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【森林問題の深層】◆2)混迷した林業政策の歴史(1) 古代の略奪:渡来人が伐りまくって近畿圏の大径木は無くなった

「【森林問題の深層】◆1)森林環境の現況と課題」では、日本の森林資源に潜む新たな課題として、「森林飽和」という一見豊かにもみえる現実がある一方で、質的には劣化した森林が増えたため、それが新たな土砂災害の温床になっているという現実を取り上げた(参照 [1])。
一方で、可能性としては、近年注目を集めている「里山」の歴史を振り返る中で、「森林資源を活用しつつも、取り尽くさない」というバランスが織りなす複合生態系としての里山のしくみをご紹介した(参照 [2])。
今回は、古代における森林状況と政策について様々な情報から追ってみたい、と思う。
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■森林に対する外圧の歴史
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その始まりは縄文時代中期終盤:里山の原初空間
5,500年前から1,500年間ほど続いたという、青森県の三内(さんない)丸山遺跡に見られるように、縄文時代中期の終わり頃になると、住居や道具、燃料としての木材利用に加えて、焼畑などの火入れが行われたであろうことが、ヒョウタン、豆類、ゴボウ、アサ、エゴマ、アガサ、ヒエなどの初期農業の遺物が発掘されることから、推定されている。
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▲三内丸山遺跡に復元された、小型の竪穴式住居など    ▲縄文時代のゴミ捨て場から発掘された、クルミや木の実(映像は、「2.日本人と森 日本の森の歴史 [3]」よりお借りしました) 
前回取り上げた、「人為的な攪乱」による「退行遷移」の様子が、環境考古学を目指す安田善憲氏らの手になる「花粉年縞 [4]」から見て取れる。残念ながら「焼畑」は遺跡として残らないので物証はないが、状況証拠から、縄文時代は森林の再生力の範囲内で生存のための生産活動が営まれていたようだ。
森林の辺縁部に見られるクリの木などは、意図的に「伐り残し」して選別していたことがうかがえ、森との折り合いを付けつつ恵みを得ていたということだろう。
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古代:都周辺の森林の大口径樹は、伐りつくされていた
縄文時代は環境調和的な生産活動でしたが、古代になると状況は一変する。
記紀や万葉集などの記述を調べた有岡利幸氏によると、

span style=”color:#CC6600;”>《古事記下巻 雄略天皇記》
・雄略天皇が460年頃に葛城山に行幸したとき、周辺の山は樹木のない状態。
《飛鳥時代》
・当時の日本の中心地周辺には、巨大建築用の大径木はすでになく、近隣諸国の山から調達する状況にあった。
・特に、奈良盆地南部の飛鳥は、宮殿・寺院・豪族の屋敷・民家などの建築資材、燃料・刈敷などが飛鳥川流域全体から採取されていたため、水源の南淵山や細川山の一体は禿山化していて、飛鳥川は暴れ川であった。
《日本書紀 巻29 天武天皇の勅令 天武5年(676年)が最初の伐採禁止令》
・ 「南淵山、細川山は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野のもとから禁制のところは勝手に切ったり焼いたりしてはならぬ。」と、一体の禁伐や草木の保護を命じている。

[5]
 ▲古代における森林景観のイメージ
飛鳥地方はかなり早くから農業生産に着手して、刈敷や燃料の利用圧力も森林に働き、建築資材の調達と相俟って山は禿山と化し、土砂流出が激しいので川は暴れて天井川となっていたようである。


マツは、森林の劣化・荒廃の指標植物:それが7世紀には出現していた
日本書紀に「茅渟県(ちぬのあがた)陶邑(すえむら)」と記される大阪市の泉北丘陵は、古代から窯業が盛んであったが、その陶邑窯跡群の調査(只木良也2010)によると、

・古い釜の木炭は、殆どがカシなどの広葉樹であった。
・6世紀後半からアカマツが増え始め、7世紀には殆どがアカマツになる。

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▲「越境の古代史」(田中史生著)より

⇒前回に述べたように、マツは競合樹木のない貧栄養土壌で勢いをなす樹木である。
 木炭用の樹種変遷は、それまでの原生的な樹木(建設需要)や刈敷(農業需要)を使い果たし
たために、マツが勢いを増してきたことと見ることができる。
次いで、その他地域の典型的な事例として、琵琶湖南の「田上の山々」を見てみる。

禿山となった、田上の山々
>中大兄皇子(のちの天智天皇)が大和から大津に遷都したのが天智称制6年(663)3月。9年後に壬申の乱が起き、天武天皇即位と同時に都は飛鳥浄御原に変わった。だが天武天皇の在位も短く壬申の乱から十四年後には崩御、皇后の鵜野皇女が即位、持統天皇となり都を飛鳥から藤原京に移した。
>持統天皇が第一に志したのは、都の建設であった。藤原京は、中国の都にならって、香具、耳成、畝傍の大和三山にかこまれた平野を都としたもので、その建設は持統天皇5年(691)10月にはじめられ皇居の造営にとりかかったのはその翌年の5月だった。
そして持統天皇8年(694)には、女帝は飛鳥浄御原宮から新造の藤原宮に移った。

