2013-02-12

【森林問題の深層】◆2)混迷した林業政策の歴史(1) 古代の略奪:渡来人が伐りまくって近畿圏の大径木は無くなった

「【森林問題の深層】◆1)森林環境の現況と課題」では、日本の森林資源に潜む新たな課題として、「森林飽和」という一見豊かにもみえる現実がある一方で、質的には劣化した森林が増えたため、それが新たな土砂災害の温床になっているという現実を取り上げた(参照)。
一方で、可能性としては、近年注目を集めている「里山」の歴史を振り返る中で、「森林資源を活用しつつも、取り尽くさない」というバランスが織りなす複合生態系としての里山のしくみをご紹介した(参照)。
今回は、古代における森林状況と政策について様々な情報から追ってみたい、と思う。
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■森林に対する外圧の歴史
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その始まりは縄文時代中期終盤:里山の原初空間
5,500年前から1,500年間ほど続いたという、青森県の三内(さんない)丸山遺跡に見られるように、縄文時代中期の終わり頃になると、住居や道具、燃料としての木材利用に加えて、焼畑などの火入れが行われたであろうことが、ヒョウタン、豆類、ゴボウ、アサ、エゴマ、アガサ、ヒエなどの初期農業の遺物が発掘されることから、推定されている。
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▲三内丸山遺跡に復元された、小型の竪穴式住居など    ▲縄文時代のゴミ捨て場から発掘された、クルミや木の実(映像は、「2.日本人と森 日本の森の歴史」よりお借りしました) 
前回取り上げた、「人為的な攪乱」による「退行遷移」の様子が、環境考古学を目指す安田善憲氏らの手になる「花粉年縞」から見て取れる。残念ながら「焼畑」は遺跡として残らないので物証はないが、状況証拠から、縄文時代は森林の再生力の範囲内で生存のための生産活動が営まれていたようだ。
森林の辺縁部に見られるクリの木などは、意図的に「伐り残し」して選別していたことがうかがえ、森との折り合いを付けつつ恵みを得ていたということだろう。
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古代:都周辺の森林の大口径樹は、伐りつくされていた
縄文時代は環境調和的な生産活動でしたが、古代になると状況は一変する。
記紀や万葉集などの記述を調べた有岡利幸氏によると、

span style=”color:#CC6600;”>《古事記下巻 雄略天皇記》
・雄略天皇が460年頃に葛城山に行幸したとき、周辺の山は樹木のない状態。
《飛鳥時代》
・当時の日本の中心地周辺には、巨大建築用の大径木はすでになく、近隣諸国の山から調達する状況にあった。
・特に、奈良盆地南部の飛鳥は、宮殿・寺院・豪族の屋敷・民家などの建築資材、燃料・刈敷などが飛鳥川流域全体から採取されていたため、水源の南淵山や細川山の一体は禿山化していて、飛鳥川は暴れ川であった。
《日本書紀 巻29 天武天皇の勅令 天武5年(676年)が最初の伐採禁止令》
・ 「南淵山、細川山は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野のもとから禁制のところは勝手に切ったり焼いたりしてはならぬ。」と、一体の禁伐や草木の保護を命じている。


 ▲古代における森林景観のイメージ
飛鳥地方はかなり早くから農業生産に着手して、刈敷や燃料の利用圧力も森林に働き、建築資材の調達と相俟って山は禿山と化し、土砂流出が激しいので川は暴れて天井川となっていたようである。

(さらに…)

  投稿者 staff | 2013-02-12 | Posted in E02.林業編No Comments »