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抹殺された治療法(08)生物の命(生体磁場=生体魂)

抹殺された治療法(5)古典物理学的な立場に立つ医療の功罪 [1]において、

様々な医療のウソが叫ばれている現在、人類(生物)の根本的な構造や自然界の摂理を知ることが求められており、現代医学とその医療を根底から覆す発見や理論が必要となっているはずです。

と述べましたが、今回はその「自然界・生物の摂理」の世界、特に「ソマチッド」に目を向けてみたいと思います。
以下、長文かつ哲学的な内容になりますが、なぜ今まで「ソマチッド」が発見されなかったのか?
そして、我々の誤り、近代科学の誤りを記したものですので、最後までお付き合いください。

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生きる バウの道中記【ソマチッド概論1】 [2]より引用します。

直径が300億光年とも言われる宇宙の超大な小宇宙磁界(第九次元磁界)を小さく一点に凝縮したものがヒトの持つ「肉体」であり、昔からよくそれは「小宇宙」であると言われて来ました。

宇宙の神秘と生命の神秘は一緒であり、人類の科学が宇宙の謎に対してまだ一つの謎解きも出来てない様に、生物医学界もまた生命の謎に対して、まだ最初の1ページすら開けていないのが実情と言えます。

心と言うものが、肉体からはるか離れた地球磁場圏に存在するこや、あるいは個々の生物の命がその肉体を包み込む「生体磁場」である事実を、我々人類はまだ誰も知らないでいるのです。

「生命の神秘」とは「磁場の神秘」であり、そのカラクリの謎を解く為には、それを知りたいと願う人間自身が先ず「無知の呪縛」から解放される事が先決です。

とかく唯物的な既成観念に囚われた我々は、目に見える物質とそれが示す作用ばかりに気を捕われて、目に見えない本質の存在、つまり物質を動かし、事実上の作用を起こす『命の当体』の存在に気が付いていません。

今回は『ソマチッド』を解説するためのものですが、それを正しく理解するためには、どうしても生物の命(生体磁場=生体魂)を理解しなければ理解のしようもありません。

ソマチッドと言う本源的な物質を語るためには、はるか太古の原始地球の海洋の中で営まれた生命の創成期の時代に回帰する必要があります。

原始海洋に有機物の世界が誕生する以前、そこが熱水に溶け込んだ無機化合物の世界だった頃、有機生命の前駆体とも言える「無機生命体」が大量に誕生しました。

結論を言ってしまえば、その無機生命体から誕生し無機から有機へと繋がる架け橋となるものが『ソマチッド』であると言う話ですが、生命の無機前駆体とは一体何者であって、またそれが一体どのように生体物質とかかわり、またその本来の役割とは一体何であるのか、それを明らかにして行きたいと思います。

■操作する者と操作される物■
物質を分解すれば、有機物や無機物を問わず、化合物単位、原子団単位、原子単位、素粒子単位という具合に、その組成単位がドンドンと小さくなって行きます。

生命の裾野を拡大して解釈すれば、これらの単位の一つ一つが場を囲った『生き物』と解釈できますが、生物という巨視的な存在から見れば、それらは結局の所、体を構成する物質(材料)にすぎず、全体(マクロ)の命に統括される局部(ミクロ)の命だと言えます。

ところで、森(全体)という命が個々の命(木のことを)生かしているのか、それとも個々の命(木)が全体の命(森)を担っているのかと言った「堂々問答」が存在しますが、その正解はたった一つ、個々の細胞の命が肉体全体の命によって統括維持されている様に、最初に森という命の場が存在するから、木という個々の命が誕生しているのです。

木が森を維持しているのではなく、森が木を養っているのです。
その様な意味では、個々の細胞が生きているから、人間(全体)が生きていると言う演繹的な発想は間違っており、個々の細胞を生かしている所の「生命当体」である全体の命の方に、生命の本源が存在し、そのあらかじめ用意された『命の場』の中で細胞群が息づいていると言う帰納的な解釈をしなければなりません。

医学者も含めて、我々現代人が肉体の命(生体磁場)という、臍(へそ)を中心として体の外側に広がる直系が2m四方の目に見えない「エネルギーの場」の存在を知らないと言う事実は、地球人類は生命に対する宇宙的な真実をまだ誰も知らないと言う事なのです。