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▲ 古代の都城(『淀川百年史』近畿地方建設局)より

>千数百年前の田上山は「ヒノキ」「スギ」「カシ」などが繁茂する一大美林だった。それを立証するのは現在、太神山々頂に残る不動寺周辺は、広い範囲で乱伐を免れ、自然の林相が残っている。恐らく仏罰を恐れたのだろう。
>しかしそれ以外は、藤原京の用材だけでなく飛鳥、奈良時代の仏教の伝来や大陸文化の渡来によって奈良七大寺(東大寺など)のほか地元でも石山、三井寺などの建立で田上の山々が伐採されたようだ。そのためヒノキ、カシなどの一次美林は二次林(松)に変わった。
「ぶらり近江のみち」第9回 田上の山々 135号 [6])より
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*皆伐により禿山となった田上山は、中世以降、土石流などの災害をもたらす。(後述)

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木簡から明らかとなる木材事情:森林が劣化し、木材資源の使い廻しも・・・
記紀は史実ではなく、意図的な物語として編纂されているという話は、ほぼ定説となっている。
一方、律令制度の運用のために使われたと思われる『木簡』は、それらの空白部分を埋める情報が
秘められているということで、注目される情報源である。
「木材資源の使いまわし」を示す木簡の記述
〔続日本紀〕
・和銅元年(708年)2月15日に元明天皇が平城遷都の詔を出す。
・3月に造宮省、9月に造平城京司という造営機関が発足し、709年に天皇が平城京に行幸。
・710年正月1日には「元日朝賀の儀」の記述がありますが、場所の記載無し。どこで?
・同年3月10日には、「始めて都を平城に遷す」と記されている。

なぜ、そのように短期間で遷都が実現したのか?
・それは、藤原京の大極殿(間口44m、奥行19.5mで同寸)が、平城京に移築されたから。
・しかも、移築は遷都後の和銅8年(715年)に行われた。
・それまでは、天皇の住居や日常政務に支障のない建物だけで凌いでいたことになる。

そのことは、2002年の発掘調査で出てきた「木簡」の記述によって判明した。
大極殿の移築・使いまわしをせざるを得ないほどに、木材確保に逼迫していたということである。
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使い廻しは、伊勢神宮でも例外ではなかった
今年は、20年ごとに行われる神宮式年遷宮の年なので、関心をお持ちの方もおられるだろう。
伊勢神宮は、天武天皇が式年遷宮を制度化(692年)して外宮の第一回目に始まり、今年の2013年は第62回目を迎える。
内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の二つの正宮の正殿、14の別宮全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられるので、使用される建築資材は相当量になる。歴史を紐解くと、建築資材は、
内宮:宮域林一体の神路山に求められた。
外宮:神域の高倉山に求め、30回までは宮川を奥地へと伐り進んだ。
   31回(1268年)には大内山川、以降、三河の設楽山、美濃白河山、美濃北山と対象を変え、
   再び宮川上流の江馬山、大杉山に戻っている。
そのような訳で、江戸栄禄期には、宮川一帯を伐り尽してしまっていた。 
そんなこともあって、「延喜式 [7]」では、
古殿の旧材を加工しても差し支えない」としている。
それほどに建築資材の調達は、困難を極めたということだろう。
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古代の略奪:渡来人が伐りまくって近畿圏の大径木は無くなった
ささやかな使い回しで事態は改善したのだろうか? いいえ、少しも変わりませんでした。
それを理解するには、ちょっとだけ、歴史系グログの内容に踏込む必要がある。
4世紀の後半の朝鮮半島では、北の高句麗が百済に攻勢を強め、半島の東側では新羅が高句麗と結び加那南部に圧力をかけはじめていた。敵を同じくする百済と加那南部諸国は結びつき、加那南部の鉄に依存する倭人社会もそれに巻き込まれていくことになる。
5世紀初頭から増えた加耶などからの渡来人は、鉄・土器・稲作をもたらした。それに対して倭国からは、武器・武具・馬・兵員・米麦などの穀物・繊維類などを贈与した。相互に相手の首根っこを握る物資・技術・人員を贈与し合っているので、交易を超えた同盟関係にあったといえる。
そのような渡来人を積極的に受容できるのは、葛城氏・吉備氏・磐井氏などの首長層の一部だけであった。各地の首長層は、各共同体の外に向けては、列島の有力有力首長との交流も、大王との交流も、そして加那南部首長達との交流も同時に行う必要があった。
それだけに、大王の外交方針と相容れず、謀反・結託・暗殺・粛清などの政治的な局面がめまぐるしく展開され、疫病の発生という理由以外でも遷都を頻繁に重ねた。それゆえに木材資源は大量に消費され、食料生産のための肥料(刈敷)や、塩・鉄・焼き物のための燃料調達のために森林資源を酷使し続けることとなった。
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▲森林収奪(「森林飽和」太田猛彦著)に一部追加
日本における大径木の伐採圏を推定したコンラッド・タットマン1998)は、西暦800年までの記念建造物のための天然林の伐採を「古代の略奪」と称し、近畿圏の大径木は伐採しつくされたと推定している。
上述したような様々な傍証事例から、その信憑性は高いと云わざるを得ない。
  つづく
                         by びん
                

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