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『次代を担う、エネルギー・水資源』水生圏の可能性、水力エネルギーの活用4. 水主火従から火主水従へ(電力政策と発電方式の変遷) 明治期から高度経済成長期 <前編 >

前回は、水力エネルギーが電気エネルギーの利用へと、どのように移行していったのかを明らかにしました。
 今回は、シリーズ4回目、日本の文明開化~戦前・戦後と日本の水力発電とその歴史を、時代を追って見ていきたいと思います 😀
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私たちの生活にとっての電力(=エネルギー)、そして発電所の役割や位置付けを改めて歴史をさかのぼり確認していく事で、これからの日本に必要なエネルギーシステムを考える上でのヒントが得られるのではないでしょうか?
 
だって、そもそも明治の初め(たった120年前!)には、電気や電灯なんか一つもありませんでした。それでも約3300万人もの人々が、日本国の中で普通に生活していたのですから!
「え~!?」
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66①明治期
殖産興業富国強兵を支える発電事業 文明開化の時代、電気の登場 
 
長い鎖国の時代が明けて、西欧の文明に驚きと感動の連続だった文明開化の時代、街にはモダンな西洋文化があふれます。その象徴の一つが電灯照明でした。
工部大学校において日本で初めての電気の光が輝いてから4 年後。1882年(明治15年)に東京・銀座で、日本で初めての街灯(アーク灯)が点灯します。
 
東京電燈会社(現東京電力の前身)が、創立事務所を設けた銀座2丁目大倉組前(現在の松屋銀座店の向い)において、会社設立と電灯の宣伝を目的に、アーク灯を点灯するデモンストレーションを行ったのです。これが、一般の人が見た初めての電気の光りです。そして、そのデモンストレーションには連日大勢の人が見物に押しかけたといいます。
 
同社の開業50年史には、「錦絵に表れた電気事業事始」として次のように記されています。

「・・・・・米国ブラッシュ商会ボッター・フヒッフ両技師が出張し、その持参した発電機によって二千燭しょく光の孤アーク光燈を点火し、警視総監・府知事を初め朝野の紳士を招請して電気燈の公開実物宣伝を行った。上の絵はそのときの光景でガス燈はおろか石油ランプさえ全国に行きわたらないころのこととて、電燈の光こう芒ぼうに全く肝をつぶし、“世界で一番明るいのはお太陽様その次はお月様、三番目はこのアーク燈だというので、引きも切らさずの人だかり”・・・・・」

 
街灯としては、アーク灯に先行して明治5年にガス灯の火が横浜や銀座・京橋に灯りますが、その明かりはとても弱く、電気を使ったアーク灯の足元にも及ばないものでした。しかし、当時はまだまだ夜道の明かりといえば月明かりや星明り、人工照明でも石油ランプや蝋燭がせいぜいの時代だったので、それでも街を照らすには十分だったのです。だから、明るさでいえば一番がお太陽様・二番がお月さま、そして三番にアーク燈といわれたのも、当時の人々からすれば決して大げさな表現ではなかったのだと思います。
 
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たった一つのアーク灯が、太陽や月明かりの次に町を明るく照らしだす。まさに文明の力で、それまで日本人にとって絶対不可侵だった夜の闇が昼になっていく。このイベントは、現在の私たちの生活につながる、まさに日本の夜明けとしての象徴的な出来事だったといえるかもしれません。
 
 
その後、初めての発電所が登場し、電灯は白熱灯の発明・普及と共に、東京を中心に急速に生活の中に浸透していきます。さらにエレベーターや電車など、電気は動力用としても利用されはじめ、次々と全国に発電所が建設されていきます。
 
それでは、これから以下のエポックメイキングな発電所の歴史を、古い順からみていきましょう
 
明治20年(1887年)茅場町電灯局/火力25KW
明治22年(1889年)古河足尾・間藤発電/水力300KW
明治25年(1892年)蹴上発電所/水力160KW
明治30年(1897年)浅草発電所/火力200KW
明治37年(1904年)千住発電所/火力4500KW
明治40年(1907年)駒橋発電所/水力発電1万5000KW
 
 
 
