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森林問題の深層◆2)混迷した林業政策の歴史(2) 平安時代・鎌倉時代の林政

前回 [1] は、「渡来人が伐りまくって近畿圏の大径木は無くなった(古代の略奪)」ことを述べた。
今回は、中世のことをサラッと触れてから、次は、江戸時代の森林事情について見ていきたいと思う。
【平安時代】
◆農地の管理権は、換骨奪胎されて所有権と化す◆
奈良時代後期(8世紀)から課税逃れの偽籍・逃亡・浮浪が増大し、律令制度の根幹たる人別支配課税制度は綻びを見せる。そして、9世紀末から10世紀初頭に政府は、土地を対象に課税する体制へと大きく方針転換した。
それは、民間の有力百姓層(富豪層)に権限を委譲して、これを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括するという支配体制(王朝国家体制)であった。その後特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。
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▲中世の不安定耕地。(歓喜光寺蔵『一遍聖絵』より)
*図版は、こちら [3]からお借りしました。
 ↑もっと知りたい方はこちらをご覧下さい。
受領(ズリョウ)は名田請負契約などを通じて富豪層を育成する存在であるとともに、富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあった。受領は、大きな権限を背景として富豪層からの徴税によって巨富を蓄え、中央官界とも直接結びついて富豪を牽制するなど、受領の統制を超えて権益拡大を図る存在でもあった。つまり、恣意的な地方政治を展開した。
本来、土地は全て天皇のものであり、その収穫物に対して年貢を納めるべきのものであった。国司(クニノツカサ)はその管理を委任された存在に過ぎない。にもかかわらず、その土地利用権を委譲された地方の有力農民は、新たに開墾した土地を貴族に寄進し、改めてその土地を借り受けて農業を営むようになる。
貴族に対する公的な給与が滞るようになってくると、貴族の所有する荘園から納入される官物をもって給与の代替とするために、貴族の所有する荘園に不輸の権(免税の権利)を与えるようになる。
農民にとっては、年貢を納めるよりコストがさがり、貴族にとっては、名義貸しだけで収入が得られるというメリットがあった。そのようにして、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成していった。
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▲国司苛政上訴 *図版は、こちら [4]からお借りしました。
「尾張国郡司百姓等解」は尾張の在庁官人・百姓層が尾張守藤原元命(もとなが)による非法・濫行横法三十一箇条を訴えたもので、この結果元命は国司を罷免された。
参考 「水土の歴」 [5] 「荘園制から戦国大名による支配」 [6] 「戦国時代から江戸時代」 [7]

◆武士の台頭◆
9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始める。朝廷は群盗鎮圧のために東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策をとっていった。
そして、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植していった。
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▲武士の発生と成立 受領と国衙(こくが)より
*図版は、こちら [9]からお借りしました。
12世紀中期に天皇家・摂関家を巻き込む政争が起こり、その勲功のあった平清盛は異例の出世を遂げ、後白河上皇の院政を支えた。しかし、次第に後白河と清盛との間に対立が見られるようになり、清盛は後白河院政を停止して、自らの政権を打ち立てた。
平家支配に潜在的な不満を抱いていた各地の武士・豪族層が次々に挙兵し、平氏勢力や各地の勢力の間で5年に渡る内乱が繰り広げられたが、最終的には朝廷から東国の支配権、軍事警察権を獲得し、朝廷から独立した地方政権へと成長していた武家政権、すなわち鎌倉幕府の勝利によって内乱は終結した。
参考 「10世紀以降の受領と国衙 」 [9]


◆現地赴任の中央貴族、地方豪族による大規模開墾―私有の始まり―
奈良後期から平安時代の社会状況は、前述の通り。
本題の森林政策的には、見るべきものがあるのか? 伐採のすごさに比すれば僅かである。
私権獲得のための対象と化した農地拡大(大規模開拓)は、東北地方の全域が日本の領域に組み込まれたので、古代の森林乱伐は近畿圏であったのに対し、その領域は一気に日本全域へと拡大した。
つまり、「公地公民」や「班田収受法」を旨とした律令制度は、723年(養老7年)に制限付きで水田の私有を許す「三世一身の法」を設けることで綻びを見せ、平安時代になると現地赴任の中央貴族、地方豪族による【私権獲得のための】大規模開墾が始まり、森林への利用圧力は高まりをみせた。
それでも、植林に関する試みは僅かながら進められていく。
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【飛鳥時代】
・676年(天武5年)飛鳥川上流の草木採取を禁じ、畿内山野の伐木を禁じる。
             森林伐採禁止令の最古の記録。
・708年(和銅元年)百姓の宅地周辺における20~30歩造林を許す。
・734年(天平6年)「出雲国計会帳」でクワは300根~100根以上、ウルシは100根~40根
            以上植えるように定められ、貢納された。