この様な哲理認識は、生命に対する従来の『唯物的な発想(目に見える物質を中心にした考え方)』とは全く異なる『唯心的な発想(目に見えない場を中心にした考え方)』であり、現代科学が築いて来た、今日の生命観や物質観あるいは宇宙観と言った既成観念そのものを根底から覆す考え方と言っても構いません。

命の正体が『場(磁場)』であって、場が遺伝情報を記憶し、場が神経電流を生み出し、更に場が血流を起こして、場が組織や物質を操作している事実を我々は改めて認識しなければならないでしょう。

しかし、この様な「唯心的発想法」が地球にもともと無かった訳ではありません。人類の祖先は「物事の本質」を悟って、それを後世の子孫に伝えて来ました。

我々現代人はその尊い教えを軽んじ、自由発想に基づく個々の勝手な解釈を優先させた為に、上下や前後の区別すらままならない混沌とした海に迷い込んでしまったのです。

そして今、ようやく間違った科学の軌道を是正しようとする、真理に目覚めた科学者達が続々と出現しつつあって、西欧ルネッサンスと良く似た大きな「一大変革期」が正に訪れようとしています。その動き出した新しい時代の潮流と、宇宙へと通じる未来科学の確かな足音を、みなさんにも感じ取って欲しいと思います。

「色即是空 空即是色」という仏法の教えは「色(いろ)は空(くう)に通じ、また空は色に通じる」という意味ですが、その心とは「色(目に見える形質:物質や肉体のこと)は空(目に見えない本質:運動やそれから生じる場のこと)に通じ、その空こそが色の本源である」と言う物事の成り立ちの原理を教えたものです。

古代中国の古書である易経には「物事の本質は形而上に在って形而下になし」という哲理が説かれており、また古代ギリシヤ時代でも、目に見える物の形相や現象(エイドス)と、それを醸し出している所の目に見えない本源的な存在物(イデア:心=力の場のこと)が追及され、万物万象の具現の様相を奏でている『当体』を見極めようとする哲学が隆盛しました。

祖先が後世の人間達の為に残したそんな尊い教えを、我々現代人は一体どれ程理解しているのでしょうか? 例えば、素粒子という一個の実体を呈する物体は、計量計測が可能な(目に見える)物であり、数学者が安易に考えている様な一定質量を有した『絶対物』だとは限りません。

それが物である以上、物の形態を生み出している所の本源的な何かが必ず存在する筈です。物の体重や質量や電荷など、仏法で言う所の「色」に過ぎなく、それは消えてしまう「空」なのです。

もし、素粒子が宇宙空間に発生した気(空間媒体)の極小の回転体(渦巻き)であるならば、その形態とは気の運動(spin)が奏でているものであり、運動が停止すれば一瞬にして物の形を解いてしまう事になります。素粒子は本来の母源母体(零状態)に帰納して、自己が誕生した宇宙空間に戻ってしまう訳です。

この世の、目に見える物質世界とは、運動によって具現する「仮の姿」に他ならなく、空虚なものに過ぎないが、その空虚な零点宇宙が再び律動し次の運動を起こして、物体(色)を生み出して行くと言う「輪廻宇宙」の総概念を述べたものが「色即是空 空即是色」の教えなのです。

その様な重厚な祖先の教えを、表面的に軽く解釈するのではなく、現実の社会生活や自然現象に対して実際応用しなければ意味がありません。

例えば、地球という物体が自力で自転(スピン)しているのか、それとも目に見えない地球系と呼ばれる空間渦が地球の自転をもたらしているのかと言う、ニュートンが生まれる以前のデカルトの時代から討議されて来た本質的な問題があります。

これは地球自身が運動を起しているのか、それとも外枠の大きな力(場のこと)によって、地球が動かされているのかと言う、つまり「自動か他動か」の大問題です。

現代人がその時出した解答とは正反対の考え方をしている事実を、我々は深刻に受け止めなければなりません。

「自動か他動か」と言う問題は、何も天体運動に限らず人間自身にも在って、肉体が自力で動いているのか、それとも心によって動かされているのかと言う、大問題が昔から討議されて来ました。