 
明治20年、日本初の発電所(火力)が完成 茅場町電燈局
火力発電 25KW 直流
 
世界ではじめて火力発電所をつくったのは、かの発明王のエジソンです。その時の燃料は石炭で、ニューヨーク市に電力を供給するためのものでした。1881年のことです。
 
そして、その僅か6年後の1887年にその技術が日本に導入されます。それが日本初の発電所、東京の南茅場町に設置された石炭を燃料とした火力発電所です。それは30馬力の横置蒸気機関をもつ、25kwのエジソン式直流発電機が1台の、小さな小さな発電所です。そこから、日本郵船や今村銀行、東京郵便局などに送電線を使って電気を供給したのです。電圧は210Vで、この発電所でつくる事ができる電力は、なんと白熱電球わずか1600個分だけだったそうです
 
しかし、この頃は電燈以外に電気が使われる事はなく、これで十分な電力量だったのです。またこの頃は、電気を電燈のみに利用していたため、発電所は電燈局と呼ばれていました。なんとも風情のある呼称ですね♪
 
この南茅場町の電燈局は日本で最初に発電を開始しましたが、名称は第二電燈局です。なぜかというと、ほぼ同時に5カ所の電燈局ができ上がったからです。しかし、その全ての発電所で発電する電力も、わずか白熱電燈で9600個分にしか過ぎませんでした。
 
しかも、この頃の送電方法は現在とは異なっていました。
 
現在は長距離の送電を可能にするために、交流の電流を流しています。しかし当時は直流で流していたのです。したがって大きな発電所ではなく、小さなものを複数個同時につくった理由には、この送電方法もあったのです。そしてその送電可能範囲はわずか数kmであったといわれています。
このように日本で始めての発電所は、照明用の火力発電で直流を送電していたのです。そして、直流であるが故に、送電距離が非常に短く、小さな火力発電所をいくつも作る必要がありました。
 
 
 
明治23年 日本初の水力発電所の完成 足尾・間藤水力発電
水力発電 300kw 直流
日本で始めての水力発電はというと、日本を代表する大銅山、足尾銅山の産業用として建設されました。
 
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なんで銅山?かというと、その銅の採掘の為の坑内の排水、坑内運搬用の竪坑捲揚機、坑内電車、電灯など鉱山関係施設の拡充に伴う電力需要の増大に対応するため必要だったからです。
 
足尾銅山の所有者である古河財閥は鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手します。銅の採掘に必要な電灯の必要から自ら発電所を建設したのです。(そして、この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになります。) 
 
 
明治24年 日本初の営業用水力発電所 蹴上水力発電所 
水力発電 水車型 160kw 直流
その翌年の明治24年に、日本初の営業用水力発電所が京都に誕生します。琵琶湖疎水を利用してつくられました。蹴上発電所は、日本最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行いました。まだ送電は直流で発電量は160KW程度のものでした。
 
明治30年 日本初の交流送電発電所 (火力) 浅草発電所 
火力発電 蒸気往復型 200KW 交流
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ここから現代に繋がる交流発電・送電の歴史がはじまります。送電の交流化により送電距離が直流に比べて長くなりました。しかしまだまだ出力は小規模です。(この発電所では国産第一号の発電機とドイツ製の発電機が用いられましたが、実はなんと!このドイツ製の発電機の交流周波数が50Hzだった事が、その後の東日本の50Hzを決定付けたのでした。) 
 
 
明治32年 日本初の高圧送電水発電所の完成 郡山沼上発電所 (水力) 
水力発電  水車型 2100KW 交流高圧送電
沼上発電所では、交流送電技術に次いで日本で初めて高電圧送電の技術が用いられました。日本の高圧送電の草分けです。発電出力も一気に2100KWの大容量となり、11000Vもの高圧で送電する事が可能になり、電気をたくさん発電して、たくさん、しかも遠くまで送れるようなったのです。(とはいっても猪苗代湖から郡山市内までの15キロ程度)
 
明治37年 日本初の高出力蒸気タービン火力発電所 千住発電所
火力発電 蒸気タービン型 4500KW 交流
明治37年に日露戦争が始まります。電力不足に悩んだ東京電灯は、さらに巨大な発電所を設置します。それがこの千住火力発電所でした。これは日本初の4500KWの電力を生み出す高出力蒸気タービン発電所でした。
 
