縄文に学ぶ自然の摂理 ~縄文時代の基礎知識2 縄文の食、「東」と「西」~
縄文に学ぶ自然の摂理~縄文時代の基礎知識1 豊かな森と二つの道具~に引き続き、基礎知識シリーズの第二弾では、縄文人の食の多様性についてご紹介します。
※画像はこちらからお借りしました
縄文の人たちがどんなものを食べていたのか?
東(北)と西(南)では食文化にどんな違いがあったのか?
という視点から、われわれ日本人の食のルーツに迫ります。
◆多様な食材に囲まれた生活
採集・狩猟を生業とする民族にとっては、生活の本拠となる集落の周辺に多様な自然環境をもち、かつ季節が多様に変化する地域ほど、潜在的な食糧資源に恵まれているといえます。実際、縄文時代の日本人はこの2つの条件があてはまる環境のもとで生活しており、特定の食品に偏らず、多種多様な食べ物がたしなまれていたようです。
当時の遺物からは、これまでに動物で述べ500種以上、植物では50種以上が確認されています。ただ、植物は分解が進みやすく残存しにくい種が多いため、それを考慮に入れると全部で1,000種類以上におよぶ動植物が、縄文時代を通して人々に食べられていたと推定されています。
【縄文カレンダー】
※資料はこちらからお借りしました
例えば、縄文前期の福井県の鳥浜貝塚では、食料として利用されたと推定される資源は、植物21種・哺乳類12種・貝類33種・魚類13種・鳥類4種の計83種にのぼります。
そのうち、鳥浜貝塚を生活の場としていた人々を支えていた主要な食料、いわゆるメジャー・フードは、
植物では、クルミ、ヒシ、ドングリ類、クリ
哺乳類では、シカ、イノシシ
貝類では、ヤマトシジミ、マツカサガイ、イシガイ
魚類では、フナなどの淡水小型魚類
などが挙げられますが、これらに遺体として残りにくいイモ類や球根類などを加えた食材のいずれもが、集落を中心とする半径5キロ範囲内で入手可能なものだったそうです。
これらメジャー・フードの多様さは、世界の採取狩猟民の中でも例をみないほど豊か、かつバラエティーに富むものであり、これこそが豊かな縄文社会の支えとなっていたのです。
【主要な食料であったイノシシを模った縄文後期の出土物】
※画像はこちらからお借りしました
では、このような縄文時代の食の多様性は、何によってもたらされたのでしょうか。
地域特性を比較する中から、掘り下げてみようと思います。
◆食の地域特性
まず大前提として、欧米諸国の大半と比較した場合、日本はより温暖な気候帯に位置しているため、基本的により多様な動植物が生息しています。とはいえ、日本列島は南北に長く、標高差も大きいため、地域によって当然植生の違いが生まれます。まずはそこを押さえてみましょう。
植生と気温を関連づけるための指標に「温量指数」(暖かさの指数)がありますが、この数値の大きさによって、おおよその植物の生育範囲が決まります。下図はその温量指数の分布図です。
※分布図はこちらからお借りしました。
※これは現在の分布図ですが、縄文時代後期・晩期にはほぼ現在に近い日本列島の形が出来上がっていたこと、また遺物からも検証できることから、この分布図で十分に分析は可能と思われます。また、より正確な分析を行うには気温だけでなく湿度も加味する必要がありますが、今回の記事では省かせて頂きます。
この温量指数と植生との関係を整理したのが、下表「温量指数からみた堅果類の平面・垂直分布」です。これを見ると、植生の違いは、調理方法の違い、ひいては人の手を介しての植生分布(その代表がクリやクルミ)の違いにも繋がっていることがわかります。
【温量指数からみた堅果類の平面・垂直分布】
※表はこちらからお借りしました
例えば、照葉性で「アク抜きが水さらしだけでよい」アカガシやアラカシは、温量指数が100°以上で、九州から東北北部の太平洋岸までの範囲に分布し、西日本においては1,300~1,000m以下、東日本では暖流の影響を受ける海岸部に分布しています。そのため、西日本のメジャー・フードの一つであったと考えられているカシ類は、縄文中・後期の関東には存在していましたが、中部・東北地方には分布していなかったと考えられています。
同じ照葉性で「アク抜きが不要」なクリは、温量指数が55°~65°以上で北海道南部から九州まで広く分布し、垂直分布でも九州や東北は1,000m以下、その他の地域では1,500mまで見られ、縄文人たちが広い範囲でいつでも利用できる状態にあったと思われます。
一方、落葉性で「加熱処理型のアク抜きが必要」となるミズナラは、西日本では温量指数120°以下、東・北日本では100°以下の列島全域に分布しています。同様にコナラも温量指数45°~55°以上で列島全域に分布しています。
このように西日本の照葉樹林帯でも落葉性のクリ、コナラ、ミズナラ、クヌギを利用できる環境にあったにもかかわらず、これらの遺物が大量に出土している東日本と異なり、西日本の遺跡からはこれらの遺物は見つかっていません。このことは何を意味するのでしょうか?
実は、一定の面積における「樹種の種類数」と「特定樹木の個体数」が北と南では異なるため、このような東日本と西日本の違いが生まれるのです。南では単位面積あたりの木の種類は多いのですが、一種類あたりの本数は少なく、北に行くに従って木の種類が減り、一種類あたりの本数が増加します。この種と個体数の傾向から考えると、照葉樹林帯では単位面積あたりの樹種は落葉樹林に比べて豊富ですが、例えばクリの本数は少なく、落葉樹林帯ではクリの本数は多いものの、樹種は少なくなります。
そして、植生における特徴の違いは、当時の採集~加工~保存という労働システムにも影響を与えています。
近畿地方では、多種類の堅果類に頼る小さな集団からなる安定した集落が存在したのに対して、東日本の遺跡ではトチノキやクリなどの特定種の果殻が大量に廃棄されていたことから、大量の特定種を単一の処理で集中的に加工・調理する分業集中型の集落、生産システムが東日本では構築されていたものと考えられています。そして、特定種への依存は、飢饉に対するもろさも内包しているため、結果として救慌食が不可欠となり、東日本では後にその分野での工夫が発達するに至ったと考えられています。やがてその保存(乾燥でんぷん)文化が、東日本から西日本へと伝播していったと考えられます。
◆まとめ
こうして見てくると、基本的に縄文時代の人たちは、欧米の多くの地域と比較して、多種多様な食材に恵まれていたという意味で、豊かな食環境に置かれていました。
更に、地域特性の違いに目を向けてみると、外圧が高く、植生のバラエティに乏しい東日本においては、食の追求がより一層進み、調理技術が発達することで豊かな食文化を形成していったのに対して、もともと多種多様な植生に恵まれていた西日本では、“牧歌的”で保存に苦労することもなかったため、時代を経る中で東日本の食文化を継承することによって、より豊かな食文化を形成していったと言えそうです。
そして、もう一つ縄文時代の人々の食文化から見えてくる重要な点は、食の一極依存は危険であると認識し、おのおのの外圧環境に適した食文化を築いていたということです。
もともと樹種に恵まれた西日本では食の一極依存は起こりにくかったですが、東日本ではより厳しい自然外圧下において、ともすれば一極依存になりそうなところを、高い保存や加工技術を生み出すことでリスクヘッジをはかってきたわけです。これは、今の我々の食生活を見直す上で、ひとつの重要な認識となりそうです。
【参考サイト】
古代日本の植物:縄文・弥生時代の主食と副食
動物と植物の考古学3
ウィキペディア「縄文時代」
生業からみた縄文から弥生
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2013/06/1348.html/trackback