2009-02-08
環境保護運動に隠された正当化観念 ~アフリカへの搾取構造の実態~
18世紀。市場社会の黎明期は、万人の私権追求の可能性が開くと同時に、それを後押しする近代思想も生まれてきた。
ここでは、神から人間への判断主体の転換という意味での人間中心主義。私権主体としての個人の絶対視。その実現のための『(判断主体としての)人間』『(私権主体としての)個人』『(私権行使の)自由』『(それらの要求行為を正当化する)権利』という観念が登場する。
(中略)
これらの思考法は、本来自然の一部としての人間という視点から自然に同化し、その法則性を見出すという同化思考とは正反対だ。それは、人類や自然の全体性を捨象して、自分(私権)に都合にいい事実だけ対象化し、それが全てと誤認する。その結果、対象世界の認識は、私権に都合のいい事実の拡張適用によって異化さていく。
この異化思考が、環境問題の引き起こす思想的な欠陥である。
(るいネットより:環境問題を引き起こす思想的な欠陥 2)
環境保護運動にて必ず出てくる「持続可能な開発」という概念も、この思考的欠陥の孕んだ自己正当化の観念である。
巧妙にオブラートに包まれているが、中身こそ「最貧国の人口増が環境問題を悪化させ、この人口増を抑制することが急務、そこで国連が主導となり政策を推し進めていくことが必要だ」という主張に過ぎない。
(参考)
「持続可能な開発」とは(1) ~「環境と開発に関する世界委員会」より
「持続可能な開発」とは(2) ~「環境と開発に関する世界委員会」より
つまり、
先進国やその支配層の生活や身分が持続可能であることを前提にしているのである。
彼らの市場拡大を続けつつ、環境も守るという都合の良い観念によって貧困国は搾取されている構造にあるのだ。
この欠陥思考の源泉(キリスト教)となるヨーロッパ諸国のこれまでの歴史は、まさに自己正当化を武器にした搾取や略奪の歴史であった。
このときはもっとダイレクトなやり方で、対象となるアフリカや南アメリカへと搾取や略奪を行っていた。
そこで今回は「アフリカ」への略奪と正当化観念の歴史を追ってみようと思う。
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