このシリーズも6まで来ました。
今回は、益々酷くなる『官僚の暴走と無能化』
について考えて行きます。
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■’09年末なんでや劇場ノート1~偽ニッチの罠に嵌った特権階級
●’09年は「特権階級の暴走と無能化」が決定的になった。
’09年は脱官僚、政権交替、事業仕分けと大衆の特権階級への疑念が顕在化してきた1年でもあったが、他方で、既得権益を死守せんとする、特権階級の暴走、そしてその無能ぶりが明らかになった年でもあった。
小沢・鳩山といった「政治主導」を掲げる政治家たちへの執拗な「司法権力(検察)の脅し」そして「共認権力(マスコミ)の中傷」。小沢に食ってかかった宮内庁官僚の発言。普天間における国益を無視し防衛利権に固執し続けるマスコミの売国的報道。菅谷さん事件のような権力犯罪。・・・・「国民のため」という大前提を喪失し、自分に都合のよい正当化観念を掲げて、己の利権拡大に固執するばかりの「特権階級」の暴走はあまりにも目に余る。なんといっても検察もマスコミも権力の一角を担う以上、絶対不可欠な「公正・中立に対する配慮」を投げ捨てて、偏向し、裁量権を拡大利用するその姿はまさに「暴走」というしかない。
しかも国民のため、みんなのためという対象性を喪失した言説、政策方針は、現実を混乱させるばかりの失策続きである。その結果「官僚は無能」と大衆からそっぽを向かれつつあるにも関わらず、そのような現実すら理解できていない、というのだから、もはや「無能」の極みでもある。
●果たして歴史上、ここまで特権階級が暴走し、無能化したことはあっただろうか。
古代(武力支配)国家において、国王が暴走することはあったが、国王の臣下である官僚や学者が暴走を起こすことはなかった。また国家統合という課題を忘れ、序列に胡座をかくものは、下克上や革命によって転覆させられる。その意味では、古代国家は、力と力がぶつかり合うが故に、無制限な特権階級の暴走は食い止められていた、ともいえる。
ところが市場社会になり市場権力(金貸し)が国家権力を上回るに至ると、暴走に歯止めが効かなくなる。事実、戦争の規模は近代になって何十倍にも膨れあがっていく。
とはいえ、貧困が消滅する’70年以前は、国益の拡大=国家私権の拡大=国民利益の増大、というベクトルを逸脱するような売国的行動には国民の監視圧力も働いており、それ故にそれなりに三権分立も機能していたし、マスコミも司法も「公平・中立」という大原則を逸脱することはなかった。
ところが’70年以降、国民の私権圧力が衰弱したことをいいことに、特権階級は権力行使と己の私権確保に埋没するようになり、売国的行動が多発するようになる。つまり私権圧力衰弱下での少数私権派の反動的勢力拡大である。つまり、特権階級は偽ニッチの罠に落ちたのである。
つまり、私権圧力が低下したために、それまで、官僚を初めとした統合階級の暴走をある程度抑えることができていた圧力がなくなり、結果として、未だに私権に執着する一部の少数派が、野放し状態になり、郵政民営化に代表されるように、自らの私権を確保するために、日本国民の優良資産を外資へ売り渡すような売国行為が、まかり通るようになった。そして、当然のことながら、成果に対する評価圧力が働かないために、言い換えれば、もはや私権には執着しなくなっている大半の人々は、関心が薄いために、統合階級は、とことん無能化して行く過程をたどる。
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潮流7:暴走する社会(特権階級の暴走と下層階級の暴走)
私権原理が崩壊し、社会が統合軸を失うと、歯止めを失って社会は暴走してゆく。無差別殺人やモンスターペアレンツの登場もその一例であるが、最も恐ろしいのは、社会を統合する役割を担っている特権階級の暴走である。
経済危機が生み出す危機感は、現体制の上位の者≒特権階級ほど切実であり、強い。従って、目先の制度収束は、上位≒特権階級主導で形成されたと見るべきだろう。
実際、授業や試験に収束しているのは、上位の子供たちである。何よりも、特権を維持するために自分たちに有利な制度を作って格差を拡大し、身分を固定させてきたのは、専ら特権階級の仕業である。