明治40年 日本初の特別高圧長距離送電発電所 駒橋発電所 (水力)
水力発電 水車式 1万5000KW 交流 特別高電圧長距離送電
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やがて、日露戦争などの影響による産業政策で石炭が慢性的に不足するようになり火力発電では増加する電力需要に応じきれなくなりました。 
そのため東京電燈は、水力発電による東京への長距離送電を計画しました。長距離送電技術の研究と水利調査などを経て山梨県大月に「駒橋発電所」をつくり東京(早稲田変電所)へ初めて水力発電による長距離送電を開始します。
 
駒橋発電所は、出力15000KWという、当時としては日本最大の水力発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76km(当時・日本最長)を55000Vの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなりました。(ちなみに現在のもっとも高い高圧送電が500000Vですから約10分の一まで技術的に可能になったということです)
 
 
明治に爆発的に消費電力が拡大・発電所の主流は水力となった 
明治時代には発電所の誕生から急ピッチで次々新技術が導入され、高出力化・高機能化・遠距離送電化した発電所が次々と建設され、最終的には大型水力発電による大容量の高圧送電が日本の発電所の主流になっていきました。 
 
さて、当時の東京周辺の電灯数で見てみるとどうなるかというと、明治21年の138灯が
・明治34年……5万灯
・明治35年……6万灯
・明治36年……8万灯
・明治37年……9万5000灯

となり、明治36年上期28kWだった東京周辺の電力供給量は、翌年明治37年上期で一気に1094kWと激増の一途をたどりました(ちなみに現在の東京電力の最大供給量は約6000万kWです。)
 
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これはなんと、明治45年当時の大阪・新世界の風景です。現在では全く面影がありませんが当時は、まさに新世界といった一大テーマパークだったのです。一際目立つタワーが初代の通天閣の姿です。日本が文明=電気に期待収束していた時代の空気が伝ってきますね
 
 
 
②大正から昭和戦前・戦中 火主水従時代
 
大正4年 猪苗代水力第1発電所 本格的大型水力発電の時代へ

 
猪苗代水力第1発電所は東京の産業の発展と共に必要となった大量の電力を供給するため、福島県に建設されました。東京の田端変電所までの225キロメートル!を送電線で結び、なんと11万5000ボルト!という高圧送電を行ったのです。そして、これがその後の本格的な日本の大規模水力発電所時代の幕開けとなりました。
 
このように火力発電と電燈の普及から始まった日本の発電所の歴史は、初期には直流送電が故に小規模分散型からスタートし、その後水力発電が登場。火力発電の都会型に対して水力発電は、おもに山間部型や都市隣接型として平行して建設されていきました。
 
同時に電燈の一般家庭への普及と共に、電車やエレベータ、工業用動力などの社会的な電気需要が急速に上昇していきます。 
 
その後、電気需要の高まりと共に、交流送電技術や高圧送電技術が発達していきます。そして、大量に発電して大量に遠方に送れるようになると、大規模発電所の建設が比較的容易な山間部の水力発電所に軍配があがり、火力発電に必要な燃料の高騰とも相まって、燃料費のかからない水力発電が日本の主流になっていくのでした。
 
こうして大量の電力を一箇所でまとめて発電し、遠距離都市に高圧で電気を大量に送電する日本の現在の電気=エネルギーシステムの原型が、日本各地の山間部の水力発電所によって形成されていったのです。そして、平行して日本の人口もこのわずか60年間で7000万人へと倍増しました。
 
 
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毎年の水力と火力の年間の発電量(KWH)を、本格的な近代化に乗り出した大正3年から水・火比率が逆転した昭和37年の間を中心にして、百分比で表したもの。水力が発電の主である事が分かります。 
 
 
 
③昭和・戦前・戦中 富国強兵の時代、電力会社の編成
第1次世界大戦から太平洋戦争に至るまでのこの時代、軍需景気にわき工場動力の電化が進みます。東京市内の家庭には電灯が完全普及。ラジオ放送が始まり、百貨店も開店しました。
 
しかし人々の生活は相次ぐ戦争に翻弄されます。戦雲の漂うなか電力はやがて国家に管理され、昭和に入ると戦時体制確立のため、当時数百社あったと言われる電力会社を、発電と送電を全国一社にまとめ、日発という半官半民の国策会社を設立します。昭和13年の国家管理法成立です。 
 
そして太平洋戦争に突入した後には「ぜいたくは敵だ」の声のもとに電力消費規制が行われていくことになるのです。
 
それでは、後編につづきます

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