今まで各リサイクルに関する法律(『ペットボトルをジャンジャン使えばリサイクル??』 [1]、『家電リサイクル法って何?』 [2]、『食品リサイクル法って??』 [3]、『自動車リサイクルって??』 [4])について見てみてきましたが、今回はその根幹であるゴミ問題、廃棄物問題(『「リサイクルの本質を考える(1)』 [5])に目を向けて見たいと思います。
廃棄物処理法は’70年に制定されています。
では、それ以前にゴミ問題、廃棄物問題が無かったというと、そうではないようです…。
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【江戸時代のゴミ問題】
江戸時代は、生活から発生するありとあらゆる不用物を回収し、再利用していたと言うことはよく知られています(参考:『江戸のリサイクルから何を学ぶか?』 [6])。
では、江戸時代に廃棄物問題がなかったのかと言うとそうでもないようです。
生ごみなどはどうしても処理せざるを得なかったようです。
当初は、住まいの近くの空き地や堀、川などに捨てていたと思われますが、ごみの投棄が水上交通の妨げになったり、火除け地としての空き地もその機能を損なうことになります。
1649年(慶応2年)から、たびたび堀や川への投棄の禁止の触書が出されます。
しかし、ごみの投棄が絶えないために、明暦元年(1655年)に、ごみは「永代浦(江東区の富岡八幡宮あたり)」へ捨てに行くことという触書が出されました。
永代浦まで運ぶものについて当初は特に制限がなく、町人たちは自分で船を、用意をしたり、雇い船で運んでいましたが、1662年(寛文2年)に講義指定の請負人以外の者がゴミ集めをすることを禁じます。
河岸に出しておけば船が集めて回るという仕組みになります(この費用は町の共益費で賄われていました)。
一方、明暦の触書以降も不法投棄が減らないので、厳しい監督が行われるようになりました。
築地のあたりの新田開発がはじまります。そして、1699年(元禄12年)に永代築地芥改役が設けられ、不法投棄の監視役からその後もごみ処理の監視に当たることになりました。
【明治時代のゴミ問題】
明治初期も都市の廃棄物処理は江戸時代とさほど、大きな違いはありませんでした。しかし、明治10年以降たびたびコレラが流行し、「公衆衛生」が重視されるようになります。便所、下水、ゴミ溜めの構造や清掃についての対策がとられるなどしたが、人口が急増して都市がどんどん拡大する東京では、江戸時代さながらのやり方では対応できなくなっていました。
東京では、業者の怠慢によってしばしば路傍や空き地にごみが堆積し、不衛生な状態だったことから、明治20年4月に警察令による塵芥取締規則が発布されます。
これは東京だけでなく、いずれの都市も、ゴミの投棄やゴミ収集業者の取り締まりに苦慮していたようで、神戸市では明治14年に塵芥溜塵捨場規則を改正して住居裏にゴミ容器の設置を義務づけ、25年には神戸市衛生組合及び町村衛生委員設置法を定めてゴミ収集人を管理する方策を講じています。
明治32年頃には、はじめてペストが阪神地方に流行し、これに対応すべく、公衆衛生の強化の一環として明治33年に「汚物掃除法」が施行され、ゴミの収集が各市町村の事務作業として位置付けられます。
<そして、その制定によってゴミ収集業者は行政の管理下に置かれ、清掃行政の形ができてきました。
【江戸・明治の糞尿処理】
江戸時代のヨーロッパの都市では糞尿があちこちに捨てられるという状態で、衛生上きわめて深刻な問題=コレラやペストが度々蔓延したようです。
一方、江戸には糞尿を肥料として利用しており、有価で売買されてきました。つまり、江戸時代においては、糞尿は理想的なリサイクルの仕組みがあったわけです。
江戸が100万を超える人口を擁することができたのは、糞尿を肥料として使うことで、農産物の増産が可能であったのです。
つまり、江戸時代には糞尿処理問題はなかったとも言えますが、一方で、糞尿を江戸から農村に船で輸送していたことなどを考えると、糞尿がゴミであったと言えそうです。
今後は、
①糞尿がゴミ扱いされ出したのはいつ頃か?
②糞尿利用ができなくなったのは何で?
③昭和初期から廃棄物処理法制定までのゴミ問題、廃棄物問題の変遷
④ゴミに占める汚泥(糞尿)割合はどのようになっているのか?
について、検討していきたいと思います。
参考サイト:廃棄物処理の歴史・法制史 [7]