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「普通の人々」には素朴な疑問に蓋をせず、事実の追求を守り抜いていく役割がある

私達が科学と考えているものは実は学会という檻の中でのドグマにすぎなくなっており、事実の追求という良心を持つまともな学者は排除されている。他方で学会は国際金融資本(金貸し)の思惑に追従する権威主義者によって束ねられ、現在の市場経済の目先の利益に貢献する研究にばかり研究費が投資されていく。更には、地球温暖化にしろ、プラスチックによる汚染問題にしろ、問題のすり替えとスケープゴードづくりに余念がなく、学会が提唱する科学はますます事実の追求とは遠く離れていっている。

振り返ると、プレートテクトニクスの導入も、ビッグバン宇宙論の普及も、金貸し支配の歴史に血塗られている。より問題の根が深いのは比較的まともだった日本の地質学会のドンすら、アメリカの金貸したちは葬り去って首をすげ替えてきたということだ。そしてそこではマスコミを使ったプロパガンダによって大衆世論の巻き込みも行われている。

私達は権威主義に流されてはいけない。直接的な研究費etcの利害関係を持たない「普通の人々」だからこそ素朴な疑問に蓋をせず、事実の追求を守り抜いていく役割があるし、それが結果的に、自分たちの生命と地球を守ることにつながる。

そしてデカルトにはじまる近代科学の体系そのものが自然の摂理から離れた架空の理論体系になっていることに気付く必要がある。そして教科書を盲従するのではなく、教科書に疑問を持ち、探求心を伸ばしていく「まともな科学教育」が必要なのである。

 

破壊学事始さんの以下の記事 http://zao.jp/index.php?blog=12&p=512&more=1&c=1&tb=1&pb=1 の指摘は非常に重要である。

自分が科学的であると自覚している人でも、科学とは何かを徹底的に考えた人は少ない。筆者は科学史と科学哲学を図書館で読んだ程度で、ポパーの反証可能性とクーンの科学革命くらいしか知らなかった。1970年代にニューサイエンスブームがアメリカからやってきた。ちょうどこのころは、プレートテクトニクス、ビッグバン理論が紹介された時期でもあった。日本人研究者がビッグバンを補完するインフレーションを主張したことを雑誌で読んだ記憶がある。新しい理論、考え方が大量に入ってきた時代だ。

これら新理論の背景には、観測装置、機器の開発による新発見が大量にあった。海底掘削により、海底の構造が明らかになるとプレート移動の根拠が補強された。電波天文学による中性子星の発見、宇宙背景放射の精密測定などがビッグバンを強固にした。

しかし、プレートテクトニクスには地球膨張論、ビッグバンには定常宇宙論が対抗としてあった。定常宇宙論は主張する日本人研究者がいなかったせいか、比較的すんなりと日本に受け入れられたが、地球膨張論は、岩石学の権威が主張していたため、すんなりとはいかなかったようだ。当時を思い出すとNHKによるプレートテクトニクスの紹介番組や山のように書籍が出たことを覚えている。科学雑誌にも盛んに紹介された。プレートテクトニクスは、学会ではなく一般大衆という外堀から攻められた。その後、地震研究はプレートテクトニクス以外には予算がつかない状態に成ったらしい。

新しい理論は、従来の理論より優れているから普及するといわれるが、このような70年代に起きた事情を知っている者から見れば、明らかに間違っているといえる。かなり科学以外の意図が作用している。研究費という政治的理由がそこには見え隠れする。プレートテクトニクスの導入には、地震予算の誘致があった。

ビッグバンにも同じ事情がある。現在のJAXAの前身である宇宙開発事業団は技術供与などでNASAと提携をしていた。当時のアメリカは、1950年代から続いたヴェリコフスキーとの議論で、かたくなに定常宇宙論、プラズマ宇宙論を否定していた。日本はビッグバン宇宙論を受け入れざるを得なかった。余談になるが、NASA、JAXAの異説を排除する姿勢には、宗教的信仰を感じるほどだ。

前振りが長くなったが、この半世紀の間、科学では何が科学かと言う哲学的議論がほとんどないことがわかってもらえたと思う。とくに1990年代、チェルノブイリ事故以降、日本では科学雑誌が激減して、いわゆるポピュラーサイエンスが終焉した。プレートテクトニクス、ビッグバン理論、学校で教える科学以外をすべて排除する仕組みが出来上がった。STAP細胞の騒動などは、すべてこの排除システムが順当に機能した結果だ。

科学的とは何か? すでにデカルトが明確に指摘している。デカルトは機械的世界観を主張した。機械時計のように自然は部品が組み合わさって動いている。自然を部品に分解して理解するのが還元主義とも呼ばれる、デカルトの機械的自然観だ。しかしこの見方はデカルトの主張の半分しか表していない。自然を物と物で説明することは、物を操作すれば自然を操作できる、これがデカルトの主張の本当の意味なのだ。

デカルトは近接作用で自然を説明することを主張した。近接作用は物と物が直接接することで働く。ニュートンの万有引力は、近接作用に反する、遠隔作用だった。また、当時の天文家が抱いていた惑星間に働く斥力を無視していた。地上と宇宙空間に働く引力が同じ力であると証明されたことは一度もない。引力は物の量に比例するとプリンキピアには書かれていたが、誰も実験で証明できなかった。1世紀後に行われたキャベンディッシュの実験は、鉛が反磁性体であることをファラデーが発見して、否定された(はずだった)。そんなことを知らない実験しない科学者、アインシュタインは万有引力を、数学上の概念である空間を使って、証明してしまった。空間は物ではない。空間を操作することは不可能なので、引力は制御できない力になった。

合理的、論理的に考えることは非常に難しい。たとえばスポーツは何度も基本的な動作を繰り返すことで、次第に複雑な動きを習得していく。小脳には体を動かすための経験が神経パターンとして蓄積される。考えることも同じだ。単純な論理を組み合わせて複雑な論理を組み立てるが、その段階は経験によって練習が必要だ。いきなり、複雑なことを論理的に考えることは出来ない。思考をつかさどる大脳辺縁系に合理的に考えるための神経パターンがない。ほとんどの人は考える訓練をしたことがないからだ。学校ではひたすら教科書を疑問を抱くことなく暗記する。暗記だけの訓練が12年間、長いと16年から18年も続く。学歴が高いほど、合理的に考えることができなくなる。これは脳機能の成長の結果だ。

科学的であることは、若いときに考える訓練を積んで、デカルトの方法論を実践する先にある。思い立ってすぐにできるというわけにはいかない。

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