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社会期待の歴史(8)~環境問題を充足課題として捉え直すことで、本当の解決策が見えてくる~

choukokka.gif シリーズ最終回です。

7回に渡って社会共認の歴史を振り返ってきました。

その目的は、環境破壊の原因である過剰消費がどのように近代社会に受け入れられてきたのか?を社会を構成する人々の意思である社会期待という軸で整理すること。

そして、今後どのようにすれば過剰消費に起因する環境問題は解決に向かえるのかを探ることでした。

新しい認識だけが、現実を変えていく・・・ [1]

ここで、現在の環境問題への取り組みを俯瞰してみると、

☆環境問題解決への答えは、みんなが充足できる社会の実現と同じ軸線上にある

不安や危機から規制を強化して環境問題を解決するという現在の環境運動のパラダイムは息苦しいと多くの人が感じています。ここから活力ある未来を想像することは困難だと思います。ここを突破できる新しい切り口は何か?がもっとも大切な論点になってきます。

そこでは、1970年の貧困の消滅以降培われてきた、充足こそ活力源という意識潮流や、要求するだけではなく当事者として自分たちで何かを成し遂げたいという役割欠乏の上昇など、新しい可能性はいくらでもあります。

これらを元に、パラダイム転換への道を探っていきたいと思います。

環境問題のパラダイム転換 1 ~CO2地球温暖化仮説を題材にして~プロローグ [2]

ということになります。このような、危機を訴えることで不安感を煽り、規制を強化するという政策や運動には限界があります。 [2]こままだと目先の脈絡のない規制や強制がどんどん進んでいき、息苦しく活力のない社会になりそうだからです。

そこを突破するためには、みんなが活力を持って環境問題に向かうことが必要です。それには、人々が主体的にこの課題を担っていくことが出来る可能性=実現基盤が必要です。なぜならば、実現基盤が発掘できないままでの方針は、頭の中だけの理想論で現実との乖離を生みだすからです。

ところで、人類の歴史は社会期待(社会意思)に収束することによって実現してきた事実があります。そこからは、社会期待こそが実現基盤であり、それを無視した政策や運動は実現可能性が極めて低いということがわかります。よって、現在の実現基盤(=社会期待)の発掘が今後の社会や環境運動をどうする?という問題の解決のためにはきわめて重要な前提になるのです。

それでは社会期待の歴史と、現代の実現基盤について考えていきましょう。

☆☆☆豊かさ期待が大衆と特権階級をつないでいた時代・・・~1970年

略奪闘争から武力国家時代を経て、西洋では共同体的色彩を残した集団は解体され、恒常的に共認非充足でした。その基盤の上に、市場が開かれ万人が自我・私権の主体となった大衆の共認非充足は、古代、中世に比べて甚だしく大きくなりました。

その共認非充足を埋める代償充足の場が芸術・芸能であり、この芸能(主要には恋愛)を基点とした商品市場こそが近代市場の原動力となり、豊かさ期待と並ぶ、代償充足(解脱埋没)の社会共認が創られてきたと言えます。

また、共同体を失い代償充足(解脱埋没)を追い求めるだけとなった大衆は、ますます傍観者の構造となり、要求するだけ、消費するだけの存在となっていきます。

現代の環境問題の問題構造である「豊かさを要求する大衆」と「私益を貪る特権階級の暴走」が登場したのは、この近代市場時代にあります。そして、それらの構図を生み出した背景には、【豊かさ期待】と【代償充足(解脱埋没)】という、社会を貫通した共認内容が出来上がったことにあります。

社会期待の歴史(5)~市場時代の代償充足と豊かさ期待 [3]

市場社会においては『大衆』と『特権階級』の二つの階層は『豊かさ期待』と『代償充足』という共通の社会共認に収束しており、社会全体の意思は統一されていました。ここで出される特権階級による政策は、大衆の豊かさ期待を受けたものであるため、大衆もそれを支持しました。例えば、池田内閣の『10年間で月給が2倍になる』という所得倍増計画 [4]はその一例です。

これにより、大衆は己の私権獲得を国家が補償してくれるようなものなので内閣を支持します。また、特権階級は大衆の支持を得て獲得した支配身分は安泰になります。この支配・被支配の関係にある2階層をつないでいたのが『豊かさ共認』という社会期待だったのです。