【平安時代】
・821年(弘仁12年)大和一円にわたる潅田水辺の山林が持つ水源かん養、
            土砂崩壊防止機能を発揮させる観点から水源の山林伐採を禁じる。
            (水源かん養林の初見)
・866年(貞観8年)常陸国鹿島神宮造営の材料とすべきスギ(4万株)、クリ(5700株)
            を近傍空閑の地に植え、造宮備林とする。
            (林木植栽の記録としては、わか国最古)
・955年(天暦9年)阿波国里浦海岸に風潮除を兼ねて魚つきの用に供するクロマツ林
            を仕立てる。(魚つき林の初見)

【鎌倉時代】【戦国時代】
・1314年(正和3年)仙台領内で紀州熊野産のスギ種子により苗木の養成が行われる。
・1394年(応永元年)京都北山において、初めてスギの台木をつくる。
             (白杉、北山丸太栽培の起源)
・1469年(文明元年)犬居町秋葉神社社有林にスギ、ヒノキの植林。
             (天竜での人工造林の開
・1501年(文亀元年)奈良県吉野川上郡でスギの植林が始まる。
             (吉野での人工造林の開始)
・1550年(天文19年)この頃から植林の奨励がなされ、山林の荒廃、洪水の害を防止
             し、開田事業を保護するため焼き畑を禁じる。
・1570年(元亀元年)仙台藩、海岸一体に砂防林を創設。
・1573年(天正元年)武蔵国高麗郡、稚苗数万本を植え、かつ数十町歩の原野を新開
             して木を増殖する。
・1600年(慶長5年)紀州藩主徳川頼宣が尾鷲(オワセ)地方の人工造林の端緒を開く。

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*「木を植えた日本人の歴史 [10]」より抜粋。
樹木の育成には、時間がかかる。
伐採と植林との関係は、それを織り込んだ『木材利用計画』が不可欠となる。
度重なる災害という現実を前にして、潜在的には、草木採取の禁止(676年:飛鳥川上流)や、大和一円の山林伐採禁止(841年:水源涵養林の視点)、神宮造営備林の促進(866年:鹿島神宮)、飛砂防止・防砂・防潮・魚付林の造営(955年:阿波国里海岸林)など、近代~現代の砂防・水源涵養の基礎概念に相当するものの萌芽が、飛鳥・平安時代に見られることは特筆される。
鎌倉時代以降の戦国時代になると、スギ人工植林(1314年:仙台藩、1394年:京都北山、1501年:奈良県吉野上流、1600年:紀州尾鷲)や、海岸の砂防林(1570年:仙台藩)が見られ、これらは、江戸時代林政の前駆的な取り組みとも考えられる。
◆【鎌倉時代】【戦国時代】:私権獲得の方策は、領地争奪か新田開発
鎌倉時代になると、「二毛作/牛馬耕/深耕が可能な鉄製農具の進歩・普及」などにより、米の生産高が飛躍的に上昇していく。採取生産の時代は林野の占有などは儘ならないが、農業生産基盤としての土地は『占有』が可能となるので、私権獲得の方策は、領地争奪か耕地拡大(新田開発)のいずれかとなった。
百姓は、生産基盤としての土地を守るために武装化し武士層を形成する。奪われれば奪い返すという玉突き現象が戦国時代を形成していく。かくして、古代から連綿と続いてきた木材資源の収奪は日本全土に及んだ。
特に1570年頃からの100年間は築城・建設ラッシュで、亀山・姫路・広島・岡山・松本・金沢・若松・仙台・熊本・萩・福山・江戸城ができた。城が出来れば、城下町が形成される。それらを含めると、古墳時代にも匹敵する大工事の連続であった。
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▲鎌倉時代の建築物の構造がわかる絵図。
 奈良・平安期の大規模構造物に比べ、使われる材は細くなっている。
*図版は、こちら [12]からお借りしました。
一方、新田開発は、室町初期に94万haであったものが、戦国時代末期には163万haになったというから、これまた途方もない負荷を森林に掛けていったといえる。そして、自然林は食いつぶされた。タットマンは、これを「近世の略奪 [13]」と呼んだ。
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▲飛砂により埋没寸前の民家(東北森林管理局)       ▲森林飽和(太田猛彦/NHK出版)より
この時代は、状況改善に向けてのいくつかの先駆的事例はあるものの、森林資源の劣化により、山では常に大量の土砂が生産され続け、河床が上昇し続け、海岸からは飛砂が飛び続け、それらによって地形が変貌をし続ける環境が日本全土に及んだ時代であった。
                                   byびん
  つづく

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