能な関係ではありません。電界の変化は磁界を生みますが、磁界の変化は、周囲にある荷電粒子を動かすことで電界の変化になるのです。マクスウエルは数式にするために、ファラデーの実験結果を捻じ曲げてしまったのです。
ニュートンも同じことをしています。17世紀、天文家は惑星同士がなぜぶつからないかを考えていました。天空で奇妙な運動をする惑星は、不思議なことにぶつかりません。また、飛び去ることもありません。惑星には、互いに引き合う力と反発する力があることが、当時の天文家の間では知られていました。ところが、天文観測の素人であるニュートンは、惑星の運動を数式にするために反発力を無視してしまったのです。引力と反発力を入れると3体問題になって、当時の数学では扱いきれなくなるからです。ニュートンの万有引力は発表してすぐに受け入れられたのではなく、100年間に渡って批判されました。カントはニュートンの万有引力では、宇宙はひとつの塊になると、星雲論で指摘したのです。ケプラーは観測から惑星の運動が楕円ではなく、螺旋であることを知っていましたが、これも、数式に直すことが出来ないため、無視されました。
光の速度を正確に測れば、そのつど光速が微妙にばらつくことが知られています。精度を高くすればするほど、ばらつくのです。これは光が空間ではなく、周囲にある空気分子を媒体にしているからです。気圧が変化すると光速も変化するのです。このような実験結果を無視して、光速は不変だとされています。重力波の観測も、デジタルフィルターを都合よく変えることで得られた信号を見ています。地震波による地球内部の構造もデータに都合のよい「重み」をつけられた結果です。
私たちの科学は自然をありのままに見ているのではないことに気がつくべきでしょう。
(引用ここまで)
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私達が事実として信じて疑わなかった、近代(現代)科学は、自然をありのままに見ているのでは無く、まるで”マンガのようなもの”だったということです。
そして、良く科学と対比的に扱われる宗教ですが、実は同じ思考で貫かれています。これまでの思考様式そのものが欠陥だらけだったということなのです。
★ 宗教と科学は唯一絶対の不変真理という思考で貫かれている
宗教と科学は唯一絶対の不変真理という思考で貫かれているより引用
宗教と科学は、地動説か天動説かのように対比的に語られることが多い。宗教裁判にかけられたガリレオにしろ、火あぶりになったブルーノにしろ、万物の創造者であり世界の中心である神(聖書)に対し科学の立場で異を唱えたのが科学者だ、と対立的な構図で捉えられがちだ。
しかし、ニュートンもガリレオもコペルニクスもギリシャ哲学のピタゴラスも、西洋の科学者は全て崇敬なキリスト教信者であり、彼らは神の創造したものを解読することが科学だという視点で一致している。神の言葉、創造物を否定する意識は全くなく、むしろ神の存在を所与のものとしその啓示に迫ることが彼らの科学だ。
ガリレオは数学を「神の創造物を解読するための第二の聖書」と言っており、神の創造物だからこそ、美しいものであり単純であり明快なものである、という思考のベクトルが前提の認識として働いている。(=オッカムの剃刀) 万物の対象は複雑に関係し常に変化しながら調和しているが、そのような変化を一切受け入れない唯一絶対の不変真理とするスタンスが数学の世界だ。それは、とりもなおさず、現実を対象化せず非現実の世界を言葉化した神=旧約聖書を絶対不変の真理とする排他的思考と全く変わりはないのである。
現代の科学はそのドグマから抜け出せず思考を停止しているが、実は近代科学は最初から進化ではなく滅亡のベクトルを刻印されているとも言える。
(引用ここまで)
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>現実を対象化せず非現実の世界を言葉化した神=旧約聖書を絶対不変の真理とする排他的思考と全く変わりはないのである。
の指摘の通り、近代(現代)科学とは非現実=神を対象とした宗教と全く同じ思考だったということです。
★ 事実を体系化するには?
この思考的欠陥を総括し、事実を体系化するには、かなり昔にエントリーした
素人が創る科学の世界~プロローグ『科学的認識はすべて仮説、その神格化が創造の壁』
がヒントになると思っています
>観測事実は非常に簡単な事実の一部です。そして、ここには神格化や固定観念が入り込む余地は、ほとんどありません。しかし、仮説の方はそれらが入り込む余地があり、とりわけ近代科学は、キリスト教やデカルトの主観主義(自分の感覚が絶対という意味)や近代個人主義などの思想に大きく影響されています。
そこから抜け出すにはどうすればいいのでしょうか?
まずは、観測事実はどこまでで、仮説はどこまでなのかを鮮明に峻別すること。そして、神格化や絶対視の起こりやすい仮説論理については、それが生まれた時代背景や思想的背景をもとに違和感を鮮明にすることが重要です。
>客観主義などという頭の中だけの架空の論理には見切りをつけ、主体と対象を可能な限り一致させ、対象に肉薄していく思考法である同化思考に徹することで可能性は開けます。それは、事実をありのまま捉えることと同義です。この方法だと、現実対象に限り無く近づくことで、現実課題を突破することが出来ます。
このように事実に向き合い、事実認識の体系化を構築していくことがやはり急務なんだと思います。