大多数の私権意識が薄れていく陰で、ひとり権力喪失の危機感を募らせた特権階級は、その飼い主たる金貸しや国際企業を含む自分たちの特権を維持するために、優遇税制をはじめ様々な特権制度を強化し、その結果ますます格差を拡大させ、身分を固定化させてきた。
とりわけ、団塊世代以降の特権階級は、貧困を知らず、本当の私権圧力を知らない。従って、彼らは、肉体的欠乏に発する本当の目的意識を持ち合わせていない。彼らは、単に試験制度発の「合格」という無機的な目的意識を植え付けられてひたすら試験勉強に励み、「特権」を手に入れた連中である。しかも彼らの大半は、試験制度という与えられた枠組みの中でひたすら「合格」を目指してきたので、その前提を成す枠組みそのものを疑うという発想が極めて貧弱である。
従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の枠組みの中で走り続けることになるが、もはやそこでは、既存制度によって与えられた特権の維持と行使という目的以外の目的意識など生まれようがない。
かくして、団塊世代が幹部に就いた’00年以降、彼ら特権階級はひたすら与えられた特権を行使し、次第に「社会を動かし」「世論を動かし」ているという支配の快感に溺れてゆくようになって終った。
それだけではない。危機に脅えた特権階級は、アメリカの力に拠り縋り(その結果、アメリカの言い成りになって)中立公正も何もない露骨な偏向・煽動報道によって小泉フィーバー、郵政選挙を演出し、更には検察とマスコミが一体となって、鈴木宗男、佐藤優、植草一秀、小沢秘書etcの政敵を失脚させてきた。
これは、麻薬中毒よりももっと恐ろしい、権力の自家中毒である。
改めて、我々は、私権時代の遺物である試験制度の恐ろしさを、もっと真剣に考える必要があるだろう。この目先の試験制度収束は、新たな学歴身分と格差の拡大を生み出し、特権階級を暴走させただけではなく、ネットという闇空間での誹謗中傷や無差別殺人etc下層階級をも暴走させてきたからである。
とりあえず、ペーパーテストの比重を半分以下に低減させるetcの応急措置が急がれる。又、ネットから闇住人を締め出す措置も急がれるだろう。
しかし、根本的には、私権原理に代わる新たな統合原理=共認原理が確立されない限り、社会の暴走は続くことになる。
考えて見れば、一部の私権派による暴走は、何も特権階級に限ったことではなく、大衆においても、同じであり、私権に替わる新しい統合原理を生み出さない限りは、本質的には解決しない。
そして、何より、深刻なのは、特権階級においては、その私権の枠組みの中でしか思考できないこと、その枠組みを死守することにしか意識が向かわないことである。従って、そこから、新しい次代の可能性が登場する可能性は、ほぼ0である。
そして、その典型が環境問題であり、本質的には、環境問題とは、「市場経済をどうする?」と言い換えても良いくらいのものだが、現在の施策は、市場拡大を目指すことが前提、もしくは、それが目的そのものであることを表面上は隠して、「環境」、「エコ」をネタに、益々、環境を悪化させる行為を繰り返している。
例えば、「エコポイント制度」などは、典型で、その対象となった商品(ex.薄型テレビ)は、一時的には、販売数、売上が伸びるかも知れないが、それは、単に、需要(購買)が前倒しになっただけで、需要拡大(物的市場拡大)したわけではない。さらに、その制度を運用するために必要な経費は、結局、我々が負担しているのであり、マッチポンプに過ぎない。
貧困が消滅し、モノが欲しくなくなった現在、市場は、拡大停止、縮小せざるを得ないという基本認識に立てば、従来の延長線上での拡大路線ではなく、新に、社会にとって必要な事業を創造してゆくという発想も出てくるし、本質的には、市場拡大が引き起こした環境問題を解決できる好機が到来したとも言える。
その意味で、環境問題とは、科学技術の問題ではなく、思想(認識)の問題と言っても良いでしょう。
では、次の投稿では、そんな官僚の背後から彼らを操っている「金貸し」との関係にスポットを当てて行きます。