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素人が創る科学の世界~【光 子】3~『カタカムナ説を紐解く』

 これまでに扱った『2重スリット実験から見る量子論の不思議』 [1]を通じて、量子力学上存在する、様々な解釈論の背景にある原理(前提条件)と、その思考性が見えてきました。

この前提となるのが、電子くらいの大きさになると、それがどこにあってどのような運動をするのかについて、両方同時に測定できないという測定限界理論です。これを『不確定性原理』といって、今の人間の技術力や認識力の限界を素直に受け入れた理論です。
これをそのまま受け入れて、分からない部分はあるが、何かの実態はあることを前提に謙虚に論理構築すればいいのですが、この原理にこだわりすぎて、強引に『観測される前は波であり、観測されると粒子になる』というようなあまり根拠の無い論理にしてしまったのかなぁと感じてしまいます。

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 このように、普通の人にとっては理解に苦しむ論理が量子力学の世界で成立してしまう背景には、要素還元主義から来る矛盾を、要素還元主義で説明しようとする思考矛盾 [2]≒物事の全体性を捨象した思考方法があります。素人にとっては難解極まりない解釈論の数々。しかし、『これが分からないのは専門知識がないからだ』と断ずるのであれば、それは科学者達の放漫ではないでしょうか。
 近代科学的思考では超えられない壁に、私たちは直面しているのかもしれません。”世界をどのように見るのか”というモデルそのものの創造が、今求められています。
 そこで、【光 子】シリーズ3回目となる今回は、近代科学が陥った閉塞を突破するための新たな仮説・認識をひとつ、ご紹介したいと思います。


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☆☆☆日本の上古代人の潜象科学=カタカムナ

カタカムナとは何かを一言で言えば、究極の宗教であり究極の科学である、ということになります。現代の宗教は非科学的であり、自然科学はいわゆる霊性に関して盲目であるといえます。いずれにしても今日の地球規模の問題解決に役立つ器量は持ち合わせていないといわねばなりません。それどころか人類の使用可能なエネルギーを考えると、大変危険な状態だと考えねばなりません。じゃあカタカムナならどうなのよ?ってことになるわけです。
 カタカムナとは日本列島の有史以前に存在した人類によって表記された48種類の声音符で、現日本語の起源と考えられているモノです。
 さてカタカムナではこの世はたった二つのモノから成り立っているといっています。それはアマとカムであると。アマとはあらゆるマを発生する要素。これが自然科学が対象とする物質現象の元になります。それに対してカムとは形を伴わない要素。これが宗教の対象となる実態のない世界、これを現象に対して潜んでいるかたち・潜象といいます。しかもアマ・カムは単独で存在しているのではなく、偶構造、つまりくっついてるといっています。アマとカムは正反対の性質でアマどうし、カムどうしは反発し合い、アマとカムは親和するともいっています。この基本的な性質により森羅万象が発生する原理を解き明かしているのがカタカムナなのです。

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 それが観測(実証)されているかどうかを問わず、万象は共通構造(相似象)で貫かれているという認識(直観)です。まずこの地平に立てるかどうかが、カタカムナの可能性を捉える上で重要といえます。
☆相似象とは?

まず、「相似象」というのは次の二つの意味がある。一つは「互いに似通ってくる性質がある」という意味である。たとえば、朱に交われば赤くなるとか、夫婦の顔がだんだん似てくる、などのように、環境に似通わせる性質があるという意味である。
もう一つは、「いろいろな現象のパターンが共通である」という意味である。たとえば、原子核の回転構造が、太陽の周りを惑星が回転する太陽系の回転構造に類似しているなどの例が挙げられる。カタカムナ人の天然に対する直観は、カムの無限世界および、宇宙球の巨大なものから、目に見えないアマ始元量の最小素粒子までを観て、そこには共通のパターンすなわち相似象があることを見抜いた。それを記してあるのが「カタカムナ文献」である。

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☆☆☆2重スリット実験の不思議を解く~全ては、統計的存在である~
 そしてカタカムナでは、2重スリット実験の解釈を巡る矛盾を解決する上で重要なヒントとなりうる認識が示されています。