☆自我・私権獲得を正当化し集団を解体していく近代思想

しかし、私権獲得に向かうことは、他者や集団を省みない身勝手な(=自由な)消費行動を行うことや他者を蹴落として上位身分を獲得するなどに直結します。そうすると、豊かさを求めれば求めるほど、共同体は解体され共認非充足は高まっていくという関係にあります。

『自我・私権拡大を原動力』にした市場社会は、このような共認非充足を生み出すのもかかわらず、それが正しいと思われてきました。それは、近代社会の理論的支柱となっている近代思想が、共認動物である人間の本源性に反して、個人を絶対視し、集団がどうなろうとも消費の自由を保障しているからです。

だから、消費をするとき集団のことを考えることはなかったのです。つまり、近代思想は、自我・私権を正当化し、集団を破壊し、過剰消費を促す思想だったのです。

☆代償充足はどのような働きをしたのか?

集団が破壊されれば共認充足は得られなくなります。その共認非充足を埋めるために、代償充足としての芸能が発達していきます。これは、自ら集団に参加して充足を得るなどの本物の充足ではありません。あくまでも、観客(傍観者)として、苦しさを麻痺させてくれる解脱行為でしかありません。

だから、私権拡大の結果、共認非充足が大ききなるほど解脱に埋没していったのです。この麻薬付けのような状態は正常は判断を狂わせ、共認非充足を生み続ける自我・私権の拡大という行動も、なかなか止まらなかったのです。

☆☆☆豊かさ期待が消えて大衆と特権階級が断絶した時代・・・1970年~

☆人々の意識潮流と、政策がずれていくのはなぜか?

温暖化対策でのCO2排出量削減効果より、リーマンショック以降の生産縮小によるCO2排出量削減効果の方が大きいということです。これをもっと普遍化すると、物の消費量を減らしたり長寿命化したりするほうが、CO2排出量削減効果は大きいということです。

そうであれば、生産の縮小や長寿命製品への誘導などが、CO2削減のための環境対策の骨格方針になるはずですが、今はまったく逆です。これは、物的な豊かさやそれを実現するための金を得ることが、環境対策より優先するという価値意識に基づき政策は決定されている、ことを意味しています。

しかし時代は既に変わり、多くの人々の間で、お金に代表される市場価値は最優先ではなくなっています。例えば、人々のこころの中には『もったいない』に代表される、過剰な物的消費はもういらないという意識が芽生え、それよりもだれかと一緒にみんなの役に立つことを成し遂げたときの充足のほうが大切、という意識に変化しています。

そうすると、今政策を決定の根拠となっている価値意識は、多くの人が感じている新しい価値意識と全く正反対になっているということになります。よって、この問題について、なぜそうなるのか?を解明することで環境問題の突破方針も見えてきそうです。ここには、官僚・学者・マスコミなどの統合階級が共通して持っている価値意識が関連しています。

環境問題のパラダイム転換 1 ~CO2地球温暖化仮説を題材にして~プロローグ [5]

のように、多くの人々が感じている意識と、特権階級が感じている意識がずれているという問題があります。これを社会期待という切り口で見てみます。

まず、日本が経済成長の真っ只中にあった時代に、大衆も統合階級も同様に持っていた豊かさ期待という社会共認が、大衆側から大きく変貌を遂げていること。しかしながら、統合階級側は、未だに古い豊かさ期待に則ったままの政策しか出せず、意識の転換が出来ていないという構造が見て取れます。

そこで、この間の意識潮流を見てみると、

’70年、豊かさの実現によって私権意識が衰弱し始め、

’90年、バブル崩壊によって豊かさ期待がほぼ消滅し、

’08年、世界バブル崩壊によって私権観念が死亡した。

’10年、豊かさ期待に代わって本源期待が生起してきた。これは、共同体の時代が始まったことを意味する。

社会期待の歴史(1)~プロローグ~ [6]

のようになります。つまり、大衆側は、近代思想も豊かさ期待も代償充足も、この40年の間に次々と捨ててきたことを意味します。

そして大衆の次の収束先は、代償ではない本物の充足に変わってきました。社会期待という側面では、人間の本源性に由来したという意味で『本源期待』ということになります。その中身の共通項は、本物の共認充足の実現であるため、共認充足を得るための人や仲間や集団に向かっています。