もし、心が肉体の中に同居していると言う考え方ならば「自動か他動か」の問題が生じる筈もありません。この問題に対する古今東西の賢人達の結論は、心が体を動かしていると言う解答であり肉体とは遠く離れた空の上に座する「心」が人間の当体だというものでした。

しかし、現代人の考え方はどうでしょう? 現代社会では「心は大脳に存在しない」と主張すれば、頭が狂っていると思われるだけです。

我々はヒポクラテスの弟子達(医者)に、そこまで深く洗脳されている訳です。承知の様に、心とは我を意識し、記憶して判断する自意識の当体です。

もし、医学者の主張通り、それが本当に大脳の中で実際に営まれているならば、焼き場に捨てて来た筈の故人の意識や記憶を「霊」はどうして持っているのでしょうか? そもそも「霊」とは一体何なのでしょうか? 「霊長類・人間」という重厚な言葉の意味を我々は余りにも軽く受け止めてはいないでしょうか。

霊(心)が長じた動物類と書いて「霊長類」、人をやっている期間と書いて「人間」、我々の祖先は「人の正体」をちゃんと知っていたから、この様な魂のこもった的確な言語を配当したのです。

人類が動物をやっている太古の昔から、人間は「霊魂」の存在を認知しており、この世の中にそれを頭から否定する宗教が存在する筈もありません。それが絶対的に確かな存在物だから、語り継がれて来たと言えましょう。

仏法哲学によれば、霊とは心の意であり、それは上空の天体磁場圏に在って、地上の人の肉体魂を支配し宿っている(憑依している)ものだと説かれています。

それは天霊(宇宙意識体)が地魂(肉体を統括する霊:生体磁場のこと)と合体したもので、両者は主従の関係ながら一つの生命体を形成し、一つの生物として成長の途につくが、肉体の衣を纏っている特別な限定期間を人間と呼んでいるに過ぎず、肉体寿命の終息を迎えて、本来の定位置に戻るのが定めのものです。

要するに貴方は「地上の猿では無く、高等宇宙霊体(人)である」事に気が付きなさいと説かれているのであり、猿をやり続ければ、色しか見えないが、我が宇宙である事を悟り自己本体に目覚めれば、色(物質)を動かしている所の空(場=自分)が 見えて来ると言う話に他なりません。

当然、大脳という肉体の一部の特定器官に心が存在する訳もなく、そこは上空の我と地上の肉体を結びつける「通信アンテナ」に過ぎなく、自己の意識も記憶もそこには存在せず、大脳とは単なる送受信機用のハード(機械)と言えるものです。

我々は大脳で物を考えている訳ではなく、空の上の地球磁場圏(磁場位相)の方で意識を囲って判断を下しており、その命令を地魂(肉体の命)管轄下の大脳受信機に伝えているに過ぎません。

自己の感情も欲望も理性も記憶も、心的な営みは全て、肉体では無く空の上に在る事実を、我々は認識しなければならないでしょう。

そもそも、大脳(中枢神経)も感覚器官すら無い単細胞生物が、食べ物の良し悪しを選別し、光や温度と言う物理条件を察知するばかりか、相手が強ければ逃げるし、相手が弱ければ捕まえて捕食すると言う、その単細胞の自意識と判断力と記憶能力は、単細胞の体の一体どこで営まれているのでしょうか?

かなり哲学的な内容になっていますが、人類の祖先たちは、当たり前にこのようなこと=「物事の本質」を悟っていたのだと思われます。我々が同じ思いに至れないのは、「既成観念そのものを根底から覆す考え方」=「知らない」から分からない、どうでもう良い、認めないと考えているのではないでしょうか?

特にこの間、ソマチッドや千島学説など、現在あまり公にはされていない内容を学ぶにつれ、自分たちが考えも及ばないことは科学とは認めない。あるいは認めれば地位が揺らぐ、存在基盤がなくなるなど、私権的な発想によってそれらの発見が封殺されてきた事実があるようです。
知らないことは知らないと認め、赤ちゃんのように全てを吸収する、学ぶことが重要ではないでしょうか。

今一度、原点に立ち返り、
>命の正体が『場(磁場)』であって、場が遺伝情報を記憶し、場が神経電流を生み出し、更に場が血流を起こして、場が組織や物質を操作している事実を我々は改めて認識しなければならないでしょう。<
ということではないでしょうか。

 

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