【5】統計的存在性
これは、マクロに見ると一定の固定したもののように見えるが、ミクロには絶えず物質の出入りや発生と消滅が起こっており、統計的に一定なものであるという性質。宇宙球は、一定の形をもった有限のものであるが、絶えずアマ始元量が流入流出している回転流動体の統計的存在である。
この相似象は、人間や素粒子に見られる。すなわち、人間は、ミクロには絶えず細胞の新陳代謝が起こって肉体は入れ替わっている統計的な存在である。また、電子などの素粒子も固定された一定のものではなく、これを構成するさらに超ミクロの素粒子が絶えず流入し流出している統計的存在であると推定されている。
【7】微分、統合性の周期性
アマ始元量には、分化して小さくなる性質とまとまって統合し大きくなる性質、すなわち波動性や粒子性、膨張性や収縮性という相反する性質が同時に存在する。この他に、それぞれには抗膨張性や抗収縮性という、それらに逆らおうとする性質も存在する。これらを「正反四相」という。現象界における相似象としては、光が粒子としての性質と波動としての性質の二面性をもつなどの現象が挙げられる。

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 電子は粒子と波の性質を併せ持つという、この一見矛盾した仮説も、実験の時に捨象されてきた空間=場そのものを対象化し、その全体性の中から事象を見つめなおすことで新たな仮説が成り立つのではないでしょうか。例えば、

 そもそも電子とは、空間に存在する「なにか」との絶え間ない流入出の過程における一状態を示しているに過ぎず、それは統計的存在=粒子としての性質を持つとともに、流出=分化過程において波動の性質を持つ。

☆☆☆光子の正体に迫る~全ての物質は、光子なのか?~
 さらに、本シリーズのテーマである【光子とは何か?】を解き明かす上で重要なヒントもまた、カタカムナには示されています。

>すべてのモノの素粒子であるアマ始元量の微分量である究極粒子「マリ」が複合して、電気・磁気・力・時間・空間の5つの素量ができる。それぞれが正・反、陽・陰あるいはプラス・マイナスといった対称構造を持つ。
物質や生命体は、上記の5素量のうち、電気・磁気・力の3素量から構成されているということです。
かつ、アマ始元量の微分量である究極粒子「マリ」が回転運動し、かつ螺旋的な回転をしていることによって、宇宙全体で様々な相似象現象が現われるということです。
「電気力も磁気力も熱も万有引力も、その源泉は光子なのではないか?」 [8]という投稿がありましたが、全ての力の源泉を成す光子とは、楢崎皐月氏のカタカムナ説の言う「始元量の微分量である究極粒子マリ」と同じものかもしれません。
>なお、すべて正と反が対照的に存在しているが、まったくの対称ではなく、ややひずみをもった対称であるところに特徴がある。これを正反対称性とひずみ性といっている。究極粒子マリは、完全な求形ではなく、ややひずみがある。そのために回転運動が生じ、さまざまな性質や変化が現われるのである。

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 以前るいネットで提示された「光(電磁波)の本体は、回転運動(螺旋運動)する光子ではないか?」 [10]という仮説が、より全体的な視点から補強されるのではないかと思います。
 これらを含めた今後の追求ポイントとしては、
 ・今まで捨象されてきた空間、場に充満する「なにか」とは?
  Ex.真空という概念は正しいのか?
 ・ひずみ→(螺旋的)回転→相似象
  だとすれば、回転する力の素となっている”ひずみ”とは何か?
 などが挙げられるのではないでしょうか?
☆☆☆類化性能に秀でた古代人の思考方法
 最後に、カタカムナを見出した古代人の思考方法について触れておきます。

>民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)の研究の中で、彼は人間の思考能力を「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えています。古代人の思考の特徴もこの二つの思考能力をもって説明しようとしています。
>近代人は「別化性能」を異常に発達させた。そしてその傾向はすでに、奈良朝からはじまっていた。ところが、「古代人」たちの精神生活は、「類化性能」を存分に生かしながらかたちづくられていた。「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー(類似)」のことであり、詩のことばなどが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わすことによって、意味を発生させるやりかたである。この能力が発揮されると、音や形や意味やイメージのあいだにある「類似=どこか似ている」という感覚をもとにして、ふつうなら離れたところに分離されてあるようなものごと同士が、ひとつに結びあわされて、新しいイメージをつくりだしていくようになる。

(リンク) [11]
 目には見えない事象(潜象)にどこまで想いを馳せることができるか。他ならぬ同化機能の再生が、近代科学的思考法 [12]を突破するための鍵になるのだと思います。

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