そこでは、自分のことしか考えない従来型の消費や、仲間との充足を阻害する私権獲得競争は忌避されます。その結果、みんなのことを考えた消費としての『もったいない』という意識や、みんなの暮らす場を考える環境運動などの本源的な意識が芽生えてきたのだと思います。

ところが特権階級は、大衆が私権獲得に無関心になったことをいいことに、ますます、支配身分の安定という私権行使へ暴走していきます。このように、大衆と特権階級をつないでいたの『豊かさ期待』が消えて、大衆は『本源期待』へいち早く転換し、特権階級は『豊かさ期待』のままであるということが、人々の意識潮流と政策がずれて、環境問題が悪化する理由だったのです。

☆☆☆過剰消費はなぜ起こるのか?

このように見ていくと、過剰消費とは共認動物である人間の判断が狂ってしまっていたから、引き起こされたということになります。その原因は、本源性に反した、近代思想や豊かさ期待を共認して私権獲得に没頭し、その結果引き起こされる共認非充足を埋めるために代償充足(解脱埋没)で麻薬付けになって思考停止していたから、ということになります。

現に貧困の消滅以降、ここを脱して共認充足に向かった大衆は、過剰消費の対極にある『もったいない』という意識が芽生えています。これは、潜在的な私有意識から共有意識への転換とも取れ、消費することもみんなと繋がっているという感覚の芽生えとも考えられます。

☆☆☆実現基盤は本源期待

そうすると共認非充足から、本物の共認充足への流れが加速すれば、過剰消費は止まります。また、環境破壊の問題は、廃棄の量が自然の浄化(復元)能力を超えているという過剰消費の問題であることから、みんなの充足を実現したいという本源期待の登場は、環境問題解決への重要な実現基盤になります。

☆☆☆特権階級の暴走は、大衆が自ら充足課題として政策を担うことで止められる

大衆と特権階級の共認内容の差は深刻です。大衆側の『本源期待』に則った政策であれば、環境運動は解決に向かいます。しかし、特権階級側の『豊かさ期待』に則った政策であれば、環境問題を助長する政策にしかならず、やればやるほど問題が混沌としてゆくと同時に、彼らの特権だけが強化されていきます。

ところで、彼らが暴走し始めた理由の一つに、大衆側の政策への無関心(=傍観者)であること、があります。これを大衆側が当事者として環境政策を担う体制にすれば、特権階級というなんら生産を担わない階級自体がなくなります。と同時に、自分たちの社会を自分たちで創っていくという充足課題が大衆の手に戻ってきます。

これによって、特権階級の暴走はなくなり、大衆側の本源期待は満たされることになります。

参照 環境問題の改革を進めるには、新しい社会統合機構が不可欠!8『官僚制の突破口は、「半専任・半事業⇒参勤交代制」』 [7]

☆☆☆本源期待の実現は『消費の縮小=社会の破綻』ではなく『(物的)消費の縮小を新しい生産活動の活力につなげてくれる』

社会共認が本源期待に移行して来た現在、環境問題を解決する役割を担う当事者になることと、共認充足を得ることとは一直線に繋がります。このような活動自体にフィーが支払われることが出来れば、活力も上昇し経済活動も活性化します。

例えば、『次代を担う、エネルギー・水資源』水生圏の可能性、水力エネルギーの活用8. 小水力発電の実現基盤を探る! [8]のように自分達のエネルギーは自分達で創ることで活力を上げている地方自治体があります。

このように、自らの社会を自ら創っていくという新しい役割を創出することが本源期待の重要な中身の一つだとと思います。

よって、もう既に私権獲得に意味を感じなくなった現在、環境問題の解決に向けた(物的)市場縮小政策は社会を統合できないという常識は誤りであると断定できるのです。むしろ無理やり市場拡大を推し進める今の政策こそが本源期待に反しているため実現基盤はなく、破綻に向かうのです。

つまり本源期待の実現は『消費の縮小=社会の破綻』ではなく『(物的)消費の縮小を新しい生産活動の活力につなげてくれる』のです。このような認識を作り出し、広めていく充足場を作ること=パラダイム転換を促す場を作ることが、当面の本源期待なのかもしれません。

おわり

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