2022-10-04
磁力の発見の歴史(近代)⑦~ロバート・ボイルの「磁気発散気」を前提とした磁化現象~
【ロバート・ボイル(1627-1691)】
磁力という点に関しては、ボイルは引力を認めず、遠隔力としての引力を直接的接触ないし圧力の結果とみなし、その限りでは機械論一般に共通の立場であるが、ボイルはそう考えるに至る特別に強い動機と根拠があった。
ボイルの物理学研究の原点は「真空の実験」にあった。ボイルは『吸引による引力の原因について』で「その真空嫌悪の仮定よれば、水やその他の液体が揚水ポンプの管の中をどのような高さにも上昇するのは真空を忌避するためであるとされるが、それは実験とは合わない。」と断じている。ボイルはトリチェリ管を真空ポンプの容器内にいれて排気すると、排気につれて管内の水銀柱が下がっていくことを示し、真空嫌悪に基づく説明の誤りを暴き出している。ボイルの見解では「揚水ポンプにおいて真空にした管の中を水が上昇するのは、管の中にある水面の部分に圧力が全くかからず、そのため水の上昇が妨げられないのに対して、管の外で停留している水面の他の部分には大気の圧力がかかり、その上部にある大気の重さにより強く圧迫されるということから単純に生じる機械的必然性による」として、つまり、管内の真空部分が水柱を吸引するのではなく、外部の水面に接している大気がその水面を押し下げることで、結果的に管内の水を押し上げるのである。この事実は、ひろく「引力」と呼ばれている他のいくつもの現象も直接の接触力、すなわち圧の効果として理解されるはずであるとの確信をボイルに与えたようである。
したがって、ボイルにとっては、遠隔力の典型である磁力も近接作用として説明されるべきこととなり、実際ボイルは磁力そのものについては触れていない。
磁力の発見の歴史(近代)⑥~ロバート・ボイルの「粒子哲学」~
〇ロバート・ボイル(1627-1691)
アイルランド・リズモア出身の自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロー。ボイルの法則で知られている。ボイルの研究は錬金術の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とされることが多い。特に著書『懐疑的化学者』は化学という分野の基礎を築いたとされている。
科学の世界でボイルを有名にしたのは、フックの協力を得て作り上げた真空ポンプ用いた一連の大気と真空の実験と、「ボイルの法則」と呼ばれている事実の発表。それは、特定の目的のために作り出された装置を用いた計画的な実験と定量的な測定に基づき、数学の言語で表される法則を確定するという17世紀における「新科学」の実践の傑出した例となっている。
【ボイルの法則】
ボイルは自身の物質観を「粒子哲学」と称している。ボイルの思想を特徴づけているのは、第一には、自然的世界を自動機械のように見る自然観であり、第二に、物質の呈する全ての性質がその立場から説明されるという物質観であり、総じて徹底した機械論哲学にある。彼にとって「化学は機械論的な自然哲学の有効性を証明する手段なのであった。」とまで言われている。
磁力の発見の歴史⑤~素人による科学追求が広がっていく過程~
前回、俗語による書籍の出版によって、素人の手によって磁力の性質が解明されていった過程を再現したが、他にも同時期に、素人の手によって科学現象の解明が進んでいった事例がある。
たとえば、ピリングッチョの「ピロテクニア」である。
ピロテクニアは、直訳では「火薬術」を表すイタリア語だが、内容はそれだけでなく金属や亜金属の、鉱石の所在や溶融の方法に加えて、火薬の使用方法や鋳造技術など多岐にわたった。
それまで職人の経験を頼りに引き継がれていた技術内容が、書籍として残るようになったということは、当時のヨーロッパにとっては非常に大きかった。
職人たちの技術追求に、徐々に学者たちも介入してゆくようになる。
当然彼らは、職人たちの経験から導かれる自然現象を、数学、幾何学などを使って論理的に解明しようとした。
例えば、釣り鐘を作る際のの寸法や厚さは、職人の経験によって奏でる音の高さが決まっていたところ、学者たちによってその計測によって、数的に音程と大きさの関連が明らかになった。
他にも、発掘された鉱石に磁石を近づけることによって、鉄鉱石を見分けることができるようになった。
このようなことを、当時の職人たちは当然のように技術として使いこなしていた。
だが、その技術内容に関連する論理的内容が、一般大衆向けに、しかも俗語で出版されるようになったということが、非常に大きかったのである。
同様に、医学においても、医者という専門の職業人のみの仕事ではなく、大衆による医学が進歩していった。
この医学改革を担ったのが、パラケルススという人物である。
当時、医者といえば専ら内科医で、現代で言う外科医の仕事は理髪師が行っていたし、子供の出産に立ち会うのは産婆であったし、吸角や瀉血(しゃけつ、血と一緒に老廃物を吸い取る治療法)を浴湯師が行っていた。
つまり、医者として認められてはいなくとも、医療行為を行っていたのはすでに大衆たちだった(加えて、当時の本物の医者=内科医は、実際の病気に対して無力で、どちらかというと研究者という色が濃かったようだ)。
パラケルススは、彼らのように実際に医療行為を行う人々の経験を蓄積し、体系化することを目指した。
例えば鉱山地帯に於ける肺疾患を初めて職業病と呼び、鉱毒による中毒症状を克明に記した。彼の医学論理上の大きな功績と言われている。
実際、彼の治療の力は凄まじく、それまで医師が治療することのできなかった病を何度も治療してきたという。
パラケルススは、独自に医療を追求する中で、磁力の力に注目している。病原体に対して、あるいは病原体による分泌物に対して、磁石を作用させ、例えば広がった患部を中心部位に戻して拡大を止めたり、あるいは治癒させることができるのではないかという仮説を提唱している。
パラケルススの理論は、死後になって影響を及ぼすことになる。哲学者のモンテーニュは、パラケルススの死後「新来のパラケルススなるものが、昔からの規則を覆して”これまでの医学は人間を殺す役割しか果たさなかった”と言っているそうである。私は彼が容易にそれを実証するであろうと思う」と、パラケルススを養護する発言をしている。
その後彼の奇跡的な治療が人々の間で噂になるにつれ、偉大な医者として彼を祀り上げる熱狂的な信奉者と悪魔の下手人かのように擯斥する者の間での議論が加熱していった。
カルヴァン主義者で医学の学位を取得したジョセフ・デュシェーヌは、「医学については、パラケルススはほとんど神のようにあらゆる事柄について教えてくれる。その点で彼の後継者たちがいくら感謝したたえても充分ということはない」と称賛している。
医学は最終的に、近代に通じる機械論が台頭することにはなるが、決してスコラ哲学の時代から直線的に機械論に移行したのではなく、このようにパラケルスス等による実践的な医療の研究というのは盛んに行われていたのだ。
このように、16世紀はジャンルを問わず、素人(大衆)による科学理論の創造競争が進んでいった時代であり、現代につながるような画期的な発見も、実はこの頃に見つかったものが数多く存在するのである。